カテゴリー「文化・芸術」の記事

2009年10月 4日 (日)

小話 ボート競技

キューバ人も、ラテンアメリカの他の国々の人々と同じように、大変ユーモアが好きです。とくに逆境に陥っても、小話を言って切り抜けたりします。あるいは自分達の間違っているところも、小話で笑い飛ばしてしまいます。精神的にたくましい人たちなのです。以下は、私のキューバ人の友人が送ってきた小話です。キューバ社会の画一性、企業の硬直性などが、みごとにあらわされていますね。今後も折に触れて、キューバの小話を紹介しましょう。

ボート競技

キューバ企業と日本企業が、各8名で競漕(ボート)を行うことになった。

両チームは、厳しいトレーニングを重ね、絶好のコンディションで臨んだ。
しかし、なんと日本チームが、1キロメートルの差をつけて勝利したのだ。

敗北して、キューバ・チームは、意気消沈してしまった。
総監督は、翌年の勝利を決意し、問題分析作業チームを設けた。

いろいろ検討してみると、作業チームは、日本チームが7人の漕手と1人の舵手で臨んでいたことがわかった。
一方、キューバ・チームは、7人の舵手と1人の漕手ではないか!

そこで、総監督は、チーム構成を研究する会社と契約するという素晴らしい考えを編み出した。

数か月かけて検討した結果、専門家たちは、キューバ・チームには漕手よりも舵手が多くいすぎるとの結論に達した。

専門家たちの報告に基づき、キューバ企業は、チーム構成を変えることを決定した。

チームは、今度は、舵手4人とスーパーバイザー2人、スーパーバイザー長、そして1人の漕手に編成された。

漕手の選出には、特別の注意が払われることとなった。漕手は、最も能力があり、最もやる気を持ち、責任を強く自覚していなければならないと考えられた。
しかし、翌年は、なんと日本チームが、2キロメートルの差で勝利したのだ。

キューバ企業の指導者部は、任務を十分果たさなかったとして漕手を解雇した。
そして、その他のチームのメンバーには、チーム内での多大なモチベーションを鼓舞したとして賞を与えた。

総監督は、事情報告書を提出した。そこには、こう書かれていた:
―作戦は良かった。
―やる気も十分あった。
―しかし、機材を改善すべきである。

その結果、現在、指導部は、ボートの買い替えを考えているところである・・・

(訳 前田恵理子)

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2009年9月14日 (月)

キューバの葉巻

キューバの葉巻                                浦野保範 フラメンコ・キューバ文化研究家

 たばこは砂糖と共にキューバを代表する農産物の一つで、キューバ、ドミニカ、ホンジュラスが世界3大葉巻生産国として知られている。その中でもキューバ産葉巻の品質が最も優れていることは世界的に知れ渡っている。

 1492年にクリストバル・コロン(コロンブス)が新大陸を発見した際、コロンの使者でスペイン特使のルイス・デ・トーレスがキューバ島に上陸し、先住民のタイノ族が、植物の葉を燃やした煙で体を焚きこんでいる情景を報告している。この植物こそがナス科・たばこ属の一年草の植物である「たばこ(Tabaco)」で、彼等はスペインにたばこ葉を持帰っている。また、1519年にエルナン・コルテスがメキシコに上陸した際、アステカ族がパイプで喫煙する習慣のあることを見ており、喫煙の風習はかなり古くから行われていたといえる。

 キューバ西部のピナール・デル・リオ県はたばこ栽培に適した土壌と気候で、同県の大部分を占めるVueltabajo(ブエルタバホ)地方で高品質のたばこ葉が栽培されている。その中でもSan Juan(サンフアン)、Martínez(マルティネス)、San Luis(サンルイス)の三地域で最高品質のたばこが栽培されている。たばこ栽培には、湿度79%、平均気温25℃、適度な降雨、砂質で若干の酸性土壌が最も適している。同県以外のキューバ国内、また世界的に見ても多くの国でたばこは栽培されているが、ブエルタバホに軍配が上がる。同じ種を蒔いても土地によって収穫される品質に大きな差が出ることは周知の事実で、世界地図の中では極めて狭い土地で、世界に誇れる最高級の作物が栽培されていることは興味深い。

続きは添付ドキュメントを参照こう。「09.09.13 キューバの葉巻 .pdf」をダウンロード

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2009年5月17日 (日)

キューバにおけるスペイン語訳『蟹工船』出版の時代的背景

キューバにおける蟹工船の出版の時代的背景

私は、キューバ研究が専門ですので、この翻訳が当時のどういう社会背景で出版されたか説明したいと思います。出版活動は、一般的には、4つの要素、つまり、①購買の可能性を示す人口数、②教育水準、③経済状況、④国の出版政策により異なります。これらの要素から、ラテンアメリカでのスペイン語の出版活動には4極あります。人口1億600万人のメキシコ、人口4600万人のコロンビア、人口3800万人のアルゼンチン、それに人口1100万人のキューバです。キューバは、人口ではラテンアメリカ33カ国の中で9番目ですが、1987年には、キューバは、出版活動では、書籍発行点数は2,315点で、コロンビアの15,041点についで第二位でした。

