カテゴリー「ラテンアメリカ分室」の記事

2009年9月23日 (水)

それからのホンジュラス(3)

それからのホンジュラス(3)
2009年9月23日午後12時現在

ホンジュラス情勢が緊迫しています。情勢をどうみたらよいのか、この1週間の動きを整理しました。

ホンジュラス問題を分析する場合、次の5点がキイ・ポイントと考えます。
① 軍事クーデターによる民主的に選出されたセラヤ大統領の国外追放は認められない。
② したがって、セラヤ大統領の無条件の復帰が必要。
③ クーデター首謀者たちと打倒された合法政権を同等に扱い、喧嘩両成敗とすることは正しくない。
④ 問題の解決は、平和的に行われなければならない。
⑤ 問題の解決は、あくまでホンジュラス国民が行うもので、国際社会の協力は①-④の支援を行うことである。

しかし、現実政治は、各国の思惑、いろいろな指導者の思惑で様々な行動、発言が行われます。しかし、長い目でみると、時々の情勢でどういう勢力が政権につこうと、この5点の論理は、国民の力によって必ず実現されるものです。

そうした意味からは、筆者は、セラヤ大統領と、ルーラ代大統領の次の発言が、もっとも妥当と考えます。
9月22日、セラヤ大統領、「クーデター派は、国際社会は対話による平和的解決を求めているのに、国民に対し、暴力と弾圧で応えている」。
9月22日、ルーラ大統領、「ブラジルは仲介役を果たすつもりはなく、インスルサOAS事務総長の仲介を支持する。60年代と違い、指導者の好き嫌いは、選挙で決めればいいことだ。したがって民主的に選出されたセラヤ大統領を支持するのである」。

9月22日、インスルサ事務総長、「セラヤ大統領の帰国は、平和的解決の良い機会である、クーデター後3カ月経過したが、暫定政府を承認した国は一国もないことを銘記すべきだ」。

これらの発言は、次のクリントン国務長官、アリアス大統領の発言と対照的です。
9月21日、クリントン国務長官、「セラヤ大統領の帰国を歓迎し、双方が話しあいで平和的に解決することを望む、アリアス大統領の仲介を推奨する」。
9月22日、アリアス大統領、「双方がホンジュラス以外のサン・ホセで会談するよう提案する。合意は修正可能である。双方が交渉することを望まないなら、暴力が増大するだけで、流血をまねくであろう」。

続きは、添付書類を参照。「09.09.23 それからのホンジュラス (3).pdf」をダウンロード

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2009年9月 2日 (水)

それからのホンジュラス(1)

クーデターの勃発以後、2か月が過ぎた。8月25日のOAS(米州機構)の調停も不調に終わり、セラヤ大統領派、クーデター派双方のせめぎあいは、持久戦模様である。その一番の原因は、アリアス・コスタリカ大統領の奇妙な和解案にあるようである。この和解案を、アリアス大統領自ら、「サン・ホセ合意」と呼んでいるが、肝心のその内容はあまり、吟味されていないようである。

和解案をめぐって、合法政権のセラヤ派、無法のクーデター派、それと影では連携する米国、OAS諸国の意向を背景に解決を図るインスルサOAS事務総長、クーデター事件をラテンアメリカの民主主義の根幹と考えるセラヤ支持の国々、表面的にはセラヤを支持するものの、本心はセラヤ政権の消滅を願う国々の間で、虚々実々の駆け引きが行われている。

一方、国内では、クーデター事件と、その後のクーデター派による反対派への弾圧に対抗して反クーデター国民戦線、ホンジュラス反クーデター自由党調整委員会(自由党の70%が支持)、反クーデター女性全国戦線が結成され、国民の抵抗運動はこれまでホンジュラスに見られなかった強力なものに成長し、連日、数千人から、二万人の抗議運動が展開されている。

クーデター派は、アリアス和解案に接近したり、離れたり、新たな提案をしたりしながら時間を稼ぎ、セラヤ勢力が財政的に疲弊して、抗議行動が退潮するのを待っているように見える。また、なんとか、総選挙を実施すれば、その時点に限っては「民主的な体裁」をとることができ、主役をミチェレッティから新「大統領」に変えれば、クーデターのみそぎもできると考えている。クーデター派内部で「民主的に」総選挙を行えば、当選はだれでもよく、ALBA(米州ボリーバル的統合構想)に加盟し、将来は多国籍企業と寡頭制支配の体制を覆されることはなんとしても避けて、これまでの支配体制を維持することが大切なのだ。

しかし、クーデター派には、海外世論の圧力と少なからずの国々との断交、EUをはじめとする国々の援助停止が、ボディブローのように効いて経済を次第に悪化させており、公立病院で医薬品不足、8月分公務員、教師の賃金支払われないという事態が生じている。米国が援助を停止さえしてくれなければ困難な事態を乗り切れると思っているようである。

そして、クーデター派は、和解案への強硬な反対を続けられるだけ続ければ、妥協線はそれにつられて右寄りに移動し、最後に受諾すれば、和解が成立したことが評価され、和解の内容が非民主的なものであるとの非難をかわすことができるというシナリオがあるのかもしれない。それは、意外と米国=アリアス=ミチェレッティの合意ラインかもしれないのだ。

続きは、添付のPDFを参照ください。
「09.08.31 それからのホンジュラス (1).pdf」をダウンロード

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2009年7月12日 (日)

ホンジュラスにおけるクーデターの真実 (終)

ホンジュラスにおけるクーデターの真実
ささやかな分析

 セラヤ大統領が実施しようとした「国民投票」に、今回のクーデター事件は端を発しているように一般には論じられているが、はたしてそうであろうか。

 まずはっきりしておかなければならないことは、セラヤ大統領が、6月28日に実施を提唱していたのは、国民協議投票(Consulta popular)であり、レフェレンダム(Referéndum: 国会で承認された案件を国民に賛否を問う国民投票)でもプレビシット(Plebiscito: 政府の構成や国の政体など国にとって最重要な課題で、事前に承認されていない案件について国民に意見を問う国民投票)でもないということである。この二つの国民投票の定義と実施方法は、現行憲法の第5条に峻別され詳述されている。
 
 しかし、セラヤ大統領が、6月28日に国民に意見を聞きたかったのは、「あなたは、2009年11月の総選挙において、新しい憲法を制定する全国制憲議会を招集することを決定するために第四の投票箱を設置することに賛成かどうか」であった。セラヤ大統領の再選規定はおろか、大統領の任期の改正なども含め、新憲法の内容はまったく提起されていなかった。つまり、レフェレンダムでも、プレビスシトでもなかったのである。もちろん、11月29日の大統領選挙には立候補していなかった。つまり、国民協議投票は、憲法第5条とは関係なく、11月29日の別の国民協議投票の是非についての事前の協議投票であった。
 
