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2010年10月22日 (金)

再びゲバラ評価について

日本のある友好組織のHPを見ました。ゲバラの写真で一杯で、いつからゲバラ協会になったのかと思います。HPのポータル・サイトは、組織の顔です。その組織は、これまでのホセ・マルティ独立記念塔をバックに掲載していました。この塔は、キューバの民族独立、民族主権を表しており、その組織は、それを支持し、擁護する運動体であるという意味がありました。また、マルティは、政治的な左右を問わず、だれもがキューバ独立の父と認める普遍性のある歴史的人物でした。

しかし、ゲバラについては、いろいろな意見があります。ゲバラのロマンティシズムをくすぐる側面を美化し、賛美することなく、客観的に史実を分析する必要があります。いくつかの史料を記しましょう。

1965年ゲバラが、ナセルと会談したとき、ゲバラ及びキューバの干渉主義的行為を批判しました。
ゲバラは、2月19日、再度エジプト訪問し、ナセルと長時間会談しました。その席で、ゲバラは、キューバでの98%国有化は間違いであったし、その責任は自分にあると語りました。また、ゲバラ、ナセルに、コンゴに行って戦うつもりと述べました。ナセルは、驚き、「白人の君は、ゲバラとすぐ分かってしまう。また、帝国主義者に、ゲバラと傭兵の間に違いがなくなると批判するチャンスを与える。アフリカにキューバ人部隊を送れば、外国の干渉と呼ばれ、マイナスである。またコンゴには革命の条件がない」と述べ、「考えを忘れるよう」にいさめました(ヘイカル、『カイロ文書』1972年)

ゲバラがボリビアで武装闘争を進めようとした時、ボリビア共産党書記長のマリオ・モンヘは、次のようにゲバラに述べました。歴史は、モンヘの指摘が正しかったことを後年示しました。
「国民がこのゲリラ戦が、外国人によって指導されていると知ったなら、背を向け、支援を拒むであろう。ボリビア人が指揮するのでなく、外国人が指揮するということになれば、必ず失敗するであろう。君たちは大いに英雄的に死亡するであろうが、未来の展望はない。」(インティ・ペドロの証言、1971年)。

また、モンヘの後に、ボリビア共産党書記長となったホルヘ・コージェも武装闘争の条件がなかったことを指摘しています。
 「キューバ革命の勝利の結果、一部の知識人たちによってそれが一般化され、新しいこの概念が革命闘争の雰囲気の中で有効性が追求された。農村及び都市の非プロレタリア階層がその支持の源泉であった。その方法論、ゲリラ闘争、より適切には「フォコ」論、その社会主義の待望、こうした概念は、大陸的な広がりを見せたが、少なくともわれわれ、ボリビアの現実には沿わなかった。
ボリビアの革命は、ボリビア人によって指導されなければならなかった。ゲバラの失敗は、その民族的性格を無視しようとしたところにあったのではないか。したがって、ゲバラは、顧問か、志願兵でなければならず、ゲリラの司令官であってはならなかった」(1971年6月第3回PCB大会での報告)。

こうした、ゲバラのゲリラ理論、主観主義的な判断について、ネバダ大学のトマス・ライト歴史学教授は、次のように鋭く批判しています。
「ゲバラのゲリラ理論は、キューバでのゲリラ闘争の経験に基づくといいながら、都市の労働者大衆のたたかいを軽視してはならないとはいいつつも、広範な反バチスタ闘争が存在したことを事実上無視し、『ゲリラ戦争』では都市の抵抗に2%しか当てておらず、ゲリラのフォコに論点を集中した。キューバ革命の大きな評価と英雄的なゲリラ戦士としてのゲバラの姿によって、彼の言葉は多くのラテンアメリカ人にとってゴスペルとなった。こうして、彼は、キューバ史をゆがめただけでなく、ラテンアメリカの革命に欠陥モデルを提起し、それによって多くのものを死に至らしめたのである」。

2005年、ベネズエラのチャベス大統領もゲバラのボリビアでの武装闘争を批判しています。
「チェの理論は、当時、実現の可能性がなかった。そのことは、はっきりと示された。山岳地帯の100人のゲリラ拠点は、キューバにおいては有効であったが、条件は大きく違っており、それゆえチェはボリビアで死んだのである。
・・・しかし、歴史は、あるいはより適切にいえば現実は、ラテンアメリカにおいて一つ、二つ、三つのベトナムというあの理論がベネズエラにおいてもまた無効であったことを示した。(2005年世界社会フォーラムでの演説)。

日本でも、2010年、日本共産党の不破哲三氏は、マルクス主義の立場に立って、下記のように問題の本質を明らかにしています。
「そこから、ラテンアメリカの革命運動の側にも、一つの独特の流れが生まれました。いわゆる「ゲバラ主義」です。ゲバラとは、アルゼンチン人の革命家で、カストロが革命運動を起こしたとき、志をともにしてキューバに乗り込み、革命勝利までたたかいぬいたキューバの英雄です。革命の勝利後、しばらく政権の幹部として活動しましたが、その後、新しい革命の地を求めるといってキューバから出(六五年)、結局、ボリビアをその地と定めてそこでゲリラ闘争の準備をする活動の途中に、政府軍に攻撃されて生命を失いました(六七年)。
そのゲバラの名のついた路線「ゲバラ主義」が、ラテンアメリカ革命運動の特徴だと言われた時期があったのです。その大きな特徴は、二つありました。一つは、ラテンアメリカでは、ゲリラの武装闘争以外に革命勝利の道はない、として、武装ゲリラの闘争をラテンアメリカの革命運動の原則にしてしまったことです。もう一つは、ラテンアメリカの革命には「国境はない」といって、それぞれの国の革命運動の自主性を否定する立場をとなえたことでした。この二つが、ラテンアメリカの革命運動のかなり広い部分で、原理原則とされた時期が、六〇年代から七〇年代にかけてあったのです。その背景には、アメリカの強圧的な支配のもとで、左派勢力が選挙で勝利をしても、武力干渉やクーデターでつぶされてしまう、という多年の経験がありました。
しかし、「ゲバラ主義」も、実際には、そう長続きしませんでした。その過程のなかでの私の一つの経験を紹介しておきますと、私は一九八四年にキューバを訪問して、カストロ首相(当時)と会談したのです。そのとき、会談のなかで、私は、「あなた方は民族自決権についてどう考えているのか」と、三つの質問を出しました。
第一に聞いたのは、「ラテンアメリカの革命運動は一つ、国境はない」という考え方についてです。この考えに立つと、ラテンアメリカの人間なら、どこの国に手を出してもいいということになりますから、革命運動の自主性の原則が成り立たなくなります。この質問にたいするカストロの答えは、「われわれは、各国の革命運動の自決権を尊重する。干渉的なやり方はキューバの方針ではない」というものでした。この回答で、少なくとも「革命運動に国境なし」という間題では、キューバがゲバラ主義を卒業していることが、理解されました」。(2010年1月不破哲三『マルクスは生きている』第二回マルクスの眼で見た21世紀の日本と世界、『前衛』2010年1月号掲載)。

以上のことから、ゲバラを美化し、賛美して、その組織のHPに掲載することは、日本の革新運動に何のプラスにもならず、適切とは考えません。資料の掲載については、議論を呼ぶ問題は、慎重に検討されることをお勧めします。

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