カテゴリー「文化・芸術」の記事

2014年6月28日 (土)

ガルシア・マルケスの意外な一面

ガルシア・マルケスの意外な一面

今年4月17日に亡くなった、おそらくはラテンアメリカで20世紀最高の人気作家といってもよい、ガブリエル・ガルシア・マルケス(1927-2014)が、映画にも大きな関心をもっていたことは、良く知られていることです。30歳までは、ほぼ毎日のように映画館に通い、映画評論を書き、ローマのイタリア国立映画実験センターで映画制作を学んだと自ら語っています。1979年にはハバナで開催された第1回新ラテンアメリカ映画国際フェスティバルのフィクション部門の審査委員長でしたし、1986年にキューバで設立された国際映画・テレビ学校(EICTV)は、ガーボ(ガルシア・マルケスは一般にガーボという愛称で呼ばれます)とフィデル(カストロ)の発案でした。

ガーボは、好きな映画監督としては、オーソン・ウエルズ  ビエンベニード・グランダ
(『市民ケーン』)、黒沢(『赤ひげ』)、トリュフォー(『突然炎のごとく』)、ロッセリーニ(『ロベレ将軍』)、ルイ・ゲーラ(ブラジル、1931-、『小銃』)を挙げています。日本映画では、戦後初期の作品の中で、『真昼の暗黒』、『蟹工船』、『原爆の子』、『羅生門』、『七人の侍』を世界の映画史に残る作品と絶賛しています。

続きは、添付のPDFをお読みください。

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2011年12月18日 (日)

「グアヒラ・グアンタナメラ」の意味は?

「グアヒラ・グアンタナメラ」の意味は?

グアヒラ・グアンタナメラは、キューバのポピュラー音楽としては、世界で最も歌われている曲でしょう。その歌詞のバージョンは、世界で150以上もあるといわれています。今一番歌われているのは、19世紀末のラテンアメリカ屈指の詩人でもあり、キューバ独立運動の指導者、使徒ともいわれるホセ・マルティ(1853—1895)の「素朴な詩」の数節です。

最近、あるイベントでこの曲を紹介することになり、みんなで歌うことができるように、歌詞を訳し、楽譜の音符に乗せようと思いました。現在日本語になっているのは、いずれも原詞のホセ・マルティの訳からずいぶん離れており、以前から、私なりに訳してみたいと思っていました。

ところで、この曲の紹介自体が、日本でもいろいろ間違って書かれています。八木啓代さんは、「(この曲は、)キューバの国民詩人ホセ・マルティの革命詩に、ホセイート・フェルナンデスが作曲し、後にピート・シーガーが世界に紹介したことによって、ラテンアメリカ音楽の定番的なヒットとして定着した」(八木啓代・吉田憲司『キューバ音楽』青土社(2001年))と紹介されています。また、これほど、時代と事実を逆にとらえてはいませんが、長いキューバ音楽研究の蓄積のある竹村淳さんの好著でさえも「曲は、ホセイート・フェルナンデスがグアヒーラのスタイルでつくり、45年に初録音。今巷で親しまれているのは、60年頃フェルナンデス自身が自作の歌詞に代え、ホセ・マルティの詩を使ったバージョンである。フェルナンデスなりの革命への共感が歌詞を代える動機となったのだろうか」(竹村淳『ラテン音楽名曲名演ベスト111』(アルテス、2011年)とあります。

しかし、事実は、このグアヒラ・グアンタナメラは、ホセイート・フェルナンデスによって1928年に作曲され*、様々な歌詞で歌われていたものに、スペイン人でハバナ在住のフリアン・オルボン(1925-1991)が、1940年代にマルティの「素朴な詩」の中の数節を取りだし、歌詞として歌ったものです(詳細は本ブログ掲載のエミール・ガルシア・メラーヤ「グアヒーラ・グアンタナメラは、どのようにつくられたか」前田恵理子訳Cuba Now January 28, 2009を参照ください)。(*1928年と1929年と二つの説があります)

続きは添付のPDFでお読みください。
「11.12.17 グアヒラ・グアンタナメラ.pdf」をダウンロード

楽譜はこのPDFで
「11.12 グアヒラ・グアンタナメラ楽譜と歌詞.pdf」をダウンロード

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2011年6月25日 (土)

