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2011年6月12日 (日)

昔々、会議がありました・・

昔々、会議がありました・・・『グランマ』紙2011年5月30日付
レティシア・マルティネス・エルナンデス
(安井佐紀訳)

日本でも、会議が多い会社は危ないとよく言われます。4月に開催されキューバ共産党第6回大会の中央報告で、ラウル党第二書記(当時)は、「過剰な会議、点検、集団活動の習慣を改める。非生産的な活動への多数の参加を止める。会議の数と時間を減らすとことが不可欠である」と、厳しく指摘しました。キューバ共産党中央機関紙の『グランマ』紙でも、この問題を取り上げ、いろいろな議論を呼んでいます。以下に、同紙に掲載された、論評を紹介します。


昔々、会議がありました・・・

「あの列車が、魔術のせいではなく、大混乱を引き起こした時、鉄道公団の幹部たちはどこにいたのだろうか?」「闇屋たちで待合室が溢れ返っていたとき、待合室の責任者はどこにいたのだろうか?」「資材が、複雑な過程をたどって送られているとき、いつまでも終わりそうにない建設作業の責任者たちはどこにいたのだろうか?」。「もちろん、それぞれの事務所にはいたでしょう。問題を調整しながらね」と、ある女性は、何事もなく言った。彼女は、新聞を手にして、役人たちのある会議の記事を読み、さらにこうも言った。「最もありうることは、こうした人たちは、すぐに会議を開くことです」。

そう、実際に、キューバでは、余りの多くの人々が、非公開で、会議の中断を禁止して、会議から会議に飛び回っている。しかし一方では、会議の外の生活は、会議の狭い世界とは関係なく、あれほどたくさんの、延々と続く会議の意図とは、稀にしか接点を持っていないのである。

これは、「会議主義」と呼ばれている。多くの会議の招集に疲れている人々を見つけるのは、難しいことではない。彼らは、会議室の四方の壁に囲まれて、過ごした時間を計算し、未達成の10件の合意、来月までのもう5件の合意を議論し、おやつ(それがあれば)を食べ、何の個人的利益も考えずに会議を行う。会議は、長期にわたる工事の話し、悪循環、連綿と続く話しに変わっていく。その都度、誰かが、余りにも長い「本日の議事日程」をもとに、主要な文書の中で、規定されるべきこと、合意されるべきこと、重大目標とされることを修正しようとするが、それらの文書は、その後、ほとんどすべて、彼らの手の中から書類の抽斗の中へ、滑り落ちてしまうのである。とすると、会議は、問題に取りあえず絆創膏のバンドエイドを貼り、未達成の人びとを(ほとんどの場合、絹の手袋で)締め上げるための聖なる時間のようである。そして、未達成のこれらの人びとは、次回の会議で再度、「予測が甘かった」とか、「その問題は、別の人に移ってしまった」とか、「解決に努めているところだ」とかいうのである。それがまた、「救済する」ためのサロンを新たに招集するための、格好の言い分ともなるのである。

これは、会議とは言えないし、問題は、毎月15日開かれるそれぞれの党会議で解決されるものでもない。党会議で解決されるのは、国のいろいろな問題である。会議の招集は、働くためであって、招集への無条件反射として集まるためではない。私たちはどれだけ、私たちの仕事の実際の内容を中断しているのであろうか。そして、「いつ終わるかは、神のみぞ知る」と、もっぱら言うのである。ひょっとすると、秩序、規律、間違いに対する恥、所有権の感覚、労働時間の尊重、間違ったことへの批判を要求することを止めた方が、より成果があるのではないだろうか? しかしまた、誰にも疑いのないことは、これが、より有益で、同時により難しい要求であるということである。なぜなら、悪い見本の雑草は、こうした場面においても、はびこるからである。

そして、もしこの拙文を、一般的な会議風に長々と書くとすれば、それぞれの会議を定義する類型、その分枝類型、概念について書くことができるであろう。会議としては、課題を決めたり、合意を点検したり、入念に点検したり、積極性を引き出したり、奉仕労働(多くの場合、押し付けられたり、非生産的なものであるが)を募ったり、叱責したり、一日の出来事を議論したりするものがある・・・。それらの会議は、また、一日の勤務時間の真っただ中に行われるものもある。一日の勤務時間は、ラウル・カストロが党大会で言ったように、何よりもまず共産主義者にとっては、神聖なものであるはずだ。さらに、議論されていることは、火星の生命のように私たちにはまったく無関係だということで、ただ賛成の挙手をする人々については、どういったら良いのだろうか。

私は、これらの会議の中には、適切なもの、時宜にかなったもの、生産的なものもあるという事実を疑わない。しかし不幸にも、そういう会議は、一般的ではない。最近、すべてを、時間までも節約するのが急務であり、また、すべての投資を、時間までも、効率良く行うことが急務となっている。したがって、非常に頻繁に会議に「逃げ込む」習慣がある人たちには、もっと時間をかけて、足を地につけ、耳をそばだて、起きていることに注意を傾けるように忠告したい。そうすれば、なんらかの新聞に発表された手紙によって、会議で言われなかったり、隠されたことが発覚するようなことはないであろう。

エドゥアルド・ガレアーノが述べた言葉、「官僚は、それぞれの問題を解決するためには、必ず別のひとつの問題を持ち出してくる」、を忘れないようにしよう。

結局、要は合理的でなければならないということである。即ち、多くのキューバ人が、「政策路線」の討論において意見を述べたように、会議の数を必要不可欠なものに減らすこと、過剰な点検や「上級」の視察――誤りを指導するための術策であるが、結局は、現場の偽りの反応がそれに加わることとなる。というのは、問題は、根本的な問題があるからである――を禁止することである。「指導」という言葉を引き続き使用するとしても、ただ、突然の訪問が、(逆に)連絡されていたり、あるいは会議の出席者全員が現場に到着するとという形で行われれば、引き続き、無駄の積み重ねということになるであろう。この記事のタイトルもまた、引き続き、もちろん、いつも会議を行っているおとぎ話ということになろうが、しかし、魔法の杖はない、おとぎ話なのである。

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