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2010年10月

2010年10月27日 (水)

米国の対キューバ経済封鎖解除決議について

昨日10月26日、第65回国連総会で、決議案A/65/ L 3、「米国の対キューバ経済・通商・金融禁輸措置を解除する必要性」が、賛成187カ国、反対2国(米国、イスラエル)、棄権3カ国(マーシャル諸島、ミクロネシア、パラオ)という圧倒的大差で採択されました。昨年賛成のパラオが棄権にまわり、国連加盟国192カ国の97.4%が賛成しました。

これで、米国の不当ないわゆる「対キューバ経済封鎖」政策は、19年連続して国際社会の圧倒的な意見で解除が要求されたことになります。この決議の採択において、国際社会は、「ほぼ満場一致」で米国の対キューバ経済封鎖が、国連憲章、国際法、民族自決権、内部問題不干渉、国内政策の域外適用、自由貿易に反するものとして、それを厳しく批判しました。

キューバ政府は、1962年からの48年にのぼる経済封鎖により累積損害は1,001億ドル(時価評価額7,513億ドル)に達し、経済発展の大きな障害になっていると報告しています。

米国の経済封鎖政策の中でも、米国農産物の対キューバ輸出は、昨年度6億7500万ドルに達し、米国は、キューバにとって第5位の輸入相手国となっています。また、米国人、米国在住の里帰りキューバ人は、2009年40万人に上りました。歴史的、地理的関係からも、米国の経済封鎖の解除は、双方にとって利益のあることです。
 
オバマ政権は、昨年4月にキューバ系米国市民の家族訪問、家族送金、通信サービスの提供など、封鎖条件を一部緩和しましたが、依然として、海外銀行が米ドルを使用してキューバと取引をしたとして、制裁金を課したりしています。一方、一層の経済封鎖の解除に向かう条件として、キューバ政府に政治囚の釈放を要求しています。しかし、一方的に経済封鎖をしておいて、それを緩和したから、今度はキューバ側が国内政策を変更すべきだという主張は内政干渉であり、キューバ側は到底受けられるものではありません。両国の関係改善は、無条件、対等、平等、互恵、内部問題不干渉という国際社会で広く認められている原則に基づいた交渉においてこそ可能です。オバマ政権は、そうした原則を認めてこそ、対等のパートナー・シップが可能となるものです。
「10.10.26 国連総会における米国経済封鎖解除決議投票結果1992-10.pdf」をダウンロード

なお、決議案は、昨年の決議とほぼ同じ内容で、年度などの数字が異なっているだけです。
「10.10.26 UN 経済封鎖解除決議案英文.pdf」をダウンロード

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2010年10月23日 (土)

親の七光り?

ある友人が、「不破さんは、『キューバは、ゲバラ主義を卒業した』、あるいはメキシコの民主革命党の指導者は、『ラテンアメリカでは”ゲバラ主義”が克服されつつある』といっているが、日本では、少なからずのゲバラ信奉者が、学習もせず、実習もせず、卒業もしていないのではないか、と筆者に語ってくれました。

最近、ゲバラの娘さんの、アレイダ・ゲバラさんが、再度、訪日し、各地で、キューバの国内情勢、国際情勢について、父の思い出について講演会を行っています。アレイダさんは、小児科医ですが、医師として特に業績があるわけではありません。またキューバの国内情勢の研究家でも、国際情勢の専門家でもありません。「売り」は、父、ゲバラの娘ということ以外にはありません。でも、ゲバラ信奉者にとっては、あの父の思い出を聞くだけでも・・・という気持ちがあるかもしれません。敢えていえば、国際親善活動家ともいえるでしょうか。あるいは、親の七光りということでしょうか。

いうまでもありませんが、アレイダさんとチェ・ゲバラは親子で、別人格です。アレイダさんの評価は、アレイダさんの活動の業績のみで評価されるべきでしょう。フィデルの娘のアリーナ・フェルナンデスさんは、1993年スペイン経由で米国に亡命し、現在、キューバの現政権に対し、厳しい批判活動を展開しています。また、革命の元勲のひとりであるフアン・アルメイダ・ボスケ革命軍司令官の息子、フアン・フアン・アルメイダさんは、反体制派として、今年8月にスペイン経由米国に亡命しました。しかし、アリーナさんも、フアンさんも、日本に来た場合、フィデルの娘、アルメイダの息子として、彼らの言動を抜きにして、肯定的に評価するのでしょうか。右の立場からすれば、フィデル、アルメイダの子息が、体制批判を!と評価するのでしょうか。

あるいは、ラウルの娘さん、マリエラ・カストロさんは、性社会学者として、国内外で活動しています。マリエラさんは、ラウルの娘さんとして評価されているのではなく、彼女の学者としての研究業績そのものが、内外で評価されているからです。

