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2017年3月

2017年3月12日 (日)

フィデル・カストロの死

フィデル・カストロの死

コロンビア人のノーベル文学賞作家で、フィデル・カストロの親友でもあった、ガブリエル・ガルシア・マルケス(1927-2014)が、「キューバを説明すれば、フィデルが政府首班であると同時に、反対派のリーダーでもあるということだ」と語ったことがあります。確かに、ある歴史が述べたように、「キューバ現代史は、フィデル・カストロ(以下フィデルと略称)の歴史」でもありました。

 そのフィデルが、昨年(2016年)11月25日に亡くなりました。享年89歳でした。一般には1926年8月13日に生まれで享年90歳といわれていますが、実際は多くの研究者が指摘しているように、1年早く進学するために父親が出生登録を書き直したもので、1927年が正確な誕生の年です。フィデルは、26という数字遊びが好きで、生まれたのが13日の倍数1926年、独裁者バチスタのクーデターによる政権奪取が1952年、翌年モンカダ兵営を襲撃して、バチスタに対して立ち上がり反乱ののろしを上げたのが26歳の時で7月26日でした。

 フィデルは、アイゼンハワー(1953-61)から、ケネディ(1961-63)、ジョンソン(1963-69)、ニクソン(1969-74)、フォード(1974-77)、カーター(1977-81)、レーガン(1981-89)、ブッシュ(1989-93)、クリントン(1993-2001)、ブッシュJr.(2001-08)と10人の米国大統領と渡り合い、様々な厳しい干渉を受けながらも、それに屈することなくキューバの主権を守り抜いたことは、大きな歴史的貢献でしょう。11月29日の追悼集会に参加したラテンアメリカ・カリブ海の左派政権の指導者たちが、一様にキューバ革命の存在がなかったら米国の厳しい干渉を受けて政権を維持できていないだろうと述べていたのは、心からの実感でしょう。追悼者の中には、キューバ独立の父と称えられている19世紀末のキューバ人、政治家・思想家のホセ・マルティの目的を実行したものと述べる人々が見られます。

マルティは、死の直前(1995年)に友人のマヌエル・メルカードに宛てた書簡でこのように述べています。
「米国が、アンティル諸島(カリブ海)に手をのばし、さらにより強大な力で、米州のわれらの国ぐにを支配しようとすることを、キューバの独立でもって適時に阻止するのが、私の義務です。そして、わが国とその義務のために、私は、生命をささげる危険に連日さらされているのです」。

 フィデルは、1959年の革命勝利後から1999年までの40年間、キューバ内務省の公開された報告によれば、米政府諸機関により638件の暗殺計画のターゲットになっていました。こうした熾烈な長期に渡る戦いが、フィデルの生涯にわたるものであることを、フィデルは、1958年6月5日ゲリラ戦の同志であるセリア・サンチェスに宛てて次のように述べています。
「(農民の協力者)マリオの家にロケット砲が打ち込まれるのを見たとき、アメリカ人に、彼らが行っていることに高い代償を払わせてやると私は誓った。この戦争が終わった時、私にとって、はるかに長期にわたる大きな戦争が始まるであろう。その戦争を、私は彼らに対して行うつもりだ。それが、私の真の運命となることが私にはわかっている」。

 この時、フィデル達はまだわずか300名で、ゲリラの根拠地にバチスタ軍1万人が、総攻撃作戦を展開していたときで、まだバチスタ軍との戦いの勝利が見通せないときでした。

 フィデルの下で中央企画庁長官として長期間(1976~86)勤務したウンベルト・ペレスが述べているように、「フィデルも人間ゆえいろいろな誤りを犯したが、最初にその誤りを認めるのはフィデルであったし、誤りはできるだけ短期間に目的を達成したいという性急さからでていた」という指摘は興味深いものです。そうした誤りの中には、60年代のラテンアメリカへの革命の輸出、国内経済での市場要素の無視、社会主義・共産主義の並行的円設論、同性愛者の強制収容所(UMAP)への隔離、1980年代の農民の自由市場の閉鎖、2000年代の半数の製糖工場の閉鎖などがあげられるでしょう。

 しかし、フィデル自身は「革命は歴史的時期に意味があり、改革されるべきはすべて改革しなければならない」(2000年)という改革の意識を生涯維持していました。また、2005年には、キューバ社会の歪んだ状況を見て、「悪習、横流し、汚職、不平等、不公正が社会にはびこっている、このまま続けば、われわれ自身で革命を倒壊させると」と率直に認めました。

 フィデルへの個人崇拝については、いろいろな演説や文章の中でフィデルを称賛する者が少なからずありましたし、フィデルもそれを容認していましたが、晩年は、「『世界のすべての栄光は、とうもろこしの実の一粒に入ってしまう』というマルティの言葉を守り、死後は火葬にふし、銅像、記念碑、道路・建造物への命名をしないようにという遺言をラウルに残しました。遺灰は、サンティアゴ・デ・クーバのマルティの墓の横に葬られました。

(新藤通弘)

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