 ところが、6月23日、国会は、セラヤ大統領が自身の再選を考えているとして、28日の国民協議投票の実施を多数決で禁止したが、国会は、憲法第5条では二つの国民投票の実施と、その細則を決定する権限をもっているが、憲法第5条とは関係がない国民協議投票を禁止する権限はもっていないと憲法学者により指摘されている。また、最高選挙裁判所も最高裁判所は、本来、国民協議投票そのものを違法とする権限もなければ、国会決議に基づき国民協議投票を違法とするのも法的にはおかしなことであった。
 
 また、26日に大統領の指令に不服従のかどで、解任されたバスケス統合参謀総長を最高裁が復職させたが、行政権に属する軍隊の人事に司法権の最高裁が介入する権限はないのは明らかである。さらに、国民協議投票が違憲であり、それを実施する大統領を逮捕して国外に追放するのも、また国外追放という既成事実の後で、国会が偽の辞職手紙を代読して(ベネズエラのクーデター未遂事件の折も、偽のチャベスの辞職手紙が流布されたことがある)、現職の大統領を解任したことも、順序が逆であるだけでなく、いかなる法律にも基づかない違法行為である。国民協議投票に意見があれば、それは法的に争えばいいことであり、かつそれが実行された場合には、投票において次回の制憲議会招集を否決すればいいことである。さらには、今回、制憲議会招集是非投票が承認されても、次回の国民協議投票で、道理があれば制憲議会の招集を否決することができるのである。したがって、セラヤ大統領が、18件の違法行為をおかしていると強弁しているが、実際に数々の違法行為は、クーデター派にあることは明白である。
 
 さらには、セラヤ大統領と、ミチェレッティの数日間の発言を比較してみれば、セラヤ大統領が、ホンジュラスの自決権の堅持、民主主義の擁護、民主主義的手続きの重視、社会改革への熱意を一貫して主張しているのに比べて、ミチェレッティの発言は、デマが少なくなく、民主主義は口にするが、内実はホンジュラスの少数支配を擁護するために、チャベス、モラーレス、オルテガ、キューバの介入を批判して、クーデターを正当化しているにすぎないことがわかる。
 
 ところで、ホンジュラス(人口730万人)は、自由党と国民党の2大政党が政権を担ってきた二大政党制のもとにある。一院制の国会は、中道右派の自由党(PLH)が62議席、右派の国民党(PNH)が55席、左翼の民主主義統一党(PUD)が5議席、その他キリスト教民主党(PDCH)が4議席、中道右派の刷新統一党(PIU)が2議席を占めている。つまり、民主主義統一党を除き、すべて保守政党である。したがって、セラヤ大統領は、新自由主義経済に破壊され、ラテンアメリカで最も遅れて貧しいホンジュラス社会(2002年国民の77%が貧困)の変革をするにあたって、常に、バナナ共和国を築いてきた少数富裕層、それらが支配する保守政党と衝突せざるをえない。その結果は、国会において、大統領の推進するほとんどの改革が否決され、大統領の非難決議が多数決で可決されてしまうのである。司法権も伝統的な保守支配層から構成されている。

 セラヤ大統領が、大統領という行政権の長を獲得しても、行政権の内部には、従来の保守支配層が存続しており、依然として、立法権の国会、司法権の裁判所は、保守支配層の牙城である。軍隊の上層部の多くは、米国の軍事学校の卒業生である。ホンジュラスのニュースを読むときに、このことを忘れてはならない。
そしてこの保守支配層を支えているのが、3億ドル近い(GDPの約5%)、膨大な米国の軍事・経済援助、年間8億ドルにのぼる米国の投資、80万人にのぼる米国在住のホンジュラス人からの20億ドル近い(GDPの約25%)送金である。

 さらに、ホンジュラスには、パルメローラ(ソト・カノ)基地に米軍の統合タスクフォース本部があり、戦闘機18機を装備し、約600名の軍事要員が駐在している。この基地は、80年代オリバー・ノースが対ニカラグア作戦の本部として使用したことがある。この基地の米軍高官とホンジュラス軍指導部は、密接な連絡をクーデターの前後も維持していることが指摘されている。報道されている事実のひとつひとつからして、米国政府がクーデターに関与していなかったと主張するのは困難であろう。ランヘル元ベネズエラ副大統領が述べているように、国務省ルートの外交説明と国防省の最前線の行動にかい離があると思われる。
 
 アリアス大統領と提携して、ミチェレッティをセラヤ大統領と同格に扱い、双方から譲歩を引き出して、和解させようとしたクリントン国務長官の浅薄な覇権主義的意図は、はたして、ラテンアメリカ諸国との新たな対等のパートナーシップを求めるオバマ大統領と相談した結果の政策なのか、さすがに厳しい批判を行うチャベス大統領さえも、疑問を表明しているほどである。
 
 ホンジュラス内部では、日に日に、クーデター反対の意見が高まり、反クーデター国民戦線が支持を拡大し、数万人のデモを組織するに至っている。ギャラップ世論調査から類推すれば、実際のクーデター反対は、70%以上に達するであろう。国際的にも孤立し、国内でも民主主義と社会変革を求める大多数の国民に追い詰められているクーデター勢力は、強権で支配を維持しているだけである。時代錯誤の彼らに未来はない。(終わり)


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2009年7月11日 (土)

ホンジュラスにおけるクーダターの真実 (3)

 5日、セラヤ大統領は、デスコト国連総会議長、ロダス外相とともに、ベネズエラ機でテグシガルパ空港に着陸を試みたが、「暫定政府」は、滑走路にトラックや兵士を配置し着陸を妨害、セラヤ大統領は、ニカラグアに向かった。その後、大統領一行は、エルサルバドルに向かい、そこでフネス・エルサルバドル大統領、フェルナンデス・アルゼンチン大統領、コレア・エクアドル大統領、ルーゴ・パラグアイ大統領、インスルサ米州機構事務総長と会談した。

 反クーデター国民戦線は、セラヤ大統領帰国支持者をこれまでの最高の数万人(十数万人という報道もあり)を組織し、空港周辺につめかけ、警官隊・軍隊と衝突した。軍隊は、デモ隊に発砲し、2名の死亡者、2名の重傷者がでた。反クーデター国民戦線は、翌日の抗議行動も提唱した。090705_honduras_aeropuerto_efe 抗議する市民


 暫定政府は、夜間外出禁止時間を拡大し、午後6時半から午前5時までとした。一方、リカルド・マドゥーロ、ラファエル・フェラーリ、カルロス・フローレス・ファクセなど一部の重要な企業家が、クーデター派への支持を取り下げ、外交的な解決をミチェレッティに要求した。クーデターの立案者と見なされるカルロス・フローレス・ファクセは、家族とともに米国に出国した。クーデター派内部の分裂である。