問題は、その人、個人の業績であることは、こうした革命の元勲たちのファミリーの現状を見てもわかります。親の七光りの見かたは、どこかの国にまかせましょう。

参考までに、今少し、ゲバラ評価の資料を追加しておきましょう。

60年代のゲバラのラテンアメリカでの武装闘争、キューバの支援について、当時キューバ共産党中央委員会の国際部で指揮していた、マヌエロ・ピネイロは、次のように、計画の全容を、内政干渉の問題、民族自決権の無視の問題など、なんの反省もなく語っています。
「先ずはボリビアに南米のいろいろな国籍をもつ戦闘員からなる本隊を創り、その後アルゼンチンを初めとする南米地域にゲリラ部隊を派遣して、武装闘争を拡大する。これは帝国主義に支援された近隣の政府や軍隊の反撃を呼び、そのことはまた南米の武装闘争を拡大し、同時に凄惨な、長期の、困難なたたかいをもたらし、アメリカ帝国主義の介入をまねくこととなる。それは、とりもなおさずもう一つのベトナムとなるものであった(Manuel Piñeiro 1997, p.19)。

1966年12月31日の会談でのモンヘの主張、党への報告。
「ゲバラは、アメリカ帝国主義に対する社会主義のたたかいである。アメリカのすべての国は彼の国であるので、いかなる所でも戦うつもりだと述べた。ボリビア革命の問題は、ボリビアの内情をよく理解しているボリビア人の手によって行われなければならないと自分は反論した。私は、ボリビア共産党は、武装闘争路線を支持していないと述べた」。

「チェのゲリラは、キューバのボリビアへの内政干渉であった。ボリビア共産党(PCB)は一度も武装闘争を決議したことはない。キューバは、チェが、アルゼンチンでゲリラ闘争を行うためにボリビアを通過するので、協力してほしいと最初はいってきたが、チェがボリビア来て、ボリビアでゲリラ闘争を行うといったので驚いた。ゲリラ闘争の条件はなかったからだ。PCBは、大衆が蜂起する考えをもっていた。
フィデルは、モンヘが裏切ったといっているが、その後ミナとのインタビュー(1991)で、PCBに責任はないといっている。しかし、ボリビアでのチェの日記の序文ではきびしく批判している。大きな間違いだ。モンヘはPCB書記長で、勝手に行動したのではないので、PCBを批判したことになる」。マルコス・ドミニチ、ボリビア共産党前書記長、「マルクス主義党員」編集委員、2009年2月、筆者とのインタビューで。

1965年、ベネズエラ共産党の国際問題責任者エドゥアルド・ガジェーゴは、カストロの依頼で中国にゲバラと一緒に訪問するためアルジェリアに向かいます。そこでゲバラと会い、激烈な議論を交わしました。その中で、ゲバラは、「ベネズエラのゲリラ戦に参加したい」と述べます。ガジェーゴは、「それはキューバの干渉と主張する口実をアメリカに与え、アメリカがベネズエラに干渉することになるだけ。受諾かどうかは、政治局が決定する」と回答しました。ガジェーゴは、アルジェでこのことをベネズエラの民族解放軍全国指令部FALNの代表団にも報告しました。彼らも同意見でした。客観的・主観的現実の条件がないことから、武装闘争が消滅していたことがその理由でした。(Eduardo Gallegos Mancera, Revista Internacional, No.10 de 1987)

「ラテンアメリカ情勢のもう一つの大きな特徴ですが、「ラテンアメリカでは”ゲバラ主義”が克服されつつある」(わが党の大会に出席したメキシコの代表言葉)ところに、現在進んでいる変革の過程の非常に重要な点かあります。
"ゲバラ主義“とは何か。チェ・ゲバラは、アルゼンチン生まれの革命家で、一九五六年には、カストロの片腕となってキューバ革命にくわわり、一九五九年の革命勝利のときには、革命軍の一司令官として首都ハバナに入った人物です。政権の成立後は、政府の要職をつとめ、軍事面でも経済面でも力を発揮しましたが、一九六五年、新しい革命の地を求めてキューバを去りました。
その時、別れの手紙として、三大陸人民連帯機構の組織に、かなり長文のメッセージが送られてきました。そのなかに、ラテンアメリカの革命についてのゲバラの考えがかなり詳しく説明されていたのです。
その一つは、ラテンアメリカ革命は一つであって、この大陸の革命には国境はない、といった考え方です。ゲバラ自身、この立場から、南アメリカのボリビアを新たな革命の地として選び、独自にそこでゲリラ闘争を起こそうとして失敗し、政府車に殺されました。
もう一つは、ラテンアメリカでは、革命の道は武装闘争――革命的ゲリラ闘争しかない、という立場です。この点は、ある時期までは、ラテンアメリカの国ぐにには、この立場を正当化する情勢がたしかにありました。チリのように、選挙で選ばれた大統領が軍部のクーデターで殺されるといった事態は、アメリカの政治支配を背景に、多くの国ぐにで、ごく普通の状況となっていたからです。
この二つの点は、ゲバラ一人の方針ではありませんでした。ゲバラがボリビアで殺されたあと、キューバは残されたゲバラの日記(「ボリビアでのチェの日記」)を公刊し(一九六八年)、カストロ首相が「どうしても必要な序文」と題した一文を添えました。それを読むと、さきのゲバラの主張が、同時にカストロ首相の主張でもあったことが分かります」。(不破哲三『新・日本共産党綱領を読む』(新日本出版社、2004年)28-239ページ)。

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2010年10月22日 (金)