キューバ資本論学習事情

パーベル・ビダル教授との懇談会―キューバ資本論学習事情―

去る23日(木)、東京の新宿で、ハバナ大学経済学部教授・キューバ経済研究所研究員のパーベル・ビダル(35歳)さんを囲んで懇談しました。この3月、東京資本論学習会の皆さんと一緒にキューバでキューバ経済研究所と「マルクス主義の古典と、日本、キューバ、東アジア及びラテンアメリカ」というタイトルで合同シンポジウムを行い、その際、パーベルさんの紹介で、時代物の国営工場見学を行い*、また彼からも現在のキューバの財政・金融問題についてのレクチャーを聞いた間柄です。久しぶりの懇談に、宮川彰首都大学教授(資本論研究家)を始め、仲間とともに、いろいろなテーマで会話が弾みました。

続きは、添付のPDFをご参照ください。

「11.06.25 パーベル教授との懇談会.pdf」をダウンロード

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2011年5月17日 (火)

書評、イグナシオ・ラモネ著、伊高浩昭訳『フィデル・カストロ-自ら語る革命家人生』

書評、イグナシオ・ラモネ著、伊高浩昭訳『フィデル・カストロ-自ら語る革命家人生』(岩波書店、2011年)

2011年5月15日『しんぶん赤旗』掲載の新藤通弘氏の書評を紹介します。

「11.05.15 書評フィデルとの100時間、ラモネ.pdf」をダウンロード

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2011年5月 6日 (金)

キューバの葉巻(2):ダビドフの謎

キューバの葉巻(2):ダビドフの謎
浦野保範 フラメンコ・キューバ文化研究家

 キューバの葉巻については、自分自身の思い出とともに、前回、ダビドフに簡単に触れ、「ダビドフの謎」については別の機会に紹介したいと約束した。それから、早くも2年が経過した。今回は世界の葉巻のトップブランド、ダビドフについて、キューバ撤退の諸説に触れてみたい。

 プーロ・アバーノ(ハバナ巻)の30数種以上の有名銘柄の中で、品質と気品と値段において、コイーバに勝るとも劣らない名品は、ダビドフであろう。この最高級の葉巻、ダビドフは、1969年からキューバで製造、販売されるが、1988年をもって最後のものとなり、現在ではキューバでは製造されていない。しかも、ダビドフの葉巻工場は、コイーバの葉巻工場と同じ「エル・ラギート」工場であった。

続きは、別添PDFをご覧ください。
「11.05.06 キューバの葉巻(2) 、ダビドフの謎.pdf」をダウンロード

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2010年1月16日 (土)

キューバ映画ベスト・テン

キューバ映画は、世界でも高く評価されています。このたび、キューバ映画50年の中で、ベスト・テンがキューバの映画関係者によって選定されました。あなたは、この中のどれを見ていますか?以下、ベスト・テンを紹介しましょう。また、各作品も随時紹介しましょう。

キューバ映画ベスト・テン
キューバ映画産業の半世紀を記念して
ヤネリス・アブレウ (訳 前田恵理子)

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アンケートの質問は、作品、脚本、編集、撮影、美術、音楽、録音、ポスターの各部門におけるベストである映画のタイトルだけにとどめず、これらの各部門で高く評価されたものも含んでいる。またアンケートには、キューバ映画(1959―2008年)の最高の名シーンと忘れられないセリフも求められた。

キューバ映画史で最も傑出した作品を選出するために、キューバ映画報道協会によって実施されたアンケートで、ベスト・テンにノミネートされた作品は、第31回ハバナ新ラテンアメリカ映画国際フェスティバルで特別上映された。

トマス・グティエレス・アレア監督のイベロアメリカ映画の古典、「低開発の記憶」(1968)がランキングの最上位であった。エドムンド・デスノエスの同名タイトルの小説の映画化で、デスノエスとグティエレス・アレアの協同脚本も脚本部門でもトップとなった。撮影はラモン・F・スアレス、編集はネルソン・ロドリゲス、美術はフリオ・マティージャ、音楽はレオ・ブロウエル、録音はエウへニオ・ベサ、カルロス・フェルナンデス、ヘルミナル・エルナンデス、最優秀に選ばれたポスターはスペイン人デザイナーのアントニオ・サウラである。

グティエレス・アレア(1928-1996)の主要作品から、さらに3作品がノミネートされている。フアン・カルロス・タビオとの共同監督、「苺とチョコレート」(1993)が第3位、喜劇映画、「ある官僚の死」(1966)が第6位、そして彼の名作「最後の晩餐」(1976)がベスト10の最後を飾っている。

