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2010年6月

2010年6月22日 (火)

最近のキューバの改革は民営化か?

最近のキューバの改革は民営化か?

6月21日付の有力全国紙で、キューバ政府が、「床屋と美容室の民営化を、現状追認の形ではあるが進めている」と報じた。当たらずといえども遠からずの記事である。

はたして、これは「民営化」なのか?どういう意味で民営化なのか?この改革は、経済改革の中でどういう意味をもつのか、もう少し綿密に考える必要がある。

まずは、これらは、理髪店、美容室に限らず、最近、タクシー運転手、バス運転手にもおこなわれている方式である(5月23日付拙稿参照)。

規模は違うが、一般的にいわれる日本などの民営化は、国の所有権を株式の形で完全に民間に売却して、その収入で国の財政赤字を埋める方法である。しかし、中国やベトナムでの民営化は、株式会社化するものの、その株の大半を国が握っているものである。つまり実質的な所有権を国が掌握しているのである。

まず、中国やベトナムでは「改革開放」、「ドイモイ改革」の中で、資本、生産手段の所有と経営の分離が討議され、国有・国営よりも、その方が効率がよい経済方式だと考えられ、土地や、工場施設は国の所有のままにしておいて、一定の借地料や貸与料を課して経営させ、収益は経営者側が自由に処分できるようにした。いわゆる請負制である。しかし、それも経済効率が十分発揮されないことから、株式会社化に移行していった。

現在、キューバで行われているのは、所有と経営の分離であり、一種のこうした請負制である。しかし、前にも指摘したように、キューバ政府は、1992年からの経済改革において、外資の導入を除いては、分配面での改革で、国が所有の枠から踏み出すことはしていない。とはいうものの、歴史的には、株式会社化への一里塚となりうるものである。

6月17日からハバナで行われた第10回カトリック社会週間で、筆者の友人のオマール・エベルレニ・ペレス、ハバナ大学教授は、講演を行い、こう結んでいる。

「ここで行った分析からすれば、経済の構造的改革、とりわけ経済の分権化、農業だけでなく製造業、サービス業における非国有の形態の策定が必要である。このことにより、国は、あらゆる経済活動に参加するという困難な課題に苦しむことがなく、管理の役割に集中することができるようになるであろう。
 住民が必要としている財とサービスの増加のために必要な改革を行うよう、地方の創意をより一層引き出さなければならない。それは、飲食業、日用品の修理、運輸、建設、食料生産などの部門において、非国有の所有形態を検討することが今や必要となっているからである。
50年にわたるキューバの社会主義は、いくつかの例外を除いて、経済の再中央管理化、市場からの遊離は、経済の後退と困難をもたらしたことを示している。そのことは、この道が、将来、必ずたどるべきものであるということではなく、国は、社会主義の目標を変えることなく、一般的な規制についての一般的な管理機能という役割を検討すべきであることを示している。このことを大多数のキューバ国民は期待している。
 最後に、疑いもなく、時がこのことの証言者となるであろう。キューバの経済制度の改革を討議することが、その中で市場の役割、所有形態についての国の規制、企業経営を明確にすることが必要であると思う。いいかえれば、中長期のキューバ経済の戦略(それは依然として見えないが)が提起されるべきであり、また、それが提起されるとしても、その措置は漸進的に進められるべきで(そのことに賛成するが)である。しかし、その漸進性は、問題を避けるためであってはならず、変革の初期に必ず起こりうる歪みを恐れるものであってはならない」
(新藤通弘 2010年6月22日)

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2010年6月12日 (土)

ラテンアメリカ=カリブの歴史と世界史

最近アンデス文明、メソアメリカ文明への関心が高まっています。これらの古代文明はどういうものだったのだろうか。それらは、スペインの征服によってどう変容し、どのような社会が作られたのであろうか。ラテンアメリカの資本主義はどう形成され、どのような特質をもっているのだろうか。その後の新自由主義政策の跋扈の時代を経て、社会変革が進むラテンアメリカを理解するのに、大変貴重な論稿です。

ラテンアメリカ=カリブの歴史と世界史
岡部 廣治【「世界史とは何か」、歴史教育者協議会=編、『新しい歴史教育』①、1993年10月、大月書店】
                           

     一 社会発展の法則
 第一に、ラテンアメリカ=カリブ地域も、けっして世界史の発展法則の例外ではない。しかし、この地域が「世界史」に登場するのは断片的であり、欧米世界の付属物のようにあつかわれ、この地域自体の法則的発展は把握しにくい。この地域の歴史過程を一貫してたどることが必要である。
 
 この地域の歴史は、マヤ、インカ、アステカから始められる。「古代文明」として、メソポタミア、エジプト、インド、中国の諸文明と並べられている。この地域でトウモロコシが栽培されるようになったのは紀元前三千年紀ごろとされるが、三つの「文明」の生起(商人層の形成)は、紀元前七世紀のマヤをのぞけば、紀元後一三~一四世紀であり、他の地域の諸文明よりかなり新しい。
 