 事態が深刻化したので、ミチェレッティは、米政府に仲介を要請するとともに、またアリアス・コスタリカ大統領と接触した。ミチェレッティは、ニカラグアがホンジュラスとの国境に部隊を移動していると非難し、国民の批判の目を国外に向けようとした。しかし、オルテガ・ニカラグア大統領は、事実無根と否定した。

 6日、アリアス大統領は、インスルサOAS事務総長と電話で会談し、セラヤ大統領とクーデター派の双方の仲介の用意があると述べた。ミチェレッティは、米国とコスタリカに代表団を派遣し、仲介の要請をした。アリアス大統領は、米政府に自分の仲介を支持するかどうかを問い合わせた。一般には、翌日にクリントン国務長官が、仲介をアリアス大統領に依頼して、仲介の動きが始まったように報道されているが、実際はすでに5日から水面下でミチェレッティ=米国=アリアスの線でいろいろな動きがあったのである。090705_honduras_aeropuerto


 7日、セラヤ大統領は、クリントン米国務長官と会談した。クリントン国務長官は、アリアス・コスタリカ大統領の仲介で、民主主義の回復のためにクーデター派との対話を提案した。双方ともこれを受け入れた。その際、クリントン長官は、ミチェレッティと電話で直接話し合った。インスルサOAS事務総長が、ホンジュラスを訪問した際に、違法な「暫定大統領」と会談しなかったのと対照的であった。

 セラヤ大統領は、9日に会談の際に、「ミチェレッティとの会談を拒否する。彼らの国外退去の条件を聞くのみである。自分はミチェレッティを許しても、歴史は許さない。自分の任期は2010年1月27日までであり、それ以上とどまるつもりはない」と述べた。
 
 仲介者となるアリアス大統領は、「両者の会談は対等のものではない、世界各国はミチェレッティ政権を認めておらず、セラヤ氏を大統領と認めている。ただし双方とも譲歩しなければならない」と述べた。アリアス大統領は、80年代半ばに中米紛争の解決に貢献し、ノーベル平和賞を受賞したとされているが、トニー・アビルガンによれば、「(サンディニスタ政権は、)アリアス大統領をはじめとする中米の大統領が企んだ詐欺にはまり、1990年2月の選挙で敗北したのであった」。そして、苦節16年後に、2006年11月、再びオルテガ大統領が政権に返り咲いた過去がある。国際的には、アリアス大統領の仲介をいぶかる首脳もいる。

 アリアス大統領は、インスルサOAS事務総長と電話で会談し、仲介の用意があるが、OASの支持を受けるときのみと述べた。OASは非公開会議を開催し、仲介を容認した。反クーデター国民戦線は、首都の公共省前で数千名規模で集会を行った。国民戦線には自由党のいろいろな支部、シオマラ・カストロ、セラヤ大統領夫人も参加し、ますます反対運動は強化された。

 8日
、セラヤ大統領は、コスタリカに到着した。同大統領は、「クーデター派とは交渉はしない、街頭でたたかっている人びとを裏切ることはしない、これはすべてのラテンアメリカ国民の名誉にかかわることである」と言明した。ミチェレッティは、ニカラグア上空を飛行するのが安全かどうか調査中であり、ニカラグア政府は上空飛行を拒否していると述べた。同氏、一流のデマであり、ニカラグア政府は、またも明確にそれを否定した。G-8サミットでもルーラ、カルデロン大統領は、ホンジュラスの政変をクーデターとして非難し、ラテンアメリカの団結を強化する形での出口を見出すよう提唱した。スペインのサパテーロ首相は、アリアス大統領の仲介に協力を申し出た。

 米国政府は、1650万ドルにのぼるホンジュラスへの軍事援助を正式に凍結した。さらに2億2300万ドルの経済援助も検討される予定と発表した(米国はホンジュラスの輸出の60%を占め、年間8億ドルの投資を行っている)。しかし、食料、エイズ、医療などの人道援助は継続される見込みである。ホンジュラスの国際的孤立が、経済に与える影響についての懸念が、経済界に広まった。

 ベネズエラは、ホンジュラスへの原油の供給を停止した。キューバは、143名の医師、インストラクターの帰国を決定した。

 ホンジュラス東部各地で反クーデター国民戦線は、数千人がセラヤ大統領の復帰を要求して幹線道路を閉鎖した。国民戦線は、クーデター派との会議には憲法制定を含めるよう要求した。また、同戦線は、10日に50万人規模のデモを計画していると発表した。暫定政府は、夜間外出禁止令を、依然として10日連続継続している。

 9日、サン・ホセ市で、アリアス大統領は、セラヤ大統領と会談した。セラヤ大統領は、会談の実現と、ホンジュラスの先住民、労働組合などの各界の意見を聴取したことに感謝を述べた。

 ミチェレッティは、サン・ホセ空港に到着後、身の安全の保障を依頼し、3時間空港に滞在した。その後、アリアス大統領は、ミチェレッティと3時間会談した。ミチェレッティは、会談の努力に感謝しつつも、会談継続の意図はないとして、その後「対話委員会」を会談の継続の任に当たらせるとして、完全に満足したと述べて帰国した。総選挙を11月29日に実施することを確認し、ホンジュラスの内部問題は、ホンジュラス人で解決すると述べた。当初からセラヤ大統領は立候補しない総選挙であり、有力候補者2名がクーデター派であってみれば、事態はミチェレッティにとって同じことである。しかし、一時選挙の前倒し実施を述べていたことからすれば、発言に首尾一貫性がないことが注目された。

 両者の会談は実現せず。双方の立場は、閉鎖的で非常に非妥協的であったと報道される。インスルサOAS事務総長は、セラヤ大統領の復帰を暫定政府が受け入れるかどうかが試金石であり、それ以外はOASにとってなんら障害とはならないと述べた。アリアス大統領は、会談の詳細は語らず、セラヤ大統領の復帰を除き、選挙を早めるかどうか、刑罰を無効とするか、国民団結政府を創設するか、特定の人物を裁判にかけるか、すべては議論可能であるとのみ述べた。

 反クーデター国民戦線も代表をコスタリカに派遣。また、同戦線は、全国銀行保険委員会がセラヤ大統領派の政治家、ジャーナリスト、大衆運動活動家の銀行口座を凍結したことに抗議した。人権擁護委員会は、国際刑事裁判所に提訴すると述べる。(続く)

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2009年7月10日 (金)