革命勝利前の1958年、キューバでは出版は年間100万冊程度でしたが、30年後の1989年には、4400万冊で44倍に伸びています。これは、①1961年にキューバ政府が識字運動を展開し、人口の3分の1を数えていた非識字者100万人、準非識字者100万人を一掃したこと、②1961年に教育を国の運営のもとにおき、無料制度とし、国民すべてが大学教育まで進める制度を作ったこと(高等教育進学率は82%)、③1962年に出版社を国有化し、キューバ国立出版社を設立し、社会の変革に応じた出版を始めたこと、④国家予算によって出版活動は、必要に応じて補助金が支出され、国民だれでもが購買可能な価格で販売されたことなどによります。ご参考までに、教育、文化・芸術、科学技術を含めると国家予算の20%を占めます。ちなみに日本は、7%程度です。
 
 スペイン語訳蟹工船が企画され、出版された1981-1983年は、キューバ社会の黄金時代でした。経済発展も60年代、70年代の困難をかなり克服して順調に展開し、音楽、文学、絵画などでも、1980年12月、カストロ議長が第二回党大会で述べたように、「文化の分野では大きな成果があがっており、高度の創造的雰囲気が見られる」時期でした。すぐれた医療・教育制度による高い社会福祉の恩恵を国民は受け、社会においてかなりの平等性が確立され、国民の間に連帯の意識が広く見られました。
 
 また、国際的にはキューバは、1979-81年138カ国が加盟する非同盟諸国運動の議長国として、発展途上国の団結と統一に奮闘していました。国民の間でも社会主義への信頼と確信が存在した時期でした。こうした内外の時代的背景の中で、世界の、アジアのプロレタリア文学への関心が、国民の中に広く見られ、この国民意識を基礎に、世界のプロレタリア文学の翻訳出版が進められたのです。1983年、出版点数は1672点、そのうち文学書は224点で、蟹工船はそのうちの1冊です。出版物発行総数は3500万冊でした。

 しかし、こうしたキューバ社会の黄金時代は、1989年をもって終わります。1990年になると、キューバが85%にのぼる密接な経済・貿易関係をもっていたソ連・東欧諸国が崩壊したり、経済困難に陥り、貿易量が激減して、かつての4分の1となって、「非常時」が宣言されました。経済は、80年代の60%の水準まで落ち込みました。1993年には出版点数も273点、発行部数も114万部と革命後最低の水準に後退しました。

 そこで、経済を活性化するため、観光、外国投資が進められ、外貨所有が合法化され、農産物・工業製品の自由市場が認められ、飲食業、美容院、民宿などの自営業が許可されました。同時にインフレが進み、実質賃金は、80年代の4分の1にまで落ち込みました。国民の間の連帯意識は失われ、それぞれが自分の生活を守るために生活費の不足分4分の3を稼がなければならず、合法的・非合法的な方法で必死になって収入源を求めるようになりました。収入格差が拡大し、利己心が一般的となり、資本主義による搾取、社会主義への確信も少なからずの人が表面的となったり、薄れたりしました。それでも、2006年までには経済も、かなり回復し、出版点数は、2,330点、発行部数は3900万部と回復しました。しかし、そうした中で、近年キューバで出版された日本に関係する本は、江戸時代の兵法家の大道寺友山の『武道初心集』という本とか、俳句についての本です。これらは、社会的発展の観点からみると限られた資源の中で、今のキューバにどれだけ必要かと首をかしげさせるものです。

 しかし、世界的な新自由主義の破綻から、資本主義への批判、マルクス主義への期待が復活する中で、社会科学の面では、キューバでもこの1-2年マルクス主義の立場に根ざした書籍が少なからず出版されるようになってきています。こうした時代状況の中で、資本による労働者の搾取を赤裸々に描いた蟹工船について、キューバで話をおこなったことは、キューバ人の間でも少なからずの関心を呼び起こすものでした。

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2009年5月 9日 (土)

グアヒーラ・グアンタナメラは、どのようにつくられたか。

グアヒーラ・グアンタナメラは、どのようにつくられたか。
エミール・ガルシア・メラーヤ
Cuba Now January 28, 2009より。
前田恵理子訳

「グアヒーラ・グアンタナメラ」は、世界においてキューバを代表する音楽のイメージであり、その曲の存在の功績は、ホセイート・フェルナンデスが担っています。

グアヒーラ・グアンタナメラは、この40年間で最も演奏されたキューバの歌で、現在50近いバージョンが知られていますが、その裏には、曲の生みの親を争う長い歴史が隠されています。