再びゲバラ評価について

日本のある友好組織のHPを見ました。ゲバラの写真で一杯で、いつからゲバラ協会になったのかと思います。HPのポータル・サイトは、組織の顔です。その組織は、これまでのホセ・マルティ独立記念塔をバックに掲載していました。この塔は、キューバの民族独立、民族主権を表しており、その組織は、それを支持し、擁護する運動体であるという意味がありました。また、マルティは、政治的な左右を問わず、だれもがキューバ独立の父と認める普遍性のある歴史的人物でした。

しかし、ゲバラについては、いろいろな意見があります。ゲバラのロマンティシズムをくすぐる側面を美化し、賛美することなく、客観的に史実を分析する必要があります。いくつかの史料を記しましょう。

1965年ゲバラが、ナセルと会談したとき、ゲバラ及びキューバの干渉主義的行為を批判しました。
ゲバラは、2月19日、再度エジプト訪問し、ナセルと長時間会談しました。その席で、ゲバラは、キューバでの98%国有化は間違いであったし、その責任は自分にあると語りました。また、ゲバラ、ナセルに、コンゴに行って戦うつもりと述べました。ナセルは、驚き、「白人の君は、ゲバラとすぐ分かってしまう。また、帝国主義者に、ゲバラと傭兵の間に違いがなくなると批判するチャンスを与える。アフリカにキューバ人部隊を送れば、外国の干渉と呼ばれ、マイナスである。またコンゴには革命の条件がない」と述べ、「考えを忘れるよう」にいさめました(ヘイカル、『カイロ文書』1972年)

ゲバラがボリビアで武装闘争を進めようとした時、ボリビア共産党書記長のマリオ・モンヘは、次のようにゲバラに述べました。歴史は、モンヘの指摘が正しかったことを後年示しました。
「国民がこのゲリラ戦が、外国人によって指導されていると知ったなら、背を向け、支援を拒むであろう。ボリビア人が指揮するのでなく、外国人が指揮するということになれば、必ず失敗するであろう。君たちは大いに英雄的に死亡するであろうが、未来の展望はない。」(インティ・ペドロの証言、1971年)。

また、モンヘの後に、ボリビア共産党書記長となったホルヘ・コージェも武装闘争の条件がなかったことを指摘しています。
 「キューバ革命の勝利の結果、一部の知識人たちによってそれが一般化され、新しいこの概念が革命闘争の雰囲気の中で有効性が追求された。農村及び都市の非プロレタリア階層がその支持の源泉であった。その方法論、ゲリラ闘争、より適切には「フォコ」論、その社会主義の待望、こうした概念は、大陸的な広がりを見せたが、少なくともわれわれ、ボリビアの現実には沿わなかった。
ボリビアの革命は、ボリビア人によって指導されなければならなかった。ゲバラの失敗は、その民族的性格を無視しようとしたところにあったのではないか。したがって、ゲバラは、顧問か、志願兵でなければならず、ゲリラの司令官であってはならなかった」(1971年6月第3回PCB大会での報告)。

こうした、ゲバラのゲリラ理論、主観主義的な判断について、ネバダ大学のトマス・ライト歴史学教授は、次のように鋭く批判しています。
「ゲバラのゲリラ理論は、キューバでのゲリラ闘争の経験に基づくといいながら、都市の労働者大衆のたたかいを軽視してはならないとはいいつつも、広範な反バチスタ闘争が存在したことを事実上無視し、『ゲリラ戦争』では都市の抵抗に2%しか当てておらず、ゲリラのフォコに論点を集中した。キューバ革命の大きな評価と英雄的なゲリラ戦士としてのゲバラの姿によって、彼の言葉は多くのラテンアメリカ人にとってゴスペルとなった。こうして、彼は、キューバ史をゆがめただけでなく、ラテンアメリカの革命に欠陥モデルを提起し、それによって多くのものを死に至らしめたのである」。

2005年、ベネズエラのチャベス大統領もゲバラのボリビアでの武装闘争を批判しています。
「チェの理論は、当時、実現の可能性がなかった。そのことは、はっきりと示された。山岳地帯の100人のゲリラ拠点は、キューバにおいては有効であったが、条件は大きく違っており、それゆえチェはボリビアで死んだのである。
・・・しかし、歴史は、あるいはより適切にいえば現実は、ラテンアメリカにおいて一つ、二つ、三つのベトナムというあの理論がベネズエラにおいてもまた無効であったことを示した。(2005年世界社会フォーラムでの演説)。