ウンベルト・ソラス(1941-2008)の初作品の長編劇映画「ルシア」(1968)が第2位。第4位にはフェルナンド・ペレスによる中編映画「マダガスカル」(1993)。オルランド・ロハスの第2作目の長編映画で、80年代の最も重要な作品のひとつ、「脇役たち」(1989)が第5位となっている。

マヌエル・オクタビオ・ゴメス(1934-1988)の「マチェテの最初の一撃」(1969)は、新しい世代の観客や研究者によって再評価されるに値する。33票を獲得し、第7位となった。スペイン植民地からの独立戦争のただ中に設定されてはいるが、現代ドキュメンタリーの視点から制作されている稀有の作品である。カメラマンのホルへ・エレラのハンド・カメラによる激しいカメラワークが、公式の受賞はなかったものの、この年にベネチア国際映画祭でキューバを代表する映画として衝撃を与えた。

パストル・ベガ(1940-2005)の作品「テレサの肖像」(1978)が32票で第8位である。制作から40年たった現在も、映画はベガがマチスモの社会的問題を表現した能力と勇気で、その新鮮さを損なうことなく保っている。

その10年後の作品、エンリケ・ピネダ・バルネの素晴らしい録音の「アルハンブラ劇場の美女」(1989)が第9位と続いている。この作品は、男性だけが出演している劇場で一人の若い娘がスターダムにのしあがることを描いて、キューバ史の混乱した時代(1920-1935)の人物群像を描いたものである。

アンケートの結果は、73人の批評家、新聞記者、映画人、歴史家、研究家から送られた投票の集計の後、今年の3月にキューバ映画芸術産業庁(ICAIC)創立50周年の機会に発表されたものである。

今回12月に再度発表したのは、50年前に革命政府によって文化分野での最初の法律が制定され、ICAICが発足し、「映画は芸術」であることが確立されたことを祝福して上映されたものである。

祝賀行事のプログラムには、また「革命の日々:ICAIC、ラテンアメリカ・ニュース」という別タイトルも含まれている。60年代のニュースを集めたものであり、サンチアゴ・アルバレスの職人芸とその撮影チームを思い出させるカメラに記録された証言である。「ICAIC、50年の歴史」は、もう一つの記念上映だが、アルフレッド・ゲバラによって設立されたICAICの50周年に捧げられた最近のドキュメンタリーも上映された。カタログには以下の作品が掲載されている。「50年の中で」(ホルへ・ルイス・サンチェス・ゴンサレス、ウィルベルト・ノゲル・モラレス、ハビエル・カストロ・リベラ、アドリアン・R・アルティル・モンタルボ)、「異端は決して簡単ではない」(ホルへ・ルイス・サンチェス)、「50の夢」(ミゲル・フェルナンデス・マルチネス)、「白黒の物語」(グロリア・アルグエジェス)。 

2009年12月15日記 09.12.15 Cuba Nowより

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2009年10月 4日 (日)

小話 ボート競技

キューバ人も、ラテンアメリカの他の国々の人々と同じように、大変ユーモアが好きです。とくに逆境に陥っても、小話を言って切り抜けたりします。あるいは自分達の間違っているところも、小話で笑い飛ばしてしまいます。精神的にたくましい人たちなのです。以下は、私のキューバ人の友人が送ってきた小話です。キューバ社会の画一性、企業の硬直性などが、みごとにあらわされていますね。今後も折に触れて、キューバの小話を紹介しましょう。

ボート競技

キューバ企業と日本企業が、各8名で競漕(ボート)を行うことになった。

両チームは、厳しいトレーニングを重ね、絶好のコンディションで臨んだ。
しかし、なんと日本チームが、1キロメートルの差をつけて勝利したのだ。

敗北して、キューバ・チームは、意気消沈してしまった。
総監督は、翌年の勝利を決意し、問題分析作業チームを設けた。

いろいろ検討してみると、作業チームは、日本チームが7人の漕手と1人の舵手で臨んでいたことがわかった。
一方、キューバ・チームは、7人の舵手と1人の漕手ではないか!