 また、インカとアステカを「帝国」と「王国」とに区別して呼ぶことは不合理である。一民族(種族)が他の諸民族(種族)を従属・臣属させる場合に帝国と言うとすれば、両方とも帝国である。インカ族(インカとは「王」の意で、国名はタワンティンスーヨ)は、現在のコロンビア南部からボリビアにおよぶ南北二〇〇〇余にもわたる広大な領土を擁し、多くの他の諸種族を支配していた。アステカ族には、周辺の諸種族が貢納の義務を負い、さまざまな圧力をこうむっていた。隣接していたトラシュカラ族が、コルテスの軍をテノチティトランに案内して征服の手助けをしたのは、そのためであった。それぞれの「国」の内部でも支配=被支配の関係がすでに形成されつつあった。「空中都市」マチュ=ピチュやテオティワカンの太陽と月のピラミッド、メヒコ市の中央広場の脇で発掘された「大寺院」(テンプロ・マヨール)などは、政教未分離とは言え「権力者」の存在を証している。恒常的な余剰生産物を売買する商人層の存在も「奴隷」の存在も知られている。共有地の共同耕作を土台にしていて、ペルーの科学的社会主義者J・C・マリアテギが『ペルーの現実にかんする七論文』で明示したように「共産主義」を社会の基本原則としていたとは言え、階級社会への移行期にあったと考えられよう。

続きは、添付のPDFをご覧ください。「Okabe.pdf」をダウンロード

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2010年6月 5日 (土)

漢那朝子著『ミ・ファミリア』、楽しくてちょっぴり悲しい物語の紹介

ベネズエラについての良い本が出た。漢那朝子著『ミ・ファミリア―悲しいのに笑い、泣きながら踊ったベネズエラの日々―』(諏訪書房、2010年)である。漢那朝子(かんなともこ)さんは、1972年東京で彫刻家志望のベネズエラ人青年フリオと恋におちいり、翌年結婚。ベネズエラに行き、生活を始める。そして、ベネズエラの異文化社会の慣習、考えかたの違い、ベネズエラの二大政党の政権交代劇に翻弄されて、困難な生活を経験しながら、家族との軋轢あり、10年後、「身も心も病んで」離婚して息子とともに日本に帰国。

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この半生を生活のさまざまなエピソードを交えながら、「たくましい」ベネズエラ社会を語り、読者をひきつけて離さない。

さらに、漢那さんは、チャベス大統領の出現の背景に、70年代半ばから80年代にかけての「悪いことばかりで、腐りきった」二大政党制の弊害を、的確に指摘する。

この本の何よりも優れているところは、漢那さんが、10年間住んで、自らの目で見、肌で感じたベネズエラ社会の「内側」から、社会生活、政治を冷静に分析していることである。そのため、語りに深みがあり、読んでも面白いのである。俗にいう『キューバ本』が、10日や30日のキューバ滞在で、「外側」から見たキューバを語り、間違いや当たらずといえども遠からずの記述が多いのとは、この本は違っている。石橋純さんが「解説」で述べているように、ベネズエラの「人びとの姿を活写した本書は、ラテンアメリカの文化・社会・政治に関する出色のエスノグラフィ( 民族誌)にもなっている」。

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2010年6月 3日 (木)

ゲバラのヒロシマ訪問

ゲバラのヒロシマ訪問

ある友人から、「原爆資料館を見学したゲバラが『このようなことをされてもなお、君たちはアメリカのいいなりになるのか』と言った、ということがネットなどに書かれているのですが、これは本当のことでしょうか?」という質問があった。

さらには、ネットでは、「ゲバラは、7月24日の夜、大阪のホテルを抜け出して、特急列車で、フェルナンデス副団長、アルスガライ大使と3名で広島行きを強行した」という記事も飛び交っている。

はたして、真実はどうなのであろうか。

ゲバラ一行6名が日本に到着したのは、1959年7月15日。同月27日の出発まで、日本との通商関係と外交関係の強化を目的とした活動を精力的に行っている。外務省が作成したスケジュールにしたがって、東都知事、藤山外相、池田通産省など政府要人と会談する一方、昭和電工、石川島播磨重工、東芝、トヨタ自動車、新三菱重工、クボタ鉄工、丸紅飯田、鐘紡などの企業を訪問、24日は大阪グランドホテルに宿泊した。

使節団は、25日には川崎ドックを訪問する予定であった。しかし、ゲバラは、日本到着当初より広島の訪問を希望しており、外務省が無名戦士の墓への参拝を企画していることを知り、そこには自分は行かない、自分は広島に行きたいとアルスガライ大使に述べていた(Jon Lee Anderson, Che Guevara, Grove Press, New York, 1997, p.341.)。フェルナンデスによれば、日本政府は、あれこれの理由により広島訪問を中々予定に組みこまなかった(Omar Fernández Cañizares, Un Viaje Histórico con el Che, Editorial de Ciencias Sociales, La Habana, 2008, p.90.)