日本でも、2010年、日本共産党の不破哲三氏は、マルクス主義の立場に立って、下記のように問題の本質を明らかにしています。
「そこから、ラテンアメリカの革命運動の側にも、一つの独特の流れが生まれました。いわゆる「ゲバラ主義」です。ゲバラとは、アルゼンチン人の革命家で、カストロが革命運動を起こしたとき、志をともにしてキューバに乗り込み、革命勝利までたたかいぬいたキューバの英雄です。革命の勝利後、しばらく政権の幹部として活動しましたが、その後、新しい革命の地を求めるといってキューバから出(六五年)、結局、ボリビアをその地と定めてそこでゲリラ闘争の準備をする活動の途中に、政府軍に攻撃されて生命を失いました(六七年)。
そのゲバラの名のついた路線「ゲバラ主義」が、ラテンアメリカ革命運動の特徴だと言われた時期があったのです。その大きな特徴は、二つありました。一つは、ラテンアメリカでは、ゲリラの武装闘争以外に革命勝利の道はない、として、武装ゲリラの闘争をラテンアメリカの革命運動の原則にしてしまったことです。もう一つは、ラテンアメリカの革命には「国境はない」といって、それぞれの国の革命運動の自主性を否定する立場をとなえたことでした。この二つが、ラテンアメリカの革命運動のかなり広い部分で、原理原則とされた時期が、六〇年代から七〇年代にかけてあったのです。その背景には、アメリカの強圧的な支配のもとで、左派勢力が選挙で勝利をしても、武力干渉やクーデターでつぶされてしまう、という多年の経験がありました。
しかし、「ゲバラ主義」も、実際には、そう長続きしませんでした。その過程のなかでの私の一つの経験を紹介しておきますと、私は一九八四年にキューバを訪問して、カストロ首相(当時)と会談したのです。そのとき、会談のなかで、私は、「あなた方は民族自決権についてどう考えているのか」と、三つの質問を出しました。
第一に聞いたのは、「ラテンアメリカの革命運動は一つ、国境はない」という考え方についてです。この考えに立つと、ラテンアメリカの人間なら、どこの国に手を出してもいいということになりますから、革命運動の自主性の原則が成り立たなくなります。この質問にたいするカストロの答えは、「われわれは、各国の革命運動の自決権を尊重する。干渉的なやり方はキューバの方針ではない」というものでした。この回答で、少なくとも「革命運動に国境なし」という間題では、キューバがゲバラ主義を卒業していることが、理解されました」。(2010年1月不破哲三『マルクスは生きている』第二回マルクスの眼で見た21世紀の日本と世界、『前衛』2010年1月号掲載)。

以上のことから、ゲバラを美化し、賛美して、その組織のHPに掲載することは、日本の革新運動に何のプラスにもならず、適切とは考えません。資料の掲載については、議論を呼ぶ問題は、慎重に検討されることをお勧めします。

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2010年10月17日 (日)

キューバ考古学の貢献者、アメリカ人ハーリントン

キューバの考古学にはアメリカ人達が貢献した。その一人は、ハーリントンである。
Cuba Now, Miércoles, 22 de septiembre de 2010
ヤネリス・アブレウ(浦野保範訳)

 マーク・レイモンド・ハーリントン(米国生れ1882~1971年)は、何度もキューバを訪れ、先住民達の遺跡を調査した。ハーリントンは、アメリカ・インディアン博物館館長のジョージ・G・ヘイエの要請で1915年2月にキューバを訪問した。彼の使命は、キューバのテオドロ・デ・ボーイによって始められた東部諸県での考古学調査を引き続き行うことであった。

 ハーリントンは、調査の報告で文化的用語を繰り返し使用して、20世紀初頭のアメリカ人類学の流れに傾倒していることを示した。こうして19世紀のキューバにおける考古学の分析傾向は変わった。ハーリントンの研究は、その後、キューバの考古学と人類学の専門研究にとって、必須の参考文献となった。

 アメリカによるキューバの占領期間(1898-1902)に幾つかの研究機関が設立され、キューバの知識人達の協力によって、人類学教育がある程度制度化されたことを明らかにしなければならない。この学問の研究がアメリカで盛んになる機運も、アメリカに干渉されたキューバ政府が、制度化を受け入れるにあたって幸いしたのであった。

 キューバの最東部に位置する都市の一つである、グアンタナモ県のバラコアは、ハーリントンの主要な調査目的地であった。先住民の重要な定住地であるルイス・ラソの考古学的遺跡のひとつにおいて、彼は、石製及び土製の道具類を発見した。

 ハーリントンが1918年から1919年にかけて実施した調査は、より広範囲に渡り、グアンタナモ地域にあるサン・カルロス渓谷とエル・ペスケーロ渓谷にある幾つかの洞穴を調査した。

 この調査経験による彼の印象は、著書「コロンブス以前のキューバ(1921)」という形で結実し、ヘイエ財団とアメリカ・インディアン博物館によりニューヨークで出版された。

 キューバでは1922年に同著が普及され、その後1935年にキューバ人のアントニオ・メストゥレとフェルナンド・オルティスによってスペイン語に翻訳され、出版された。

編集では、キューバ先住民についての数人の研究家による成果が盛り込まれた。遺物のレプリカ製作を含め、歴史的、言語的、考古学的分析が行なわれた。この目的は、先住民に関するキューバに存在する文献を集大成して、キューバ考古学研究の発展に寄与することであった。

いくつかの地点でハーリントンにより指揮されて行われた詳細な発掘調査では、良質な図録が作成された。調査官の報告においては、貝殻や石製及び土製のような遺物の目録とリストの作成が優先され、キューバの先住民の年代別の特徴が明らかにされて、そのことによって先住民の文化の発展段階が特定された。