いくつかの調査によると、グワヒーラ・グアンタナメラの最初の公の演奏は1929年に遡り、ハバナのパラティーノ公園のダンス・フィエスタでの演奏でした。その公園では毎週日曜日、特に代表的な流行のバンダ・ティピカ が人気を博していました。 このダンス・フィエスタには、当時の代表的楽団の中で一番人気があり、歌手のパブロ・ケベド(1907-1936)がいたアントニオ・マリーア・ロメロ楽団、チェオ・ベレン・プイグ楽団、ライムンド・バレンスエラ楽団と、ファクンド・リベロがピアノ担当のライムンド・ピア楽団が、出演していました。

詳細は、添付PDFを参照ください。

「09.05.09 グアヒーラ・グアンタナメラのなぞ.pdf」をダウンロード

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2009年3月30日 (月)

小説「蟹工船」を語る集い開催

小説、蟹工船を語る集いが、キューバのハバナ市で開催されました。以下ご紹介します。
3月12日午後、ハバナ市にあるジア・オセアニア研究所(CEAO)で、「蟹工船を語る集い」が、日本キューバ修交80周年を記念して開催されました。
 まず、同研究所のフアン・カレテーラ所長が挨拶。日本とキューバの外交が結ばれて80年を迎え、政治、経済、文化、スポーツの面で多面的な交流が行われており、今年の後半には日本・アジア研究について日本とキューバの合同シンポジウムを企画している旨紹介しました。
 つづいて、新藤通弘氏が、80年代初期に、「蟹工船」と「日本文学短篇集」を出版したキューバ政府の理解に、またテレサ・オルテガさんと、リディア・ペレディラさん編集と翻訳の労に感謝の言葉を述べました。そのあと、新藤氏の説明付きで、映画「蟹工船」の一部が上映されました。映画の鑑賞後、同氏が、「蟹工船」が書かれた当時の日本が、絶対主義的天皇制のもとで労働者、農民は多くの自由が奪われ、帝国主義侵略を近隣のアジア諸国に進めている資本主義によって過酷に搾取されていた歴史を紹介。
そして出版から80年経過したここ数年、小説「蟹工船」が若者を中心に爆発的な関心を引き起こし、50万部販売されるベストセラーとなっていること、それは、近年、自公政権が進めている新自由主義政策が、所得格差の拡大、貧困層の増大、労働条件の急激な悪化、企業家の経営モラルの破たん、失業の増大などをもたらし、日本社会が多大の困難を抱えるようになっていることからきていることを指摘しました。特に、ルールなき資本主義といわれる日本企業で現在問題になっている非正規社員、とりわけ派遣社員の安い差別的賃金と極めて不安定な雇用は、現代版の「蟹工船」的労働条件であることを説明しました。
テレサさん(左)とリディアさん(右)
 Photo
つづいて、「蟹工船」のスペイン語翻訳者のリディアさんが、翻訳は、キューバが著作権について不払い政策をとっていた時代のものであること、編集者のテレサさんから紹介されたとき、中心人物もなく、主だった女性もなく、細かい心理描写もなく、集団的な描写で、資本の無慈悲な搾取の論理を描いている強烈な描写にたちまち魅入られたことなどを語りました。奴隷制のもとでは奴隷の主人は、奴隷を使用し続けるためには、生産手段の奴隷の命を大事にしたが、蟹工船では、労働者の健康と命も使い捨てのように扱われている劣悪な状況が印象に残ったと、リディアさんは強調しました。
また、多喜二の「不在地主」も同じ翻訳本に納められており、悲惨な半封建的な小作人の状態が印象的であったと述べました。
 最後に、編集者のテレサさんが、当時キューバ政府の出版の優先順位は、①キューバ文学、②ラテンアメリカ文学、③「社会主義圏」文学、④ヨーロッパ文学、⑤アジア・アフリカ文学で、その中で、日本のプロレタリア文学を出版するのは並大抵でなかったが、優れたプロレタリア文学であったのでなんとしても出版したいと上層部を説き伏せて出版したいきさつを紹介しました。テレサさんによれば、これまでキューバで出版された日本文学は、1966年の太宰治の「斜陽」を皮切りに、芥川龍之介「羅生門」、川端康成の「雪国」、大江健三郎「個人的体験」、三島由紀夫「金閣寺」など13点に上るとのことです。
 この「蟹工船を語る集い」には、キューバ共産党中央委員会国際部のアベラルド・クエトさん、日本大使館専門調査員の山田泰子さんなどが出席しました。

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2009年2月12日 (木)

アレホ・カルペンティエル (1904-1980)