ホンジュラスにおけるクーデターの真実(2) 加筆版

 28日午後、クーデターに対する国民の抗議に対し、警察は催涙ガスで鎮圧した。大統領公邸を包囲する軍隊に対し、大統領支持者2000名が抗議した。クーデターに反対する労働組合ナショナルセンター、農民組織、青年組織、学生組織、女性組織、人権擁護組織によって、直ちに「人民抵抗戦線(FRP)」が結成され(後に「反クーデター国民戦線(FNCGE)」と改称)、抵抗運動を始めた。

 米州機構は、問題を討議するため暫定常設理事会を開催、全会一致でクーデターを違法と強く糾弾した。インスルサ事務総長は、クーデターを非難し、ホンジュラス大統領はセラヤ氏であることを再確認した。ミゲル・デスコト国連総会議長もクーデターを非難した。

 ところで、この日、早朝、スタインバーグ、シャノン米国務省高官は、米国大使館及びパルマロラ軍事基地に連絡し、クーデターを起こさぬよう説得するように指示した。ロダス外相は、ロレンス米大使に何度も電話したが、一度も返事がなかったという。米国はクーデターの計画を知っていたのである。また、元米州担当国務次官のオットー・ライヒ(02年4月のベネズエラのクーデター未遂事件に関与)が、今回のクーデターに関与しているとも指摘されている。クーデター発生後、オバマ米国大統領は、ホンジュラス国民に民主主義と法の尊重を呼びかけた。この日以降、ホンジュラス軍部と米国政府との交信は途絶えたといわれている。

 ミチェレティは、48時間の夜間外出禁止令を布告した。ALBA加盟の再検討を言明した。またセラヤが帰国すれば、犯罪人として逮捕すると述べた。最高裁は、軍部は憲法に従って行動したとテレビ・ラジオを通じて声明を発表した。一方、選挙管理委員会は、11月29日の総選挙は維持されると発表した。

 29日、中米統合機構会議(SICA)、またALBA首脳会議は、相次いでセラヤ大統領追放クーデターを非難した。ALBA諸国は、ホンジュラス駐在大使の召還を決定した。また、リオ・グループ(中南米諸国21カ国加盟)も、クーデターを非難し、ミチェレッティ「暫定大統領」の違法性、セラヤ大統領が軍最高司令官であること、セラヤ大統領の無条件復帰を主張した。オバマ米大統領は、セラヤ大統領追放をクーデターと述べ、違法であり、セラヤ大統領が民主的に選出された大統領である、これが許されればラテンアメリカにおいて恐るべき前例となると述べた。ルーラ・ブラジル大統領は、セラヤ大統領は直接投票によって選ばれた大統領であり、民主主義の規則を守っており、いかなる他の政権も認められないと述べた。南米諸国連合(12カ国加盟)、南米南部共同市場(メルコスル)もクーデターを糾弾した。米州大陸の35カ国すべての国々、ほとんどの国際機関がクーデターを強く批判したのであった。史上はじめてのことであった。

 セラヤ大統領は、国民とともにクーデターに反対し、復帰するため7月2日に帰国すると発表した。テレビ・ラジオはクーデター政府系の放送に限られ、ほとんどの国民は政府発表の事実しか知らされず、セラヤ大統領は辞任したと考えた。

 この日までは、大統領公邸付近の抗議デモも、平穏のうちに行われた。3つの労働組合ナショナルセンター、農民組織、青年組織、人権擁護組織が参加する反クーデター国民戦線は、無期限のゼネストを開始した。

 6月30日、第63回国連総会は、ブラジル、ボリビア、カナダ、コロンビア、キューバ、ベネズエラ、米国などの共同提案決議案で、満場一致でセラヤ大統領の追放を明確にクーデターと規定し、その違法性とセラヤ大統領の合法性、ミチェレッティ「大統領」の違法性、セラヤ大統領の即時・無条件の復帰、違法政権の非承認を決議した。キューバと米国が共同提案国となるのも珍しいことであった。セラヤ大統領は、国連総会で、クーデターの拉致による追放は違法であると演説した。米州開発銀行は、ホンジュラス向けの新規融資の凍結を発表した。また、世界銀行も援助の凍結を発表した。クーデターは、政治的にも、経済的にも国際的に一致した批判を受けたのである。090630_zelaya_en_la_onu
国連で演説するセラヤ大統領

 一方、ルビ・ホンジュラス検事総長は、セラヤ氏に逮捕状を発行したと述べた。しかし、国内では、セラヤ大統領復帰要求の街頭デモが強まった。警察・軍隊は、これを催涙ガスで鎮圧した。反クーデター国民戦線は、労働組合、農民組織、青年・女性組織などを動員し、一万人が参加して、クーデター抗議集会を開催した。クーデター支持派の民主主義市民連合は、セラヤ批判街頭デモを組織し、3000人が参加した。エンリケ・オルテス「新外相」は、セラヤ氏が大統領として帰国するなら違法で許可が必要と述べた。ミチェレッティは、セラヤ大統領はチャベス主義にホンジュラスを変えようとし、ホンジュラスでは否定されたのだとロイター通信に述べた。6月28日の国民投票問題は、単にいいがかりであり、クーデターの本音がどこにあるかを示す発言であった。ホンジュラス私企業理事会のアミルカル・ブルネス会長は、セラヤ氏の帰国は危機を激化させるだけであると述べた。「暫定政府」は、夜間外出禁止令を3日まで延期した。

 オバマ大統領は、ワシントンでコロンビアのウリベ大統領と会談後、クーデターは合法的でなく、セラヤ大統領が唯一の合法的大統領であると再確認した。しかし、米国務省のケリー報道官は、米国政府は事件をクーデターと表現しているが、事件を法的にクーデターと規定したわけではない、法的にクーデターと規定すれば米国はあらゆる軍事的・経済的援助を停止しなければならないと説明した。

 パトリシア・ロダス外相が、メキシコに亡命した。セラヤ大統領は、大統領の任期が満了すれば、農業生活に戻る予定であると述べた。そもそも11月29日に予定されていた大統領選挙には、セラヤ氏は、現行憲法から出馬は不可能であり、彼が属する自由党の候補者は、エルビン・サントス氏であり、国民党の候補者は、ポルフィリオ・ロボ氏であった。この大統領選挙の実施時に、新たな憲法を制定する憲法制定議会を招集する(そのためにはさらに国会議員選挙を行わねばならない)ことを国民投票にかけるというものであり、憲法違反ときめつけられないものであった。したがって国際的にはセラヤ大統領の合憲性を問題にする国はなかったのである。

 7月1日、米州機構(OAS)総会(米州大陸34カ国出席、キューバは未復帰)でも、史上初めて米州民主主義憲章に基づき、満場一致でセラヤ大統領の追放を明確にクーデターと規定し、その違法性とセラヤ大統領の合憲性、ミチェレッティ「大統領」の違憲性、セラヤ大統領の即時・無条件の復帰、違法政権の非承認、セラヤ大統領の復帰を受け入れない場合、ホンジュラスの加盟資格の停止(4日を期限)を決議した。