考古学者のハーリントンは、アメリカのミシガン州で生まれ、キューバでの考古学調査を発展させ、先住民の多くの遺物を発見した。彼は、ピナール・デル・リオでは木製の棒及び容器、木葉型斧を発見し、これらの何点かは形状分類から丸鑿(のみ)と判断した。彼のおかげで、スワロー・ピル(舌圧子)と呼ばれる遺物が発見された。また、彼は、ピナール・デル・リオの「ロス・インディオス洞穴」で赤く色付けされた骨製品を発見した。キューバで2例目の岩面画と絵文字の発見も彼に負うものである。
 
1915年にグアンタナモのマイシに位置するラ・パターナ洞穴内で発見された、高さが最大1メートルを超える石筍に線画が施された遺物は、最も脚光を浴びた。この線画は、形状が葉巻に似ていることから、「タバコの偶像」と呼ばれている。この遺物は、キューバ先住民考古学上の最大の発見のひとつとされている。

ここで明らかにしなければならないことは、純粋な科学的関心とともに、ハーリントンにおいても、それまでの研究者達と同様に、略奪行為が行なわれたことである。遺跡現場周辺とともに、愛好家や、収集物の拡大に興味をもっている人びとや考古学博物館に遺物を販売する業者によって、遺跡が破壊されたのであった。

 何点もの遺物がキューバから持ち出され、現在アメリカのスミソニアン博物館で展示されている。
 
このような問題にも係わらず、遺物の中には、ハバナ大学の「ルイス・モンタネ博士」人類学博物館に寄贈されたものもあり、現在も保管されている。

以上

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2010年10月 7日 (木)

あばたもえくぼ?

あばたもえくぼ?

先日、キューバ人と結婚し、キューバに8年間在住しているAさんから、メールがあった。
「キューバは元気です♪♪♪
経済危機の影響を受けて、観光産業は伸び悩みですが、市民の生活は、少しずつですが改善しています。・・・
また、(9月3日、フィデルは)、病後初めて大衆の前でスピーチをしました。ハバナ大学の大階段で、学生たちへ、ですが、もちろんこれも、私は参加しました。ビデオにとりましたが、ちょっと遠かったですね」。
と、フィデルの熱烈な信奉者であるAさんは熱っぽく語っている。

Aさんは、軽く、「市民の生活は、少しずつですが改善しています」というが、キューバ政府・国際機関の発表資料、キューバ内外の研究者の論文、キューバ内外の新聞情報、キューバ人友人からの情報を連日分析している研究者としては、首をかしげる内容であった。キューバ経済は、外貨事情が困難を極め、生活必需品の輸入も不足しがちで、外貨ショップの品ぞろいも不十分、農業生産も不振が続き、土地の使用権の貸与による農業の振興も、市場に農産物が出回るまでには至っていない。市民生活は、相変わらず厳しいというのが、研究者としての私の認識である。「一体どの点でそういうことがいえるのだろうか。キューバで生活する人の、『経験者は語る』ということもあり、『さもありなん』という話を聞けば、少なからずの人びとがそれを鵜呑みにしかねない。善意のキューバ『ファン』には、一服の清涼剤のように待望のニュースとして受け取られるだろう。困ったものだな」と考えた。

筆者は、現在、キューバが、所有と経営の分離(タクシー、バス、美容院、理髪店)、農地の使用権の貸与(11万人に100万ヘクタール)、労働力の約4分の1に当たる100万人(来年3月までに50万人)の過剰労働者の配転(農地使用権の貸与、自営業の種類の拡大、生産協同組合の創設、サービス業協同組合の創設などを通じて)、そのための流通・市場改革、新たな金融制度、税制度などの歴史的な経済改革に取り組んでいることを重視している。しかし、未だこの取り組みは端緒に就いたばかりであり、その成果は現れていない。こうした安易な「市民生活が少しずつ改善されている」という表現を問題にするのは、現在のキューバの改革の現状から目をそらさせることになりかねないからである。

そこで、一応、念のために、同じように日本人で、キューバ人と結婚しキューバに20年近く在住しているBさんに、市民の生活状況を聞いてみた。私が、Aさんの発言を否定しても、熱烈なキューバ信奉者は、「住んでいる人の発言だよ、行ってもみないでいうなよ」と筋違いな発言が却ってくるのが、予想されるからだ。

Bさんは、いつものように冷静な筆致でこのように答えてきた。
「キューバの経済状況に関してですが、例えば、個人営業を許可された種目が増え、それに従い各省庁・国営企業より大量の解雇が続出し、個人営業や農業にて食べていくように・・・という政策が進められています。しかし、実際には、それにより経済状況が変化しつつある、という状況には、まだありません。
理由は、個人営業を許可された種目が、経済を(生産面で)動かすことに直接関与していくような種目ではなく、民宿や、レストラン、家電の整備など、非常に個人的なものに感じるからです。また、そのための資金の貸し付けも国は推奨しておりますが、レストランなどの食材などの仕入れは、国のコントロールのもとに行われ、より良いものをより安く仕入れる、という私たちの感覚からは、ほど遠い感じです。・・・
市民の実生活で、経済状況の上向きを感じておられるAさんが、羨ましいです。些細なことでしょうが、砂糖がありません。お米も大変です。玉ねぎが入手困難なので、得意のカレーライスも出来ないでいます。PCのバックアップの修理が、部品不足で出来ません。車の修理も、部品不足で出来ません。これらは以前からあったことですが、砂糖が入手しにくくなったのは、20年住んできて、初めてです。
私には、将来の生活の危機感はありますが、経済が上向いたという生活実感は、全くありません」。

