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2009年6月25日 (木)

小さな国の大きな決断―ドミニカ大使会見記―

小さな国の大きな決断
―ドミニカ大使会見記―

ドミニカという国がある。サミー・ソーサやアリ・ロドリゲスなどのメジャーリーグ屈指の野球選手を輩出している「ドミニカ共和国」ではない。「ドミニカ連邦」である。イギリス連邦に属する1国であり、「ドミニーカ」と発音する。滝、湖、温泉が多い風光明媚な島で、「カリブ海の自然の島」と称えられている。南カリブ海に位置し、面積は、790平方キロメートルで佐渡島より少し小さい程度。人口は、7万5000人の小国である。Dominica_3

 
 この小国が、昨年1月、世界の注目を浴びた大きな決断を行った。米州ボリーバル的統合構想(ALBA)への加盟を発表したからである。ALBAとは、北の巨人、米国が進める米州自由貿易圏(ALCA=FTAA)に対抗して、2004年チャベス大統領によって提唱された地域統合構想である。域内で、自由、平等、互恵、相互補完、連帯の精神にもとづいた貿易、経済、金融、政治統合をめざすものである。昨年1月までは、キューバ、ベネズエラ、ボリビア、ニカラグアの4カ国が加盟国であったが、これらの国の指導者は社会主義への志向をもった人々であり、その限りでは、ALBAは、特別な国々の集まりであるとみられていた。

 ところが、ドミニカが加盟を宣言したときには、カリブ海の1小国が、ALBAに加盟することは、即、米国との関係が冷却し、敵視政策を受けることになるだけに、世界で大きな関心を呼び起こしたのである。加盟には並々ならぬ決意と揺るがない外交政策がなければならないし、その国内政治も革新的なものがあるはずだ。そう思って、キューバを訪問した際に、ドミニカを訪問したいと思ったが、直行便もなく別なカリブ海の国に一泊しなければならない。そこで、次善の策として、キューバに最近開設したばかりのドミニカ大使館を訪れた。

 トーマス・クラークソン大使は、51歳、1983年留学生としてキューバで勉強して以来、キューバ人女性と結婚し、滞在は26年になる。ドミニカ労働党のルーズベルト・スケリット首相(37歳)とは親友という。

 ドミニカの歴史をたどると、17世紀以来、イギリスとフランスの植民地争奪戦にあい、両国の植民地をくりかえしながらも、黒人を中心とした自治の要求が19世紀以降カリブ海で最も強く湧きおこった国であることがわかる。1960年代からもドミニカ労働党(DLP)を中心に自治獲得運動が幅広く展開され、その結果、1978年イギリスはドミニカの独立を認めざるをえなかった。その後、経済危機、ハリケーンの被害などで、反対派のドミニカ自由党(DFP)が政権の座についたが、90年代、保守政権は、新自由主義政策による民営化を進め、再び経済が悪化した。国民の生活は窮乏化し、2000年DLPが政権に返り咲いた。そして、2005年には、現在のスケリット政権が選挙により選ばれた。

 実は、ドミニカには、歴史的に二つの自慢することがあるとクラークソン大使は胸をはる。一つは、ラテンアメリカ・カリブ海地域の左翼勢力が1990年より一同に会し、意見交換を行っているサンパウロ・フォーラムの参加政党・組織の中で、最初に政権についたのが、DLPである。また、もうひとつは、カリブ海地域では、先住民はほぼ全滅しているが、唯一生存し、保護地域を設けられ、3000人のカリブ族が生活しているのは、ドミニカだけである。つまり、ALBAに加盟する背景として、すぐれた革新的伝統があるのだ。

 2004年、ドミニカは、ベネズエラが地域協力として進めているペトロカリブ協定に加盟した。ベネズエラから、有利な支払い条件と協力価格で石油を購入できるからである。また同年、台湾との外交関係を断絶し、翌2005年中国と国交を樹立した。

 2004年スケリット首相がキューバを訪問した際、ペレス外相と会談し、フィデル・カストロを通じ、チャベス大統領を紹介してもらったという。チャベスは、早速3500万ドルの援助を約束した。さらにベネズエラは、翌年5月にはスケリット新政権に対し、飛行場拡張、精油所の建設、石油貯蔵タンクの建設など1億ドルの援助を決定した。また、2000年以降、キューバは、医療・教育・各種の技術協力を行っている。Pm_skerrit


 2007年12月、ペトロカリブ会議がキューバのシエンフエゴスで開催され、スケリット首相も出席した。その頃、チャベス大統領も、ALBAに、キューバ、ベネズエラ、ニカラグア、ボリビアの他に、どこかもう一カ国加盟することを希望していた。そうすればALBAの性格が変わるからであった。キューバの友人たちは、なぜドミニカがALBAに加盟しないのかといっていた。一方、ALBAは当初、その内容、理念は不明確であった。しかし、実際の議論と必要性の中で、協力、連帯、互恵、相互補完の理念が形成されていった。われわれは、米国との従属的な自由貿易協定よりも、この理念に基づく関係を選択した。

ドミニカは、当時米国との貿易は約25%を占めていた。米国は、70年代バナナ産業に経済援助を行っていたが、90年代に入り、ソ連圏が崩壊した後、援助額は減少した。また米国の援助には常に条件が付けられていた。縫製業など発展したが、米国の関税は高かった。それに比べて、ALBAの理念は対等平等、相互補完的な関係であった。

 スケリット首相のキューバ訪問の際、大使は、首相にALBA加盟について提案した。スケリット首相は、じっと考えこんだ。何か怖いのかと聞くと、いや別にということであった。大使は、今、この時期に加盟する方が、国際的なインパクトもあり、ALBA加盟諸国にも良い印象を与えると主張した。首相は、大使に答えを述べずに帰国した。2008年1月10日、スケリット首相はALBA加盟を発表した。重大な決断であった。
 
 スケリット首相からは、大使に外国新聞社とのインタビューを受けないようにとの指示があった。米国の新聞社、通信社から国際電話でいろいろ聞いてきた。また、米国やCARICOM諸国の中にも参加に抗議し、圧力をかけてくる国もあったという。

 同年8月にはホンジュラスが、加盟して世界を驚かせた。本年2月、ALBA加盟後の1年を振り返り、スケリット首相は、ドミニカの加盟は、だれに許可を願ったものでもなく、加盟後の1年の成果を国民はよく知っているはずであると強調した。

 本年5月には、やはりカリブ海の小国セントビンセント及びグラナディーン諸島(人口12万人)、エクアドル(人口1300万人)、6月にはアンティグア・バーブーダ(人口8.5万人)が、相次いでALBAへの加入を表明した。パラグアイやエルサルバドルなども加盟に興味を示している。ALBAは、現在9カ国の参加に過ぎないが、対等、平等、連帯、互恵、相互補完に基づく統合、地域共通通貨スクレの創設という理念は、壮大なものである。

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