アレホ・カルペンティエル (1904-1980)

 小説『光の世紀』、『この世の王国』などで知られる、キューバの代表的な作家、アレホ・カルペンティエルを紹介しよう。

 今世紀に入り、キューバは、90年代に苦しんだ国内の経済危機も回復する中、出版活動も回復のきざしを見せ始め、カルペンティエルの作品が、再び注目を集めている。2004年には、生誕100周年の記念シンポ、会議、再出版、テレビでの特集など行われ、カルペンティエルは、20世紀キューバ文学の独創的かつ普遍的で、「驚異的現実」(アメリカ大陸には驚異的なものと現実的なものが混在し、共存しているという理念)の創造者として評価された。同年11月には、キューバの芸術機関である「カサ・デ・アメリカス」により国際会議「アレホ・カルペンティエルの世紀」が開催された。
 
 カルペンティエルは、1904年12月26日ハバナでフランス人の建築家の父とキューバ人の母の間に生まれた。1912年勉学のためフランスに渡り、9年後キューバに帰国、ハバナ大学で建築学を学んだ。しかし、その後ジャーナリズムに身を投じ、時事問題、文化問題に健筆を振るった。1943年から59年までキューバでの弾圧を避けてベネズエラに亡命。代表的な作品で日本語に翻訳されているものは下記の通りである。

 1978年にはスペイン語圏最高の文学賞であるセルバンテス文学賞を受賞し、1980年4月24日パリで死去した。彼は、「魔術的リアリズム」を駆使し、アルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘス、メキシコのフアン・ルルホと並んで20世紀のラテンアメリカ文学の刷新に貢献したもっとも著名な作家と見なされている。
 
 カルペンティエルは、音楽への造詣が深く、『キューバにおける音楽』(1979年)という傑作があるが、残念ながら本邦未訳である。なお、カルペンティエルは、パリに滞在中に画家の藤田嗣治と親交を結び、1931年藤田夫妻をキューバに招いている。その際、藤田はキューバで盗難に会い、旅行が不可能となった。カルペンティエルは藤田に画家だから絵を描けば、チャリティー行って販売できると勧めた。藤田は、数十枚の絵を描き、旅費を稼いだといわれている。これを機会に、彼の作品が一層読まれることを期待したい。

下記に、彼の主要作品で日本語に訳されているものを紹介する。

◆アレホ・カルペンティエルほか『現代キューバ短編小説集 大使閣下』神代修訳(時事通信社、1971年)
◆アレホ・カルペンティエル『バロック協奏曲』鼓直訳(サンリオSF文庫、1979年)。1974年作品。銀行で巨富を得た鉱山主が従者と様々な品々を伴ってマドリッド詣でに出立しようとしている――この素朴にさえみえる物語は、放尿で鳴る便器、ヴィヴァルディのオペラ『モンテスマ』の上演場面で劇場を圧する楽器の音、泥の中を転げまわる豚、フランスの海賊の手から救われた司教を迎える町中に轟く音曲、浣腸かあそこを洗うのにぴったりの安酒が喉を通る音・・・
◆アレホ・カルペンティエル『ハープと影』牛島信明訳(新潮社、1984年)。1979年作品。アメリカ大陸に到着したコロンブスを痛烈に批判した歴史小説。
◆アレホ・カルペンティエル『この世の王国』木村栄一訳(サンリオ文庫、1985年)。1948年作品、現代小説の古典とも言われている。ラテンアメリカ最初の独立革命であるハイチ革命を中心的テーマとして取り上げ、革命の全容を寓意的に描く。
◆アレホ・カルペンティエル『光の世紀』杉浦勉訳(書肆風の薔薇、1990年)。1962年作品。当時のアメリカ大陸の現実を語るに相応しい新しい文学スタイルと激賞された。もうひとつの≪革命史≫、≪革命の歓喜と幻滅≫、生命の楽園=カリブ海域にもたらされた≪革命≫の<光>と<影>を身をもって生き抜いた青年男女の運命を濃密に描く、驚嘆すべき大長編小説。
◆アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』牛島信明訳(集英社文庫、1994年)。1953年作品。時はあらゆるものを幻に変える!近代から未開へと時間が逆行する不思議な旅を、一人の音楽家がたどる。アメリカの大都会に住む音楽家である私は、ある大学から未開種族の楽器の入手を依頼される。気乗りのせるまま、愛人を伴ってオリノコ河上流へと出発する・・・
◆アレホ・カルペンティエル『春の祭典』柳原孝敦訳(国書刊行会、2001年)。1978年作品。歴史とロマンの交響曲、ラテンアメリカ文学の巨編。ロシア革命・・・スペイン内戦・・・キューバ革命・・・空前のスケールで<戦争の世紀>を活写した壮大な歴史絵巻。
◆アレホ・カルペンティエル『エクエ・ヤンバ・オー』平田渡訳(関西大学東西学術研究所、2002年)。1933年作品、処女作。(岡知和)