 セラヤ大統領は、ホンジュラスへの帰国を4日に延期すると表明した。同大統領は、クーデター派が望むなら命を捧げる用意があるし、逮捕されるなら、収監されるつもりであり、国民が望むなら来年1月までの大統領に復帰するつもりである、と述べた。一方、ミチェレッティは、当然のことながら、OASの決議を拒否し、セラヤ大統領は帰国すべきではない、同氏には検察により18件の罪の告発が行われている、国際的孤立の中で、神に世界から孤立させないでほしいとお願いすると述べた。セラヤ大統領の言動に比べ、一貫性のない発言であった。

 ホンジュラス国会は、一般市民の集会、個人住宅の不可侵権、国内の移動の自由を停止し、令状なしの拘束権限を認める大統領令を多数決で承認した。全国から数千人がクーデターに抗議して、テグシガルパに参集、これまでで最大のデモとなった。サンペドロスーラ市でも数千人がクーデター抗議デモを行った。80年代に左翼勢力を弾圧した準軍事組織「死の部隊316」が活動を復活した。クーデター派の正体が次第にはっきりと見えてきたのである。米国防総省は、ホンジュラス軍との合同演習の凍結を発表。ホンジュラスの空軍基地には約600名の米軍顧問が駐在している。

 2日、EU加盟国大使全員が本国に召還された。大使の召還は、国交断絶の一歩手前の強い抗議の意思の現れである。米国は、ホンジュラス駐在大使の召還は適切でないと判断した。実は、ヒューゴ・ロレンス駐在大使は、ベネズエラで反チャベス・クーデターが起こされた時、ブッシュ政権のベネズエラ問題顧問であり、軍事問題の経験の深い人物であると指摘されている。その彼が、今回のクーデター前にクーデター派の人物たちと接触していたことが米国務省によって認められている。米国のケリー報道官は、セラヤ大統領の復帰を目標とするも、帰国は時期尚早と述べた。一方、セラヤ大統領の国外の友人の指導者たちは、帰国して国内で反対の指揮をとるのが重要と考え、即時の帰国を支持している。

 国内の抗議運動一層激しくなり、テグシガルパ、サンペドロスーラで数千人が参加した。約300人が違法に逮捕された。一方、クーデター派に従わない軍部の部隊が、4部隊大西洋地区にあると報道された。ミチェレッティ、サンペドルスーラ市長を解任し、逮捕を命じ、市長に自らの甥を任命した。違法な人事権の乱用であった。

 インスルサ米州機構事務総長は、3日にホンジュラスを訪問するが、交渉のためでなく、決議を受け入れるよう要請するために訪問する、最高裁長官、検事総長との会談を予定し、ミチェレッティ暫定大統領との会見の予定はないと述べた。原則的な態度であった。

 3日、インスルサ米州機構事務総長が、ホンジュラスを訪問し、リベラ最高裁長官と会談した。同氏はセラヤ大統領の逮捕状を取り消せないと説明した。ミチェレッティは、事態の打開のため11月29日の総選挙(大統領、国会議員選挙)の前倒し実施を提案した。事態の解決の見通しのない、思いつきの域をでない提案であった。

 チャベス大統領は、ホンジュラスへの原油の輸出の停止を検討すると表明した。反クーデター国民戦線は、支持者が増えて、数万人が抗議活動を行った。同戦線は、軍隊/警察との衝突を避けて、一定の間隔を維持してデモ行進を行った。一方、軍隊・機動隊が、全国に配置され、デモの鎮圧にあたり、首都への移動を阻止しようとした。

 4日、米州機構は、インスルサ事務総長の報告を受け、ホンジュラスが米州機構のセラヤ大統領復帰受け入れ勧告を拒否したことから、特別総会で同国の加盟資格停止を満場一致で決議した。議論の中で、ベネズエラ、ボリビア、エクアドル、ニカラグアは、セラヤ大統領の復帰まで加盟国は経済関係を断絶する決議を主張したが、米国、メキシコ、コロンビア、カナダはそれに反対した。メキシコ、コロンビア、ペルーなどの右派政権も、EU全体も、ホンジュラス駐在大使を召還したが、米国政府は、依然として駐在大使を維持し、暫定政府との接触を継続した。
 
 セラヤ大統領は、5日にフェルナンデス大統領、コレア大統領の同行のもとに帰国すると発表した。カナダ政府は、セラヤ大統領の帰国は生命の安全の保障がなく時期尚早と述べた。テグシガルパのオスカル・アンドレス・ロドリゲス枢機卿は、セラヤ大統領が帰国すると流血の惨事を生み出すので、帰国しないように要請するとともに、ミチェレッティ政権の米州機構提案拒否を支持した。抗議勢力へのクーデター派の力による弾圧を非難し、抑制させるのでなく、弾圧を容認して事態を避けるようにという主張は、本末転倒の主張であった。午前中、地方からの数千人が首都でミチェレッティ政権抗議デモを行った。午後、セラヤ大統領支持者十数万人が、大統領の帰国を歓迎するために空港に移動した。緊張が一挙に高まった。(続く)

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2009年7月 7日 (火)

ホンジュラスにおけるクーデターの真実 (1) 加筆版

 中米のホンジュラスで、6月28日早朝、軍部によるクーデターが起き、マヌエル・セラヤ大統領を拉致し、コスタリカに追放した。ラテンアメリカの多くの国々で民主主義的な選挙により左翼的な政権が出現し、それに反対する勢力との陰に陽における熾烈なたたかいが行われている中でのことである。しかし、進歩と反動の対立は、表面では少なくとも議会や選挙、合法的なデモ、マスコミにおける言論戦の形で行われている。その意味でいかにも古典的な時代錯誤的なクーデターである。
 
 したがって、このクーデターは、国際世論から一斉に非難を浴びている。6月30日第63回国連総会でも、7月1日米州機構(OAS)総会(米州大陸34カ国出席、キューバは未復帰)でも、満場一致でセラヤ大統領の追放を明確にクーデターと規定し、その違法性とセラヤ大統領の合法性、ミチェレッティ「暫定大統領」の違法性、セラヤ大統領の即時・無条件の復帰、違法政権の非承認を決議した。その後もヨーロッパ、米州各国首脳も在ホンジュラス大使を召還したり、セラヤ大統領の復帰の承認を「暫定」政権に強く要求している。国連総会の決議案の共同提案国となった米国は、援助の凍結、合同軍事演習の中止を発表している。また、世界銀行、米州開発銀行(BID)、中米経済統合銀行(BCIE)もホンジュラスへの援助を停止した。