そこで、総監督は、チーム構成を研究する会社と契約するという素晴らしい考えを編み出した。

数か月かけて検討した結果、専門家たちは、キューバ・チームには漕手よりも舵手が多くいすぎるとの結論に達した。

専門家たちの報告に基づき、キューバ企業は、チーム構成を変えることを決定した。

チームは、今度は、舵手4人とスーパーバイザー2人、スーパーバイザー長、そして1人の漕手に編成された。

漕手の選出には、特別の注意が払われることとなった。漕手は、最も能力があり、最もやる気を持ち、責任を強く自覚していなければならないと考えられた。
しかし、翌年は、なんと日本チームが、2キロメートルの差で勝利したのだ。

キューバ企業の指導者部は、任務を十分果たさなかったとして漕手を解雇した。
そして、その他のチームのメンバーには、チーム内での多大なモチベーションを鼓舞したとして賞を与えた。

総監督は、事情報告書を提出した。そこには、こう書かれていた:
―作戦は良かった。
―やる気も十分あった。
―しかし、機材を改善すべきである。

その結果、現在、指導部は、ボートの買い替えを考えているところである・・・

(訳 前田恵理子)

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2009年9月14日 (月)

キューバの葉巻

キューバの葉巻                                浦野保範 フラメンコ・キューバ文化研究家

 たばこは砂糖と共にキューバを代表する農産物の一つで、キューバ、ドミニカ、ホンジュラスが世界3大葉巻生産国として知られている。その中でもキューバ産葉巻の品質が最も優れていることは世界的に知れ渡っている。

 1492年にクリストバル・コロン(コロンブス)が新大陸を発見した際、コロンの使者でスペイン特使のルイス・デ・トーレスがキューバ島に上陸し、先住民のタイノ族が、植物の葉を燃やした煙で体を焚きこんでいる情景を報告している。この植物こそがナス科・たばこ属の一年草の植物である「たばこ(Tabaco)」で、彼等はスペインにたばこ葉を持帰っている。また、1519年にエルナン・コルテスがメキシコに上陸した際、アステカ族がパイプで喫煙する習慣のあることを見ており、喫煙の風習はかなり古くから行われていたといえる。

 キューバ西部のピナール・デル・リオ県はたばこ栽培に適した土壌と気候で、同県の大部分を占めるVueltabajo(ブエルタバホ)地方で高品質のたばこ葉が栽培されている。その中でもSan Juan(サンフアン)、Martínez(マルティネス)、San Luis(サンルイス)の三地域で最高品質のたばこが栽培されている。たばこ栽培には、湿度79%、平均気温25℃、適度な降雨、砂質で若干の酸性土壌が最も適している。同県以外のキューバ国内、また世界的に見ても多くの国でたばこは栽培されているが、ブエルタバホに軍配が上がる。同じ種を蒔いても土地によって収穫される品質に大きな差が出ることは周知の事実で、世界地図の中では極めて狭い土地で、世界に誇れる最高級の作物が栽培されていることは興味深い。

続きは添付ドキュメントを参照こう。「09.09.13 キューバの葉巻 .pdf」をダウンロード

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2009年5月17日 (日)

キューバにおけるスペイン語訳『蟹工船』出版の時代的背景

キューバにおける蟹工船の出版の時代的背景

私は、キューバ研究が専門ですので、この翻訳が当時のどういう社会背景で出版されたか説明したいと思います。出版活動は、一般的には、4つの要素、つまり、①購買の可能性を示す人口数、②教育水準、③経済状況、④国の出版政策により異なります。これらの要素から、ラテンアメリカでのスペイン語の出版活動には4極あります。人口1億600万人のメキシコ、人口4600万人のコロンビア、人口3800万人のアルゼンチン、それに人口1100万人のキューバです。キューバは、人口ではラテンアメリカ33カ国の中で9番目ですが、1987年には、キューバは、出版活動では、書籍発行点数は2,315点で、コロンビアの15,041点についで第二位でした。

革命勝利前の1958年、キューバでは出版は年間100万冊程度でしたが、30年後の1989年には、4400万冊で44倍に伸びています。これは、①1961年にキューバ政府が識字運動を展開し、人口の3分の1を数えていた非識字者100万人、準非識字者100万人を一掃したこと、②1961年に教育を国の運営のもとにおき、無料制度とし、国民すべてが大学教育まで進める制度を作ったこと(高等教育進学率は82%)、③1962年に出版社を国有化し、キューバ国立出版社を設立し、社会の変革に応じた出版を始めたこと、④国家予算によって出版活動は、必要に応じて補助金が支出され、国民だれでもが購買可能な価格で販売されたことなどによります。ご参考までに、教育、文化・芸術、科学技術を含めると国家予算の20%を占めます。ちなみに日本は、7%程度です。
 