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2009年2月 9日 (月)

クーバの黒人のソン

研究室に訪問のみなさん、今日は、満月の日です。残念ながら、関東地方は曇りで、輝かしい満月を見れませんが、満月の日なれば、クーバのサンティアゴにお誘いしましょう。

フェデリコ・ガルシア・ロルカFederico García Lorca (1898 - 1936)
クーバの黒人のソン

月が満ちれば、
私はクーバのサンティアゴに行こう
サンティアゴに行こう
黒い水の車に乗って
サンティアゴに行こう
椰子の葉の屋根が歌うだろう
サンティアゴに行こう
椰子の木がコウノトリの姿にみえるとき
サンティアゴに行こう
また、バナナがくらげの姿にみえるとき
サンティアゴに行こう
フォンセカの金髪をいだいて
サンティアゴに行こう
また、ロミオとジュリエットのバラをもって
サンティアゴに行こう
紙幣と硬貨の海
サンティアゴに行こう
ああ、クーバ、ああ、マラカスの乾いた種子のリズム!
サンティアゴに行こう
ああ、熱い腰とラムのしずく!
サンティアゴに行こう
生き生きとした椰子の幹のハープ、ワニ、タバコの花!
サンティアゴに行こう
いつも、私は、黒い水の車に乗って
サンティアゴに行くといったものだ
サンティアゴに行こう
車輪にはそよ風と酒
サンティアゴに行こう
暗闇の中の私の珊瑚
サンティアゴに行こう
砂にしみ込む海
サンティアゴに行こう
白熱の暑さ 死せる果物
サンティアゴに行こう
サトウキビの葉の涼しそうな牛
ああ、クーバ、ああ、ため息と土の曲線よ
サンティアゴに行こう
(訳 新藤通弘)

ガルシア・ロルカは、1898年スペインのアンダルシアで生まれた。1930年、キューバを訪れ、2ヶ月滞在した。その間、いくつかの詩を書いているが、この詩はもっとも有名なものである。ロルカは、左翼的詩人としてスペイン内戦では共和派を支持、1936年ファシスト政権により逮捕、銃殺された。38歳の若さであった。

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2009年1月 4日 (日)

キューバ文化に高まる関心

キューバ文化に高まる関心
 
 最近、キューバ(スペイン語ではクーバ)文化への関心が高まっています。ポピュラー音楽のブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ、イサーク・デルガード、チューチョ・バルデスの公演、映画の「ビバ!ビバ!キューバ」、「バスを待ちながら」、「ハバナ組曲」、「コマンダンテ」の上演、絵画のフローラ・フォンなどの女流作家展、ネルソン・ドミンゲス、チョコなどの個展、文学のアレホ・カルペンティエールの小説「春の祭典」の出版など好評を博しています。なぜ、キューバ文化は私たちを魅了するのでしょうか。いくつかの側面を探って見たいと思います。

Creatividad(創造性) 
キューバ文化のひとつの特徴は、その創造性にあります。この創造性は、国民性として植民地時代から培われてきたものですが、革命勝利後(1959年)、芸術家の生活が基本的に保障されたことと、芸術表現において政府の介入がなかったことから一層育まれたものです。Lam3mundo_1966_2
60年代初頭、文化問題にも深い関心をもっていた工業相(当時)のゲバラは、労働者の生活などの社会生活を画一的に描く「社会主義リアリズム」でなく、社会主義社会の「新しい人間」にふさわしい前衛的な芸術表現の必要性を主張し、それがキューバ政府のその後の政策となりました。各芸術家は、悪しき商業主義に堕することなく、芸術創造に打ち込むことができる環境にあるのです。(ウイルフレド・ラム『第三世界』1966年)


Universalidad(普遍性)
キューバ芸術は、普遍性をもっています。恋愛、家族愛、祖国愛、」女性の自立(映画『ルシア』)、セックス(映画『イチゴとチョコレート』)、社会の相互間の協力、あるいは官僚主義批判(映画、『ある官僚の死』、『グアンタナメーラ』)などのテーマは、よく取り上げられている題材です。Fresa_til_cine
映画、小説、クラッシック音楽、クラッシック・バレーなどで、国際的にも優れたアーティストが輩出しています。こうした背景には、カストロ首相(当時)が、アメリカの武力干渉(プラヤ・ヒロン事件)が行われた1961年に知識人との対話で述べた、「革命政府を打倒しよういうものでないかぎり、芸術表現に国は介入しない」という、一定の表現の自由を認める文化政策があります。