 しかしながら、国際的にまったく孤立した格好となっているミチェレッティ「暫定」政権だが、3日の米州事務総長ミゲル・インスルサによる直接の話し合いでもセラヤ大統領の復帰を頑強に拒否し、4日には米州機構から資格停止を通告された。さらに、5日には、セラヤ大統領の帰国も、空港を閉鎖して阻止した。一方国内では、人民抵抗戦線を中心に抗議運動は日に日に高まっている。

 それでは、なぜミチェレッティ暫定政権は、自らのクーデターに頑強にしがみついているのであろうか。事件は、一見、セラヤ大統領が、11月29日の総選挙の際に制憲議会の設立を問う投票を行うかどうかを、6月28日に国民投票で国民に意見を聞くことが違憲であるとして、国会が国民投票の禁止を決定したことから始まったように見える。本当にそうであろうか。まずは、事件を整理して、時間を追って点検してみよう。その中から、クーデター派の真意が見えてくるであろう。

 本年3月14日、セラヤ大統領や、憲法制定議会の招集について国民投票を行うことを発表した。新憲法の目的は、社会改革を可能とする条文の制定、大統領の再選規定の導入などである。

 本年6月20日過ぎになると、6月28日の国民投票の準備が進められた。今年の11月29日の総選挙の際に制憲議会の制定について国民投票にかけるべきかどうかを、6月28日の国民投票で聞くためである。セラヤ大統領は全国1万5000か所で国民投票の準備を進めていた。それは、一層の社会改革を進めるためには、現行憲法では適応できないこと、あるいは現行憲法の修正、特に大統領の再選禁止条項の改正をはかるためではないかと指摘されていた。
 
 ところが、6月23日、国会は、6月28日の国民投票の実施を禁止した。企業経営者、軍部上層部、予備役兵、カトリック教会、自由党、国民党の二大政党、最高裁判事などが国民投票に反対であった。この国会決議にもとづき最高選挙裁判所及び最高裁判所は、国民投票を違憲だとした。

 これに対し24日、セラヤ大統領は、ロメオ・バスケス統合総合参謀総長を国民投票の準備命令に不服従のかどで解任した。陸海空三軍司令官、エドムンド・オレヤーノ国防大臣は、バスケス将軍に「連帯して」辞任を発表した。バスケス参謀総長は、米国の米州軍事学校の卒業生で、80年代にホンジュラス大使を務め、コントラのニカラグア侵攻で腕をふるった、ネグロポンテ・ブッシュ政権前国務次官とのつながりが指摘されている人物で、反共意識の強い人物である。

 翌25日、最高裁は、セラヤ大統領の最高軍事指揮権を否定してバスケス参謀総長の復権を承認した。司法権が、行政権に従属する軍部の人事に介入するのも妙なことであった。バスケス将軍は、国民投票は違憲との最高裁の決定に従い、独断で一部の軍隊を治安維持の口実で市内に出動させた。これはクーデターの前兆とのうわさが広まった。一方国会は、バスケス将軍解任非難特別委員会を設置した。セラヤ大統領は、これを「技術的クーデター」と批判した。セラヤ大統領は、国民投票の支持者とともに、アコスタ・メヒア空軍基地に入り、投票資材を持ち出した。

 26日、バスケス将軍の指令で軍隊は基地にもどった。セラヤ大統領は、軍部によるクーデターの準備は整っているが、米国大使館が同意していないので、軍部はクーデターを起こせないでいると言明。一方、米国政府高官は、ホンジュラス軍部高官と会談をしていた。26日、27日と一端事態は静まったように見えた。クーデターのうわさに対して、OAS諸国をはじめ、ヨーロッパ連合諸国が、セラヤ大統領の支持を表明した。クローリィ米国務次官補は、予想されるクーデターへの米国の態度を明確にせず、単にセラヤ大統領に対する反対の立場は取らないという不明確な立場を述べた。27日、セラヤ大統領は、大統領府から大統領公邸に移って宿泊した。

 しかし、28日早朝5時半、200名の軍隊が、大統領公邸を襲撃し、セラヤ大統領をパジャマ姿のまま拉致し、基地に連行して、軍用機でコスタリカに追放した。市内上空を戦闘機が威嚇飛行し、戦車、軍用トラック、装甲車が動員され、同時に市内の要所には軍隊が配置された。ラジオ・テレビは放送を停止。市内の電気が遮断された。市内バスも運行を停止した。また、軍隊は、午前10時過ぎキューバ、ニカラグア、ベネズエラの大使を一時拘留した。パトリシア・ロダス外相、サンペドロスーラ市長も逮捕された。最高裁は、軍隊にセラヤ大統領の追放を指令した。

 午後、国会は、セラヤ大統領の辞任の偽手紙を代読、セラヤ大統領を憲法違反として解任し、ロベルト・ミチェレッティを1月27日までの暫定大統領に多数決(128票のうち124票)で任命した。民主統一党の4名の議員は欠席した。国会の討議では、これはクーデターでないと規定し、ミチェレッティは、大統領追放と新大統領任命は、クーデターでなく、合法的な移行の過程の結果であると強弁した。ミチェレッティは、11月の大統領選挙の自由党候補選定選挙で、現行のエルビン・サントスに敗れていた人物であった。

 セラヤ大統領は、コスタリカで、アリアス・コスタリカ大統領同席のもとで、民主主義と人権を擁護するため非暴力的手段で抗議するように国民に要請した。セラヤ大統領は、辞任の手紙を否定するとともに、このクーデターは民主主義の蹂躙と強く非難し、米国にクーデターに関与しているかどうか質問した。米国国務省は、クーデターに関与していないと言明した。誰が書いたのかわからないが、良く練られたほぼ完璧な古典的なクーデターのシナリオであった。(続く)

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2009年6月25日 (木)

小さな国の大きな決断―ドミニカ大使会見記―

小さな国の大きな決断
―ドミニカ大使会見記―

ドミニカという国がある。サミー・ソーサやアリ・ロドリゲスなどのメジャーリーグ屈指の野球選手を輩出している「ドミニカ共和国」ではない。「ドミニカ連邦」である。イギリス連邦に属する1国であり、「ドミニーカ」と発音する。滝、湖、温泉が多い風光明媚な島で、「カリブ海の自然の島」と称えられている。南カリブ海に位置し、面積は、790平方キロメートルで佐渡島より少し小さい程度。人口は、7万5000人の小国である。Dominica_3

 
 この小国が、昨年1月、世界の注目を浴びた大きな決断を行った。米州ボリーバル的統合構想(ALBA)への加盟を発表したからである。ALBAとは、北の巨人、米国が進める米州自由貿易圏(ALCA=FTAA)に対抗して、2004年チャベス大統領によって提唱された地域統合構想である。域内で、自由、平等、互恵、相互補完、連帯の精神にもとづいた貿易、経済、金融、政治統合をめざすものである。昨年1月までは、キューバ、ベネズエラ、ボリビア、ニカラグアの4カ国が加盟国であったが、これらの国の指導者は社会主義への志向をもった人々であり、その限りでは、ALBAは、特別な国々の集まりであるとみられていた。