ちなみに、Aさんはキューバでは仕事に従事せず、日本からの収入で暮らしを支えており、Bさんはキューバで仕事に従事して、その収入で一家を支えている。その収入のあり方の違いも、二人の受け取り方の違いにあるかもしれない。しかし、二人とも、外貨ショップで食料、生活物資の大半を買わなければならないのは、同じ条件である。事実を事実として、どれだけ客観的に述べるかの問題ではなかろうか。あるキューバ人新聞記者に、Aさんの主張を聞いたところ、「フィデルは、彼女のキューバ宣伝に感謝しなければならないね」とのことであった。

実は、Aさんのメールでもうひとつ気になることがあった。「9月3日にハバナ大学でのフィデルの演説に参加した」と感動して述べていることである。フィデルは、この演説で、「世界の政治家の中で、自分だけがアメリカとイスラエルによる北朝鮮、イランの核攻撃、それから誘発される世界核戦争が近日中に起きる可能性を世界に警告してきた。9月7日、9日、15日、20日に核戦争が起きるかもしれないので、それぞれが対処の計画を立てておかなければならない」と述べているのである。しかし、その後何も起きていないことは、周知のとおりである。

私の友人が、一時帰国しているAさんに先日会った際に、「9月7日のイラン攻撃と核戦争の話、どうなりましたか」と聞いたところ、Aさんは、「フィデルの努力で延期されたのです」と答えたとのことである。もし、そうであれば、フィデルが、「オバマを説得した結果、オバマは核の引き金を引くことを思いとどまり、核戦争にならなかった」ということになる。しかも、彼はこれまで4度核戦争勃発の日を予測し、いずれも「延期させた」ことになる。であれば、フィデルは、この人類を世界核戦争による絶滅の淵から救った快挙により、ノーベル平和賞に値するであろう。実際、キューバ人の中には、フィデルの行動の中に、そうした意図を推測する人びともいる。しかし、世界ではノーベル賞に値するという声は聞かれない。

実は、キューバと友好を進める日本のある友好組織も、正確に言えば組織の現執行部も、Aさんと同じようにフィデルの世界核戦争緊迫論を支持している。同組織は、機関紙9月号(9月8日発行)で、8月7日のフィデルの国会へのメッセージ(演説)を肯定的なものとして掲載したのである。折しも、キューバ諸国民友好協会(ICAP)が、8月12日(8月7日の国会演説)、9月7日(ハバナ大学での演説)とフィデルの主張を宣伝日本で宣伝するように、日本の友好諸団体、個人に要請してきていた時期である。

その演説で、フィデルは、
「イランが米国とイスラエルの要請に一歩も譲歩せず、米国とイスラエルは戦争手段を動員しているので、2010年6月9日の安保理の合意期限が終了する (9月7日)やいなやイランを攻撃するはずである。・・・その指令は、オバマ大統領が行うことになるが、膨大な核兵器により米国も含め世界で数億人の死者を出すことになる。同時に、近東、極東、ユーラシアでも核戦争が勃発するであろう」。
と述べているのである。筆者は、即日、キューバ諸国民友好協会に演説の内容に同意できないこと、日本で宣伝を呼び掛けることは正しくないことを回答した。

また、上記の日本の友好組織の会員でもある筆者は、この非現実的なフィデルの主張を主観主義的なものとして、同機関紙に掲載すべきではなかったと抗議のメールを送った。すると、「フィデルの久しぶりの国会演説であり掲載した。フィデルの主張は主観主義的なものではない。内容に問題はない」との回答であった。筆者が、フィデルの最近の議論が主観主義的と考える理由は、添付の「フィデルの立論の展開」を参照こう。そこには、論理の飛躍、論拠の変遷、核戦争近日勃発の予言日の失敗(すでに4度)、客観的資料抜きの断定、他国指導者への不必要な罵倒など、少なからず見られる。一般にはこれを主観主義と述べるのであるが、読者自ら判断してほしい。

恐らくは一般の人にとっても、人や時期よりも、大切なのは、その内容である。しかし、この人びとにとっては、「フィデルが久しぶりに」演説したことが、敢えていえば、「フィデル」が演説したことが重要なのであろう。内容を真に検討したうえでの掲載であれば、9月7日以降の近日に(1週間以内)に、あるいは現在までも「世界核戦争が起きて、数億人が死んで」いない事実を、どう説明するのであろうか。その後、その事実が全く起きなかったことの説明を、筆者は同組織から回答を受けていない。しかし、もっと重要なことは、少なくとも、会員に対し、あるいは公的にも、世界核戦争の予測が外れた記事を是として掲載したことについて、釈明があってしかるべきであろう。それとも、Aさんがいうように「延期された」のであり、3-4回の予測の期日の外れは、たいしたことではないと考えているのであろうか。そうであれば、フィデルがいうのであれば、何事も真実であるとの盲目的な信心があると思われる。