Base(基礎)
キューバの芸術創作活動の基礎、裾野は広く、各分野で才能あるアーティストが見られます。1961年の識字運動によって基本的には文盲が一掃されました。また教育は基本的には無料とされ、書籍、映画、劇、音楽の入場料も誰もがアクセスできる低価格に抑えられました。芸術高等学校(ENA),芸術大学(ISA)の設立によって、才能があるものはだれでもアーティストとして学ぶことができるようにもなりました。彼らは、中学校の段階から芸術学校にいき、一般教育とともに、各芸術分野の基礎知識を徹底して学びます。その結果、キューバのアーティストは、基本をしっかりマスターしていることが特徴です。ジャズ・ピアニストのゴンサロ・ルバルカバが日本で弾いたバッハの平均律クラヴィーアには日本の専門家も目を丸くしました。Rubalcaba (ゴンサロ・ルバルカバ)
スポーツでも、身体能力に優れた子供は、中学校の段階から体育学校に進みます。そして一般教育とともに、スポーツ医学、理論を学びます。野球、バレー、ボクシング、陸上に優れた選手が輩出しています。

Afrocubanismo(アフロクバニスモ)
 キューバ文化は、スペインのヨーロッパ文化とアフリカ系黒人の文化が混交したもの、すなわちアフロクーバ文化と呼ばれています。ポピュラー音楽においては、楽器、リズム、作曲・演奏形式に、黒人文化の影響が少なからずみられます。キューバにはスペインの植民地時代にアフリカから100万人にのぼる黒人が奴隷として強制的に連行されました。インディオ原住民は、過酷な奴隷使役で16世紀末にはほぼ絶滅し、インディオ文化の影響は見られません。
バイタリティーあふれる黒人の文化に、熱帯特有の陽気さ、明るさ、59年以来のキューバ政府の社会改革、人種差別の一掃、民族文化の振興政策が加わって、アフロクーバ文化が一層豊かになったのです。Dayron_robles

 しかし、海外での高収入を夢見て海外に亡命するアーティストやスポーツマンも見られます。また海外で得た収入を国の文化基盤の整備や次世代の教育設備の投資のために一部を還元するのを嫌う傾向も見られます。こうした傾向をどう克服するか、今後の課題と思われます。(ダイロン・ロブレス、北京オリンピック110M障害金メダリスト)

 キューバ文化の特徴をたどると、CUBAとなってしまいました。不思議なことですね。

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2009年1月 2日 (金)

ヘミングウェイとキューバ

ノーベル賞作家ヘミングウェイは、一九三八年から六〇年までキューバに二十二年間住んだ。四〇年からは、ハバナ市郊外に「フィンカ・ビヒア」を購入し、釣りに、ハバナ市の散策を楽しむかたわら、創作に、専念した。この間世界の文学史の残る傑作、『誰がために鐘はなる』、『河を渡って木立のなかへ』、『老人と海』、『海流の中の島々』などを書いた。
 
 彼が第二の祖国と考えたキューバの何が、彼を魅了したのか。直接明確にそれを語ったものはない。一九二八年四月に最初にキューバを訪問したり、三二年に再度キューバを訪問したりした時は、釣りが目的だったと述べている。また、ヘミングウェイは、釣りの他にも、五七匹の猫、四頭の犬を可愛がり、ハイ・アライ(壁にボールを打ちつけて競うテニス)、闘鶏、射撃なども楽しんだ。しかし、キューバでの生活が深まるにつれて、キューバの風景、市民の生活、友人、ラム酒、食事の中で、キューバ全体を気に入って、創作に励んだのであった。
 
 ハバナでの生活では、シーフードのレストラン「フロリディディータ」やキューバ料理の「ボデギータ・デル・メディオ」を頻繁に訪れ、ラム酒のカクテルである前者の「フローズン・ダイキリ」と後者の「モヒート」をこよなく愛した。「ダイキリならフロディディータ、モヒートならボデギータ・デル・メディオ」とは、ヘミングウェイの言葉である。但し、彼のダイキリは、砂糖抜きであった。また彼は、中華料理店の「エル・パシフィコ」にもよく行った。現在これらのレストランは、維持されており、観光客が好んで訪れる場所となっている。
 
 ちなみに「フロディディータ」で発祥したのは、氷をかき氷じょうに粉砕し、ラム酒とカクテルにした「フローズン・ダイキリ」であり、ダイキリそのものは、前世紀末に東部のサンチャゴ・デ・クーバの「ダイキリ」鉱山の技師によって作られたものである。ヘミングウェイは、『海流のなかの島々』のなかで、このフローズン・ダイキリについて見事に描写している。

 「ハドソンは、フローズン・ダイキリをダブルで飲んでいた。バーテンのコンスタンテが作るこの酒は逸品で、アルコールの味が殺してあり、飲むほどに粉雪蹴散らしながら氷河をスキーで滑降する心地。六、七、八杯目にはザイル・パーティも組まずに氷河を急降下する心地」(沼澤洽治訳、新潮文庫)。
 