 スペイン語訳蟹工船が企画され、出版された1981-1983年は、キューバ社会の黄金時代でした。経済発展も60年代、70年代の困難をかなり克服して順調に展開し、音楽、文学、絵画などでも、1980年12月、カストロ議長が第二回党大会で述べたように、「文化の分野では大きな成果があがっており、高度の創造的雰囲気が見られる」時期でした。すぐれた医療・教育制度による高い社会福祉の恩恵を国民は受け、社会においてかなりの平等性が確立され、国民の間に連帯の意識が広く見られました。
 
 また、国際的にはキューバは、1979-81年138カ国が加盟する非同盟諸国運動の議長国として、発展途上国の団結と統一に奮闘していました。国民の間でも社会主義への信頼と確信が存在した時期でした。こうした内外の時代的背景の中で、世界の、アジアのプロレタリア文学への関心が、国民の中に広く見られ、この国民意識を基礎に、世界のプロレタリア文学の翻訳出版が進められたのです。1983年、出版点数は1672点、そのうち文学書は224点で、蟹工船はそのうちの1冊です。出版物発行総数は3500万冊でした。

 しかし、こうしたキューバ社会の黄金時代は、1989年をもって終わります。1990年になると、キューバが85%にのぼる密接な経済・貿易関係をもっていたソ連・東欧諸国が崩壊したり、経済困難に陥り、貿易量が激減して、かつての4分の1となって、「非常時」が宣言されました。経済は、80年代の60%の水準まで落ち込みました。1993年には出版点数も273点、発行部数も114万部と革命後最低の水準に後退しました。

 そこで、経済を活性化するため、観光、外国投資が進められ、外貨所有が合法化され、農産物・工業製品の自由市場が認められ、飲食業、美容院、民宿などの自営業が許可されました。同時にインフレが進み、実質賃金は、80年代の4分の1にまで落ち込みました。国民の間の連帯意識は失われ、それぞれが自分の生活を守るために生活費の不足分4分の3を稼がなければならず、合法的・非合法的な方法で必死になって収入源を求めるようになりました。収入格差が拡大し、利己心が一般的となり、資本主義による搾取、社会主義への確信も少なからずの人が表面的となったり、薄れたりしました。それでも、2006年までには経済も、かなり回復し、出版点数は、2,330点、発行部数は3900万部と回復しました。しかし、そうした中で、近年キューバで出版された日本に関係する本は、江戸時代の兵法家の大道寺友山の『武道初心集』という本とか、俳句についての本です。これらは、社会的発展の観点からみると限られた資源の中で、今のキューバにどれだけ必要かと首をかしげさせるものです。

 しかし、世界的な新自由主義の破綻から、資本主義への批判、マルクス主義への期待が復活する中で、社会科学の面では、キューバでもこの1-2年マルクス主義の立場に根ざした書籍が少なからず出版されるようになってきています。こうした時代状況の中で、資本による労働者の搾取を赤裸々に描いた蟹工船について、キューバで話をおこなったことは、キューバ人の間でも少なからずの関心を呼び起こすものでした。

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2009年5月 9日 (土)

グアヒーラ・グアンタナメラは、どのようにつくられたか。

グアヒーラ・グアンタナメラは、どのようにつくられたか。
エミール・ガルシア・メラーヤ
Cuba Now January 28, 2009より。
前田恵理子訳

「グアヒーラ・グアンタナメラ」は、世界においてキューバを代表する音楽のイメージであり、その曲の存在の功績は、ホセイート・フェルナンデスが担っています。

グアヒーラ・グアンタナメラは、この40年間で最も演奏されたキューバの歌で、現在50近いバージョンが知られていますが、その裏には、曲の生みの親を争う長い歴史が隠されています。

いくつかの調査によると、グワヒーラ・グアンタナメラの最初の公の演奏は1929年に遡り、ハバナのパラティーノ公園のダンス・フィエスタでの演奏でした。その公園では毎週日曜日、特に代表的な流行のバンダ・ティピカ が人気を博していました。 このダンス・フィエスタには、当時の代表的楽団の中で一番人気があり、歌手のパブロ・ケベド(1907-1936)がいたアントニオ・マリーア・ロメロ楽団、チェオ・ベレン・プイグ楽団、ライムンド・バレンスエラ楽団と、ファクンド・リベロがピアノ担当のライムンド・ピア楽団が、出演していました。

詳細は、添付PDFを参照ください。

「09.05.10 「グアヒラ・グアンタナメラ」は、どのようにつくられたか。.pdf」をダウンロード


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