ただ、少しだけAさんや同組織を弁護しておけば、8月7日の演説の中で、フィデルは、メッセージを読み上げた後、国会議員の質問に答えて、このように述べている。
(問):オバマは、(核)攻撃指令を出すことができるか?
(答フィデル):(少し考えて)、いやできない。もしわれわれが(自分が)彼を説得するならば。
ここには、ベテラン政治家の、実に巧妙なロジックがある。つまり(ありもしない)核戦争が起きなければフィデルがオバマを説得したからであり、(万万が一)核戦争が起きたら、フィデルの予言通りだったということになる。いずれにせよ、彼の主張が的中することになるのである。このロジックに陥れば、Aさんの「延期された」意見になるのである。すでに筆者は、8月9日の論評「国際情勢が変わったのか? それとも・・・」で、「もし、核戦争が行われなかったら、フィデルやキューバ国民が今回説得したから、オバマは核のボタンを押さなかったとなるであろうか」と疑問を提示しておいたが、少なくとも一部の人びとは、その通りになったようである。しかし、筆者と交流があるキューバ人たちは、このことをまともには信じていないことを付け加えておこう。

筆者は、つくづく、相手国の名前がつく友好組織の活動は難しいと思う。日本には、日ソ、日中、日朝友好協会などがある。相手側の組織は、いずれも日本のような民間の大衆組織でなく、政府資金で運営されている政府系の対外友好機関である。相手側の政府の国益にそった方針が、まともに出てくる。歴史的には、60年代日ソは、部分核停をめぐってソ連の方針を日ソ友好協会に押し付けてきた。日中では、文化大革命のとき、毛沢東路線を日中友好協会に押し付けてきた。70年代には、キム・イルソンのチュチェ思想の日本での学習運動を押しつけてきた。いずれも、一部の人びとは、盲従して相手国のお先棒を担いだが、主張に正当性がなかったことから、その活動は長くは続かず、自主的な立場をとる人びとの活動により歴史的には破綻した。

こうした経験から、われわれは、友好や連帯とは、相手側を美化したり、理想化したりしてはならず、日本国民のよりよい社会の建設の方向にどのように資するか、世界平和、世界のよりよい社会の建設にどのように資するかという立場に立って、相手の主張を判断しなければならないということを学んだと思う。1992年を境に、「それまでキューバ革命の伝統的な外交政策であった国際主義、反帝国際主義的連帯は、二義的なものとなり、キューバに接近するものはすべて歓迎する政策が最優先となっている」(キューバ政府のシンクタンクである米州研究所のルイス・スワレス所長)。キューバ側のスタンスが変わっていること承知したうえで、友好運動を進めなければならないのである。

筆者も、キューバ国民との友好関係を進めることに賛成である。しかし、それは、対等、平等、互恵、内部問題不干渉という原則にたって、自主的な立場から、友好・連帯運動を進めたいと思う。そして、現在では、特に共通の課題において、お互いに利益がある「互恵」ということを改めて認識する必要があると感じている。そうでないとキューバ側の課題で、キューバの利益のためだけの活動では、相手の宣伝組織、下請け活動組織となってしまいかねないからである。
「10.08.10 フィデルの立論の展開.pdf」をダウンロード


(2010年10月6日 新藤通弘)

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2010年10月 6日 (水)

ベネズエラの国会選挙の結果をどう見るか

ベネズエラの国会選挙の結果をどう見るか。

ベネズエラの国会選挙が、9月26日、全国87の選挙区、1万2,436の投票所で行われた。この選挙結果については、『しんぶん赤旗』9月30日付に、特派員の菅原啓さんの優れた解説記事があるので、参照こう。ここでは、それを補足する形で以下に、筆者の分析を紹介したい。

今回は、165の議席をめぐって、社会主義政策のさらなる推進を訴える、ベネズエラ統一社会主義党(PSUV)を中心とする与党勢力、「革命的同盟」(PSUV及びベネズエラ共産党が参加する選挙統一戦線組織)と、キリスト教社会党、民主行動党、社会主義運動党などの30数組織の反社会主義勢力が結集する「民主主義統一会議(MUD)」との間に熾烈な選挙戦がたたかわれた。まさに、10年間のベネズエラ革命の成果、今後の進路をめぐっての左右の総力戦であった。

政治勢力の左右の両極分化が進んだ中で、選挙では、11,679,235人が投票し、投票率は、66.45%に達した。2008年の地方選と同等の投票率であった。前回の2005年の国会議員選挙は、敗北を予測した野党勢力が、選挙直前になってボイコット戦術に出た結果、投票率はわずか25%にしか達しなかったが、今回は通常通りの国政選挙の投票率であった。ベネズエラの未来をめぐって、ベネズエラ国民の高い政治的関心が引き続き示されたといえよう。

以下、添付のPDFをお読みこう。
「10.09.28 ベネズエラの国会選挙結果をどう見るか.pdf」をダウンロード

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2010年10月 3日 (日)