そこで、24日ゲバラは、大阪が広島に近いことを知り、原爆慰霊碑の参拝を外務省に強く要望し、外務省大阪事務所は、広島県庁に連絡、訪問予定を手配したと、作家の三好徹氏は『チェ・ゲバラ伝』(原書房、1998年、205-206ページ)で述べている。三好氏は、さすがに元新聞記者だけに実に綿密に取材を行い、ゲバラの日本訪問の跡を追っており、内容は信憑性が高い。三好氏によれば、25日午後1時、一行3名は、飛行機で岩国に到着し、広島県の外事課の見口健蔵氏が、車を用意して出迎えた。その後宮島を経由して広島に向かい、2時すぎに新広島ホテルに到着、慰霊碑、原爆資料館を訪問、その後原爆病院を訪問した。

25日に夜行列車で広島に向かったというのは、フェルナンデスの記述である。彼は、夜11時に大阪を出て、翌朝5時に広島に到着、新広島ホテルにて一端休息を取ったあと、9時に県の外事課員がホテルに来て、その後、慰霊碑、原爆資料館を訪問後、大原知事と会見、広島城に立ち寄り、原爆病院を訪問したと述べている(Fernandez, op.cit., pp.91-94)。しかし、通訳も付けず、日本に5カ月前に赴任したばかりで日本語もわからないアルスガライ大使の案内で急行列車に乗って広島に行くというのは不自然である。また、外務省の意向を無視して行動したというのであれば、どうして見口氏が翌朝9時に出迎えにホテルに来たのか、車の手配、大原知事との会見、原爆病院の訪問をどのようにして準備したのか理解に苦しむところである。また、フェルナンデスの記述には、昼食を広島のどこで取ったかという記述もない。

そもそも、外国要人の来日は、外務省が詳細に「滞在日程表」を組み、管理し、訪問先、立ち寄り先の要所要所に警官、私服警官が配置される。「入国理由書」に記載された以外の行動も禁じられていることは、キューバ側も良く知っていたはずであり、来日の目的からも、外務省に連絡しないで行動するという、非外交的な態度を取るとは思えない。

両者の記述を比較すると、フェルナンデスの記述には矛盾が多く、彼の記憶違いと判断される。

もうひとつの、「原爆資料館を見学したゲバラが『このようなことをされてもなお、君たちはアメリカのいいなりになるのか』というという問題(太田昌国『チェ・ゲバラ プレイバック』、現代企画室、2009年、41頁)。太田氏は、この出所として、上記リー・アンダーソンの本を指摘しているが、同書には、この記述は見られない。このことに関しては、三好氏の記述によれば、「広島県庁の見口氏に英語で『きみたち日本人は、アメリカのこれほどまでに残虐な目にあわされて、腹がたたないのか』といったという。ゲバラが、原爆投下と関連させ、日本の対米従属を批判したという、一見あり得そうな話であるが、ここには、「アメリカにひどい目にあわされたので、いいなりになってはいけない―自立すべき」とは、論理の飛躍がある。逆の表現では、「ひどい目にあわされなければ、アメリカから自立する必要もない」ということになるからだ。ゲバラがそういう非論理的なことをいうはずはない。

ゲバラは、帰国後、日本訪問について短い記事を書いているが、その中で、日本の政治的対米従属は、戦後の占領軍の存在、経済的、軍事的従属からきており、民族主権が弱体であることが、日本の重大な弱点であると的確に分析している(Ernesto Che Guevara, “Recúperese Japón de la tragedia atómica”, publicado en la revista Verde Olivo el 19 de octubre de 1959)。原爆投下の恨みから、対米自立が必要などという感性的な主張はしていないのである。

また、ゲバラは、日本は、大量破壊兵器である原爆投下の責任を追及すべきであると、同記事で、また、25日にインタビューした林立雄、元中国新聞記者とのインタビューで述べているが、ゲバラは、日本における原水禁運動の興隆をその時はまだ知らなかったようである。なお、キューバは、1961年から原水協主催の原水爆禁止世界大会で、経済困難な時期を除き、昨年までずっと参加している。

さらに、林氏は、インタビューで「ゲバラは、反米、反核などという言葉はひとことも発しなかった」と述べている。使節団の目的は、経済・外交関係の強化であり、「日本は対米従属をやめ、自立すべき」などという内政干渉的なことを公然といって、日本政府を刺激するようなことをいうはずはない(林立雄Youtube「革命とヒロシマ」http://www.youtube.com/watch?v=LDHljCUx7n8及び筆者との会話)。しかし、ゲバラは、帰国後の上記記事で、日本の主権の問題、原爆投下責任論について、極めた抑えた筆致で展開している。
2010年6月3日

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