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2010年6月 3日 (木)

ゲバラのヒロシマ訪問

ゲバラのヒロシマ訪問

ある友人から、「原爆資料館を見学したゲバラが『このようなことをされてもなお、君たちはアメリカのいいなりになるのか』と言った、ということがネットなどに書かれているのですが、これは本当のことでしょうか?」という質問があった。

さらには、ネットでは、「ゲバラは、7月24日の夜、大阪のホテルを抜け出して、特急列車で、フェルナンデス副団長、アルスガライ大使と3名で広島行きを強行した」という記事も飛び交っている。

はたして、真実はどうなのであろうか。

ゲバラ一行6名が日本に到着したのは、1959年7月15日。同月27日の出発まで、日本との通商関係と外交関係の強化を目的とした活動を精力的に行っている。外務省が作成したスケジュールにしたがって、東都知事、藤山外相、池田通産省など政府要人と会談する一方、昭和電工、石川島播磨重工、東芝、トヨタ自動車、新三菱重工、クボタ鉄工、丸紅飯田、鐘紡などの企業を訪問、24日は大阪グランドホテルに宿泊した。

使節団は、25日には川崎ドックを訪問する予定であった。しかし、ゲバラは、日本到着当初より広島の訪問を希望しており、外務省が無名戦士の墓への参拝を企画していることを知り、そこには自分は行かない、自分は広島に行きたいとアルスガライ大使に述べていた(Jon Lee Anderson, Che Guevara, Grove Press, New York, 1997, p.341.)。フェルナンデスによれば、日本政府は、あれこれの理由により広島訪問を中々予定に組みこまなかった(Omar Fernández Cañizares, Un Viaje Histórico con el Che, Editorial de Ciencias Sociales, La Habana, 2008, p.90.)

そこで、24日ゲバラは、大阪が広島に近いことを知り、原爆慰霊碑の参拝を外務省に強く要望し、外務省大阪事務所は、広島県庁に連絡、訪問予定を手配したと、作家の三好徹氏は『チェ・ゲバラ伝』(原書房、1998年、205-206ページ)で述べている。三好氏は、さすがに元新聞記者だけに実に綿密に取材を行い、ゲバラの日本訪問の跡を追っており、内容は信憑性が高い。三好氏によれば、25日午後1時、一行3名は、飛行機で岩国に到着し、広島県の外事課の見口健蔵氏が、車を用意して出迎えた。その後宮島を経由して広島に向かい、2時すぎに新広島ホテルに到着、慰霊碑、原爆資料館を訪問、その後原爆病院を訪問した。

25日に夜行列車で広島に向かったというのは、フェルナンデスの記述である。彼は、夜11時に大阪を出て、翌朝5時に広島に到着、新広島ホテルにて一端休息を取ったあと、9時に県の外事課員がホテルに来て、その後、慰霊碑、原爆資料館を訪問後、大原知事と会見、広島城に立ち寄り、原爆病院を訪問したと述べている(Fernandez, op.cit., pp.91-94)。しかし、通訳も付けず、日本に5カ月前に赴任したばかりで日本語もわからないアルスガライ大使の案内で急行列車に乗って広島に行くというのは不自然である。また、外務省の意向を無視して行動したというのであれば、どうして見口氏が翌朝9時に出迎えにホテルに来たのか、車の手配、大原知事との会見、原爆病院の訪問をどのようにして準備したのか理解に苦しむところである。また、フェルナンデスの記述には、昼食を広島のどこで取ったかという記述もない。

そもそも、外国要人の来日は、外務省が詳細に「滞在日程表」を組み、管理し、訪問先、立ち寄り先の要所要所に警官、私服警官が配置される。「入国理由書」に記載された以外の行動も禁じられていることは、キューバ側も良く知っていたはずであり、来日の目的からも、外務省に連絡しないで行動するという、非外交的な態度を取るとは思えない。

両者の記述を比較すると、フェルナンデスの記述には矛盾が多く、彼の記憶違いと判断される。

もうひとつの、「原爆資料館を見学したゲバラが『このようなことをされてもなお、君たちはアメリカのいいなりになるのか』というという問題(太田昌国『チェ・ゲバラ プレイバック』、現代企画室、2009年、41頁)。太田氏は、この出所として、上記リー・アンダーソンの本を指摘しているが、同書には、この記述は見られない。このことに関しては、三好氏の記述によれば、「広島県庁の見口氏に英語で『きみたち日本人は、アメリカのこれほどまでに残虐な目にあわされて、腹がたたないのか』といったという。ゲバラが、原爆投下と関連させ、日本の対米従属を批判したという、一見あり得そうな話であるが、ここには、「アメリカにひどい目にあわされたので、いいなりになってはいけない―自立すべき」とは、論理の飛躍がある。逆の表現では、「ひどい目にあわされなければ、アメリカから自立する必要もない」ということになるからだ。ゲバラがそういう非論理的なことをいうはずはない。

ゲバラは、帰国後、日本訪問について短い記事を書いているが、その中で、日本の政治的対米従属は、戦後の占領軍の存在、経済的、軍事的従属からきており、民族主権が弱体であることが、日本の重大な弱点であると的確に分析している(Ernesto Che Guevara, “Recúperese Japón de la tragedia atómica”, publicado en la revista Verde Olivo el 19 de octubre de 1959)。原爆投下の恨みから、対米自立が必要などという感性的な主張はしていないのである。

また、ゲバラは、日本は、大量破壊兵器である原爆投下の責任を追及すべきであると、同記事で、また、25日にインタビューした林立雄、元中国新聞記者とのインタビューで述べているが、ゲバラは、日本における原水禁運動の興隆をその時はまだ知らなかったようである。なお、キューバは、1961年から原水協主催の原水爆禁止世界大会で、経済困難な時期を除き、昨年までずっと参加している。

さらに、林氏は、インタビューで「ゲバラは、反米、反核などという言葉はひとことも発しなかった」と述べている。使節団の目的は、経済・外交関係の強化であり、「日本は対米従属をやめ、自立すべき」などという内政干渉的なことを公然といって、日本政府を刺激するようなことをいうはずはない(林立雄Youtube「革命とヒロシマ」http://www.youtube.com/watch?v=LDHljCUx7n8及び筆者との会話)。しかし、ゲバラは、帰国後の上記記事で、日本の主権の問題、原爆投下責任論について、極めた抑えた筆致で展開している。
2010年6月3日

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