エクアドルで起きたこと

エクアドルで起きたこと

9月30日午前、エクアドルで、一部の警察官部隊が、首都キトを始め、各地の警察本部を占拠し、前日国会で承認された「公共サービス法」の廃止を要求して蜂起した。各地で蜂起した警察官部隊は、公共施設、都市治安警備などの警察業務を放棄し、キトでは、さらにラファエル・コレア大統領追放を叫びながら国営TV局の制覇をはかり(最終的に失敗)、国会も制圧した。また一部の軍隊が呼応してキト空港を閉鎖した。最大の商業都市グアヤキルでは、警官隊は、重要な市内の橋の交通を制限し、市内でタイヤを燃やすなど騒乱状態を作りだした。その機に乗じて一部の市民は、暴徒化し、商店の略奪などを行った。

首都では、コレア大統領は、すぐさまキト警察第一連隊本部に向かい、反乱警官部隊の説得に乗り出し、武力によらず、話し合いで解決するように呼びかけた。しかし、警官隊は、催涙ガスを大統領にめがけて数発発射し、大統領は足と肩に被弾して、近くの警察病院に連行された。そして同病院で反乱警官隊により拘束され、公共サービス法の廃止を3度にわたり、交渉団により迫られた。

午後になると、ゴンサーレス、エクアドル軍統合司令部長官が、大統領の支持を表明するとともに、各地で警官隊の武力行動に反対した市民が警官と対峙し、警官隊は市民に催涙ガスを発射したり、取材中の新聞記者に暴力をふるうなど、騒然とした状態が各地で起きた。エクアドル政府は、非常事態を宣言した。

同日午後、「愛国協会党」党首ルシオ・グティエレス元大統領は、コレア大統領の政策を社会主義的として批判しており、大統領のリコール署名を集める運動を展開していたが、混乱した事態の責任はコレア大統領にあるとして、危機の解決のために、国会の解散、大統領選挙の前倒し実施を要求した。先住民原理主義を主張して、コレア政権の社会・経済政策に反対して、グティエレスと同盟を組んでいるパチャクティク運動も、コレア大統領の辞任を要求した。

コレア大統領は、「暴力や圧力のもとでは話しあいはできない、公共サービス法は、警察官の賃金を切り下げるものでなく、ボーナスは廃止するがその分は月給に回され、初任給の増額、賃金の平均80%の増額を規定しているもの」と反論し、一貫して交渉を拒否した。また、「この反乱は、クーデターを企図するもので、賃金問題は口実で、実際は、コレア政権の社会政策、米州ボリーバル同盟(ALBA),南米諸国連合(UNASUR)統合政策に反対する勢力が内戦を目的として起こしたものであり、その背後にはグティエレス元大統領がいる」と非難した。午後9時前、軍の特殊部隊600名がコレア大統領の救出に向かい、病院を急襲して、大統領を奪還した。この混乱で9名が死亡、274名が負傷した。

国際社会の反応も素早く、UNASUR加盟の12カ国、ALBAのホンジュラスを除く7カ国、インスルサ米州機構(OAS)事務総長は、こうした警官隊の行動をクーデターだと断定して、一斉に非難した。

米国国務省は、「警官隊の暴力は批判し、コレア大統領を支持する」と発表したが、クリントン国務長官も、クロウリイ報道官も、警官隊の行動をクーデターだとは述べていない。むしろ、バレンスエラ西半球担当国務次官補は、「警官隊の無規律な行動」と述べるに留まり、ラテンアメリカ諸国のひんしゅくを買っている。日本政府も、米国政府同様に「警察関係者による全国規模のストライキが発生し,同国政府が非常事態宣言を発出したことを懸念している」としつつ、「民主的に選ばれた(現)政権を支持する」としているが(添付書類参照)、警官隊の無法行為を批判しておらず、いわば喧嘩両成敗の立場にたっている。これでは、毅然と暴力行為を批判していないとして、国際社会から、民主主義に対する態度を問われることになるであろう。
「10.10.01 クーデター未遂事件.pdf」をダウンロード

日本のマスコミ報道においても、事態の核心を指摘しているのは、『しんぶん赤旗』の菅原啓特派員の見識ある報道ぐらいである(添付書類参照)。

以上の経過を見ると、昨年6月にホンジュラスで、軍部がマヌエル・セラヤ大統領を誘拐し、国外に追放し、セラヤの最低賃金引き上げなどの経済政策、ALBA加盟政策などの自主的な外交政策を覆したクーデターの亜種であるとみなすことができよう。この時も米国は、国務省とCIAの2車線の政策を適当に操作してクーデターの黒幕であるとの批判をかわした。現在のホッジス在エクアドル米国大使は、2008年にブッシュ大統領に任命された人物であり、ルシオ・グティエレスは、CIAとの関係が密接であることは、いろいろなところで指摘されているところである。

今回の問題の核心は、民主的に選ばれた国会で民主的に承認された法律を、承服できないとして武力で廃止を要求したことにある。警官隊といっても自動小銃で武装している武力組織である。その組織の一部が、全国で計画的に一斉に蜂起し、示威行為を行ったことは、どんなに強弁しても弁解できない無法な行為であり、中南米諸国でクーデター未遂事件と判断されているのは当然である。もし、日本の警官隊が、公務員給与削減法が国会で承認され、それに承服できないとして、警視庁本部を占拠し、首相に向けて催涙ガスを直接発射し、警察病院に12時間も拘禁した場合、「全国規模のストライキが発生したことを憂慮している」と政府も、マスコミも発表するであろうか。

(2010年10月3日 新藤通弘)

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