 ヘミングウェイが住んだ頃のキューバは、旧市街が手狭になり、西にベダード地区が発展し、美しい海岸通りマレコンが建設され、さらに西にアルメンダレス川を越えて新たな高級住宅街ミラマール地区まで延びていった時期であった。つまり、美しいハバナ市が活発に発展していた時期である。

 ノーベル文学賞の受賞の対象となった『老人と海』は、ハバナより二〇キロ東にある人口五〇〇〇人弱の小さな漁村、コヒーマルを舞台としている。小さな入り江が天然の良好となって、カリブ海の波風を防いでいる。ハイウェーが通っている高台から、海辺までなだらかな下り坂となっており、茶色の屋根と白い壁の綺麗な家屋がちらばっている。入り江の向こう側には小さな鮫処理工場があり、緑の木々が先端にまで延びて海に落ちている。昼間には波止場では子供たちが泳いだり、漁師が、漁具の手入れなどをしていたりする。夕暮れ時には、村人が子供を連れたりして散歩する。そこでは、時の流れさえ、緩やかなように思われる。ヘミングウェイの愛艇「ピラール号」の船長であった、グレゴリオ爺さんは、いまでも健在で、かつてヘミングウェイが良く立ち寄った、レストラン「テラサ」で今でも見かけることができる。
 
 ヘミングウェイは、革命前のキューバ共産党に最も多額のカンパをした外国人だったし、独裁者のバチスタの再三の食事の招待には決して応じなかった。キューバ革命については、「この革命が、人民にとってよい革命だ」として、当初から好意的な態度を示し、それを支持していた。六〇年ハバナに帰ってきた時、空港で、アルゼンチン人の記者に対し、「われわれは勝利するだろう。われわれキューバ人は、勝利するだろう」とスペイン語で述べ、さらに「私は、ヤンキーではないんだよ」と英語で付け加えた。
 
 ところでヘミングウェイは、フィデル・カストロ首相(当時)に一度だけ会っている。六〇年五月にハバナのフィッシング・コンペティションでのことで、それが最初で最後のことであった。カストロ議長は、後年、「ヘミングウェイは、最も好きな作家の一人で、『誰がために鐘は鳴る』は三回以上も読んだ」と述べている。そして、『人間は、破壊されることがあっても、屈伏させられることはないのだ』というヘミングウェイの言葉は、キューバ革命へのメッセージでもあると述べている。

参考文献
1.ノルベルト・フエンテス『ヘミングウェイ、キューバの日々』宮下嶺夫訳(晶文社、1988年
2.『海流のなかの島々』上下沼澤洽治訳(新潮文庫、1977年)
3.柴山哲也『ヘミングウェイはなぜ死んだか』(朝日ソノラマ、1994年)
4.G.ヘミングウェイ『パパ、父ヘミングウェイの想い出』森川展男訳(あぽろん社、1986年)
(2004年2月)


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2009年1月 1日 (木)

キューバで出版されたスペイン語初訳の蟹工船

 いつ頃ハバナで買ったのか記憶にないが、今、日本で話題になっている小林多喜二の『蟹工船』のスペイン語版が、私の本棚にあるのが、ある日目についた。キューバについての論文の執筆のため、資料を調べていたときのことだ。スペイン語初訳と表紙にはうたってある。翻訳者は、リディア・ペレデイラとある。一体、彼女は、どういう人だろう、どういうことからこの本を翻訳したのか、など想像が次々と沸いてくる。

このスペイン語訳は、今から25年前の1983年にキューバのウラカン社から出版されている。中にはやはり多喜二の傑作『不在地主』も納められている。しかし、原本の書名、発行所も、著作権取得の表示もない。米国の経済封鎖で米国とキューバの間には著作権協定がないからだ。

内容を見ると、フランク・モトフジという人による日本のプロレタリア文学について、実に詳細で正確な序文が34ページ掲載されている。読者にとって親切な編集である。翻訳は、モトフジ訳の英語版からの重訳に違いないと推測して調べてみると、モトフジ氏の訳は、『加工船(Factory Ship)』というタイトルで1973年にワシントン大学出版から出版されていた。モトフジ氏は、太宰治、大江健三郎の短編を翻訳している日本の現代文学研究者である。

リディアさんの本は、『缶詰加工船(Barco Conservero)』というタイトルで、より原題に近い。重訳ではあるが、有名な冒頭部の『おい、地獄さ行(え)ぐんだで!』も、終結部の『そして、彼等は、立ち上がった。―もう一度!』も、方言のニュアンスまでは無理であり、訳されてはいないが、的確に読みやすく訳されており、訳者の並々ならぬ力量が伺われる。