 ところが、ドミニカが加盟を宣言したときには、カリブ海の1小国が、ALBAに加盟することは、即、米国との関係が冷却し、敵視政策を受けることになるだけに、世界で大きな関心を呼び起こしたのである。加盟には並々ならぬ決意と揺るがない外交政策がなければならないし、その国内政治も革新的なものがあるはずだ。そう思って、キューバを訪問した際に、ドミニカを訪問したいと思ったが、直行便もなく別なカリブ海の国に一泊しなければならない。そこで、次善の策として、キューバに最近開設したばかりのドミニカ大使館を訪れた。

 トーマス・クラークソン大使は、51歳、1983年留学生としてキューバで勉強して以来、キューバ人女性と結婚し、滞在は26年になる。ドミニカ労働党のルーズベルト・スケリット首相(37歳)とは親友という。

 ドミニカの歴史をたどると、17世紀以来、イギリスとフランスの植民地争奪戦にあい、両国の植民地をくりかえしながらも、黒人を中心とした自治の要求が19世紀以降カリブ海で最も強く湧きおこった国であることがわかる。1960年代からもドミニカ労働党(DLP)を中心に自治獲得運動が幅広く展開され、その結果、1978年イギリスはドミニカの独立を認めざるをえなかった。その後、経済危機、ハリケーンの被害などで、反対派のドミニカ自由党(DFP)が政権の座についたが、90年代、保守政権は、新自由主義政策による民営化を進め、再び経済が悪化した。国民の生活は窮乏化し、2000年DLPが政権に返り咲いた。そして、2005年には、現在のスケリット政権が選挙により選ばれた。

 実は、ドミニカには、歴史的に二つの自慢することがあるとクラークソン大使は胸をはる。一つは、ラテンアメリカ・カリブ海地域の左翼勢力が1990年より一同に会し、意見交換を行っているサンパウロ・フォーラムの参加政党・組織の中で、最初に政権についたのが、DLPである。また、もうひとつは、カリブ海地域では、先住民はほぼ全滅しているが、唯一生存し、保護地域を設けられ、3000人のカリブ族が生活しているのは、ドミニカだけである。つまり、ALBAに加盟する背景として、すぐれた革新的伝統があるのだ。

 2004年、ドミニカは、ベネズエラが地域協力として進めているペトロカリブ協定に加盟した。ベネズエラから、有利な支払い条件と協力価格で石油を購入できるからである。また同年、台湾との外交関係を断絶し、翌2005年中国と国交を樹立した。

 2004年スケリット首相がキューバを訪問した際、ペレス外相と会談し、フィデル・カストロを通じ、チャベス大統領を紹介してもらったという。チャベスは、早速3500万ドルの援助を約束した。さらにベネズエラは、翌年5月にはスケリット新政権に対し、飛行場拡張、精油所の建設、石油貯蔵タンクの建設など1億ドルの援助を決定した。また、2000年以降、キューバは、医療・教育・各種の技術協力を行っている。Pm_skerrit


 2007年12月、ペトロカリブ会議がキューバのシエンフエゴスで開催され、スケリット首相も出席した。その頃、チャベス大統領も、ALBAに、キューバ、ベネズエラ、ニカラグア、ボリビアの他に、どこかもう一カ国加盟することを希望していた。そうすればALBAの性格が変わるからであった。キューバの友人たちは、なぜドミニカがALBAに加盟しないのかといっていた。一方、ALBAは当初、その内容、理念は不明確であった。しかし、実際の議論と必要性の中で、協力、連帯、互恵、相互補完の理念が形成されていった。われわれは、米国との従属的な自由貿易協定よりも、この理念に基づく関係を選択した。

ドミニカは、当時米国との貿易は約25%を占めていた。米国は、70年代バナナ産業に経済援助を行っていたが、90年代に入り、ソ連圏が崩壊した後、援助額は減少した。また米国の援助には常に条件が付けられていた。縫製業など発展したが、米国の関税は高かった。それに比べて、ALBAの理念は対等平等、相互補完的な関係であった。

 スケリット首相のキューバ訪問の際、大使は、首相にALBA加盟について提案した。スケリット首相は、じっと考えこんだ。何か怖いのかと聞くと、いや別にということであった。大使は、今、この時期に加盟する方が、国際的なインパクトもあり、ALBA加盟諸国にも良い印象を与えると主張した。首相は、大使に答えを述べずに帰国した。2008年1月10日、スケリット首相はALBA加盟を発表した。重大な決断であった。
 
 スケリット首相からは、大使に外国新聞社とのインタビューを受けないようにとの指示があった。米国の新聞社、通信社から国際電話でいろいろ聞いてきた。また、米国やCARICOM諸国の中にも参加に抗議し、圧力をかけてくる国もあったという。

 同年8月にはホンジュラスが、加盟して世界を驚かせた。本年2月、ALBA加盟後の1年を振り返り、スケリット首相は、ドミニカの加盟は、だれに許可を願ったものでもなく、加盟後の1年の成果を国民はよく知っているはずであると強調した。

 本年5月には、やはりカリブ海の小国セントビンセント及びグラナディーン諸島(人口12万人)、エクアドル(人口1300万人)、6月にはアンティグア・バーブーダ(人口8.5万人)が、相次いでALBAへの加入を表明した。パラグアイやエルサルバドルなども加盟に興味を示している。ALBAは、現在9カ国の参加に過ぎないが、対等、平等、連帯、互恵、相互補完に基づく統合、地域共通通貨スクレの創設という理念は、壮大なものである。

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2009年4月10日 (金)

チャベス、選挙、国民投票16戦の結果

チャベス、選挙、国民投票16戦の結果

先ごろ、チャベス・ベネズエラ大統領が訪日した。世界の注目を集めている大統領だけに、テレビ、新聞で少なからずの報道がなされた。テレビなどで、視聴者にわかりやすくニュースを伝えようという姿勢は評価されるが、それは噛み砕いて紹介することであって、巷間の俗語で表現することではない。4月5日、親友から、フジテレビのサキヨミLIVEという番組で、大要このように紹介されたと聞いた。

「中南米の番長、チャベス大統領は、高騰した石油価格を利用して、まわりの国の子分を集め、アメリカに反抗する反米勢力を結集している。また、日本には石油開発をちらつかせて対日接近をはかっている。しかしその石油は重質油で魅力はない・・・」