今度、キューバに調査旅行に行ったときに会って、翻訳、出版の経緯、訳者やキューバ人読者の感想などを聞いてみたいと思って、日本語の新潮文庫の『蟹工船』や資料を準備してキューバに出かけた。 9月初め、夏の日差しが強い午後のひととき、ハバナの新市街にあるマンションに住む翻訳家のリディアさんを訪れた。

数日前に、数十年に一度といわれる大きな被害を及ぼしたハリケーン・アイクがキューバの西部地方を襲い、ハバナ市も直撃はされなかったものの停電地区が目立つ。リディアさんは、「電気もつけられないので申し訳ありません」といいながら、筆者を迎えてくれた。小柄で快活な知識人である。 

リビング・ルームの三方の壁には、リディアさんの好みのいろいろな絵が飾ってある。知的雰囲気を感じさせる瀟洒な空間だ。その奥には、書斎があり、リディアさんの仕事場である。リディアさんは、1939年にハバナ市で生まれ、革命前、ハバナ・ビジネス・アカデミーで英語を学んだ。革命勝利後、1960年9月、フィデル・カストロ首相(当時)が最初に国連総会に出席し、演説を行った際、代表団の通訳の一人として同行した。カストロをはじめ代表団が宿泊したハーレムのテレサ・ホテルでは、カストロへの電話の取次ぎ役を担ったということである。この折、カストロが初めてフルシチョフに会ったときにも同席していた。彼女は、同年12月、キューバ諸国民友好協会(ICAP)の創立にも参加した。国際活動が豊富な翻訳家である。

リディアさんは、1973年からキューバ国立出版公社で翻訳に従事し、1994年に定年退職するまで21年間勤務した。90年代に入り、最大の貿易相手のソ連圏の崩壊で、キューバが未曾有の経済困難に陥り、非常時が宣言され、出版事情は困難を極めるようになった。翻訳の仕事も激減したので、退職したとのことであった。その間、15冊にのぼる翻訳を出版している。その中には、『日本短編小説集』、ジョン・リードの『叛乱するメキシコ』、『マルコムX演説集』、ディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』、ローゼンバーグ夫妻の『歴史は私たちの名誉を回復するであろう(日本語題名、愛は死をこえて―ローゼンバーグの手紙)』などがある。

現在は、「ハバナ市歴史家事務所」の雑誌『OPUSアバナ』に編集委員として参加している。 早速、出版の経緯を聞いてみた。すると、1980年当初、キューバ国立出版公社でアジアのプロレタリア文学を出版しようという話が持ち上がり、美術・文学出版部責任者のマリア・テレサ・オルテガさんが、いろいろ読んだ中で、多喜二の『蟹工船』を選択した。彼女もまた英語の翻訳者であるが、翻訳部の友人のリディアさんに翻訳を依頼してきたという。悲惨な内容に引き込まれ、2ヶ月で翻訳したとか。しかし、印刷して出版されたのは2年後の83年だった。 

リディアさんは、出版責任者のマリア・テレサさんに出版経緯を聞くようにと電話をかけてくださった。テレサさんによると、「アジア、日本のプロレタリア文学の出版のため、いろいろ読んでみたが、多喜二の『蟹工船』は、中心人物がなく、集団が主人公という新しい文学を試みたもので、蟹工船内の海の男たちの生活は、感動的な自然主義文学であった。資本主義の残酷な現実を描いた素晴らしい作品で傑出していた。そこで編集会議にかけて認められた。5000部印刷したが完売した」という。

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読者の印象は、「蟹工船の資本家は、奴隷の主人よりももっと過酷に労働者を収奪するものだ」というものだった。 最後に彼女は、日本の若い読者へのメッセージを次のように送ってくれた。「新しい世代の人々が、この素晴らしい小説を読んで、より良い未来の建設のためにたたかうという多喜二の精神を引き継いでいただくよう願っています」。 

翻訳本の裏表紙には、本の紹介として次のように的確に述べられている。『蟹工船』は雑誌『戦旗』1929年5・6月号で発表されたが、単行本はほぼ即時に発禁となった。しかし、処女小説『1928年3月15日』で注目を集めていた小林多喜二(1903-1933)は、この作品により名声を高めた。著者は、中心人物がなく、集団が主人公という新しい文学を試みようとした。日本の蟹工船内の海の男たちの生活は、今世紀初頭のものである。感動的な自然主義文学となっている。小林多喜二は、日本のプロレタリア文学運動の最高峰である。その旺盛な創作、農民と労働者の解放への情熱的な献身、戦前の警察の手による若年の死は、そのことを示している。1947年以来、毎年日本全国でその死の記念活動が行われている。その他の作品として、『オルグ』、『安子』、『工場細胞』、『党生活者』がある。

2008年11月

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