ここには、これまで歴史的に、特に近年米国の新自由主義政策に従属し、国民生活を痛めつけられてきた中南米の国々が、自らの国民の福祉と安寧を自らが決めようという自立化への動きをまったく理解していない考えがうかがわれる。ラテンアメリカを、「反米大陸」、「反米主義」とみては、理解できない。「自主外交大陸」とみてはじめて、現在の左派政権の続出を理解できるのである。

この地域をみずからの「裏庭」、勢力圏と考えてきた(それこそ番長)アメリカは、ラテンアメリカの自主的な態度が受け入れ難く、自主的な政策を探求する国々に、「人権問題」、「民主主義」、「テロ国家容疑」、「麻薬問題」、「ソ連の代理人」といって難癖をつけ、非難、干渉政策をとってきた。昨年、米国のゲーツ前国防長官が、ジョビン・ブラジル国防相に対中南米政策についてサジェッションを聞いた際、「手を出さないことだ」と答えたのは、本質をついたものである。(ラテンアメリカの自主的な動きについては、好論文、菅原啓「米国いいなり拒否するラテンアメリカ」『前衛』2009年4月号、参照)

チャベス大統領が行っている、ペトロ・カリブ政策などは、参加国の思惑は別として、その原理は、「子分集め」ではなく非産油国に産油国が協力しようという国際的大義に沿ったものであることを理解しなければならない。なぜなら、一番の「親米国」といわれるコスタリカも最近加盟したのであるから。ベネズエラの石油開発に対しては、大統領滞日中に日本企業との間に合意書が結ばれたことをもってしても、双方に利益のある商談であったことがわかる。

チャベス大統領は、この10年、実に16回の選挙、国民投票、1回の軍事クーデターの試練をくぐりぬけながら、政治、経済、社会改革について、国民にそのつど、信を問いながら改革を進めていることを、その政策への賛否は別として、あらためて確認しておきたい。

参考までに、1998年のチャベス大統領選出後、2009年の今日までの16の投票を振り返ってみると、次の通りである。

1998年
① 12月6日、チャベス、得票率56.20%を確保して、大統領に選出される。対立候補「ベネズエラ計画」のサラス・ローメル(COPEI、ADなど4党支持)は得票率39.97%。1958年体制の崩壊。しかし、国会では少数。最高裁は前政権やエリート層が握っている。制憲議会召集の是非を問う国民投票を実施する政令を公布。

1999年
② 4月25日、チャベス、制憲議会召集是非の国民投票で得票率88%を獲得し、信任される。
③ 7月25日、チャベス派、制憲議会国会議員選挙で131議席中126議席獲得し、勝利。AD20議席、COPEI実質上消滅。
④ 12月15日、憲法賛否国民投票で得票率86%の賛成、圧倒的多数で新憲法が採択され、ベネズエラ・ボリバール共和国と国名を変更。

2000年
⑤ 7月30日、新憲法下での大統領選挙で(総投票数663万票)、チャベス、得票率60.3%を獲得し、アリアス・カルデナス候補(Causa Rなどの統一候補)得票率37.5%を破り、大統領に再選出される。
⑥ 同時に国会議員選挙で、165議席中、与党MVR、76議席を獲得し、第一党、MAS21議席を獲得。それまでの2大政党、民主行動党は29議席、キリスト教社会党は5議席で大幅に後退。
⑦ 同時に行われた県知事選挙、県議会選挙、市長選挙でもチャベス派勝利。
⑧ 12月3日、地方選挙(市議会、最小行政区議会)でチャベス派圧勝。

2004年
⑨ 8月15日 大統領信任国民投票実施。2002年クーデター失敗に業をにやした反対派が大統領の不信任を求めたもの。投票総数9,815,631票のうち、チャベス大統領5,800,629票、得票率59.09%獲得、反政府勢力CD3,989,008, 得票率40.63%を獲得、チャベス圧勝して信任を得る。
⑩ 10月31日 地方選挙でチャベス派、22県のうち20県で勝利、首都知事、カラカス市長選挙で勝利。また市長選では、335市のうち270市でチャベス派勝利。チャベス派の圧勝。

2005年
⑪ 8月7日 地方行政区議会選挙、実施される。選挙人登録は、14,363,690人、69.1%が棄権、チャベス派候補者、5596議会で80%が当選。チャベス派圧勝。
⑫ 12月4日 国会議員選挙、反対派の民主行動党(AD)、キリスト教社会党(CEPEI)、ベネズエラ計画党、正義第一党、世論調査の選挙予測でチャベス派が71%以上獲得し、大敗することが明白となり、選挙寸前で謀略的に候補者を取り下げ、選挙に参加せず。チャベス派、全議席を占める。

2006年
⑬ 12月3日 大統領選挙。チャベス、社会主義の建設をスローガンに掲げ、選挙戦をたたかい(総投票数1163万票)、730万票、得票率62.84%を獲得し、反対派ロサーレス候補、429万票、得票率36.9%に大勝。勝利後、ベネズエラ社会主義統一党の創設を提起。

2007年
⑭ 12月2日 チャベス大統領、憲法改正案を国民に提出し、国民投票の結果(総投票数900万票)、440万票、得票率49.29%を獲得するも、反対派452万票、得票率50.70%を獲得し、僅差で敗れる。憲法草案では、社会主義をめざすなど詳細な修正案提起するも、国民は受け入れず、僅差で否決。投票14回目にして、初めて敗北。

2008年
⑮ 11月23日 一斉地方選挙が行われ(総投票数1102万票)、チャベス派候補、590万票、得票率53.52%、18県知事(77%)、277の市長(81%)を獲得し、反対派(471万票、得票率41.65%)に圧勝。前回得票数を150万票余回復。

2009年
⑯ 2月15日 チャベス大統領、大統領、各種首長の三期以降の選出を認める憲法修正案を提出し、国民投票の結果(総投票数1171万票)、631万票、得票率54.85%を獲得し、反対派519万票、得票率45.14%に10ポイント近い差をつけて承認された。投票キャンペーンの中で、チャベス大統領、自分の三選の可能性を開いて、社会主義をめざすと述べる。

上記のように、2月、憲法修正が承認されたが、これをどう見るかは、いろいろな意見がある。筆者は、これによりチャベス大統領の三選が認められ、独裁体制がしかれたという理解はしていない。むしろ単に、3期以降の立候補が認められただけであり、それ以上でも以下でもない。

大統領、各種首長を選出するのはあくまで国民であることを強調したい。善政の政治家も、悪政の政治家も3選の可能性が認められたのであり、国民にとって選択肢が増えたといえよう。多選を悪とするのは、性悪説にもとづく個人の考えであり、国民自身がその都度、候補者の適否を判断して票を投じればよいことである。2012年には、各種首長、大統領の選挙が行われ、4年間の施政の真価を国民が決めることになる。

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