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2009年2月

2009年2月12日 (木)

アレホ・カルペンティエル (1904-1980)

アレホ・カルペンティエル (1904-1980)

 小説『光の世紀』、『この世の王国』などで知られる、キューバの代表的な作家、アレホ・カルペンティエルを紹介しよう。

 今世紀に入り、キューバは、90年代に苦しんだ国内の経済危機も回復する中、出版活動も回復のきざしを見せ始め、カルペンティエルの作品が、再び注目を集めている。2004年には、生誕100周年の記念シンポ、会議、再出版、テレビでの特集など行われ、カルペンティエルは、20世紀キューバ文学の独創的かつ普遍的で、「驚異的現実」(アメリカ大陸には驚異的なものと現実的なものが混在し、共存しているという理念)の創造者として評価された。同年11月には、キューバの芸術機関である「カサ・デ・アメリカス」により国際会議「アレホ・カルペンティエルの世紀」が開催された。
 
 カルペンティエルは、1904年12月26日ハバナでフランス人の建築家の父とキューバ人の母の間に生まれた。1912年勉学のためフランスに渡り、9年後キューバに帰国、ハバナ大学で建築学を学んだ。しかし、その後ジャーナリズムに身を投じ、時事問題、文化問題に健筆を振るった。1943年から59年までキューバでの弾圧を避けてベネズエラに亡命。代表的な作品で日本語に翻訳されているものは下記の通りである。

 1978年にはスペイン語圏最高の文学賞であるセルバンテス文学賞を受賞し、1980年4月24日パリで死去した。彼は、「魔術的リアリズム」を駆使し、アルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘス、メキシコのフアン・ルルホと並んで20世紀のラテンアメリカ文学の刷新に貢献したもっとも著名な作家と見なされている。
 
 カルペンティエルは、音楽への造詣が深く、『キューバにおける音楽』(1979年)という傑作があるが、残念ながら本邦未訳である。なお、カルペンティエルは、パリに滞在中に画家の藤田嗣治と親交を結び、1931年藤田夫妻をキューバに招いている。その際、藤田はキューバで盗難に会い、旅行が不可能となった。カルペンティエルは藤田に画家だから絵を描けば、チャリティー行って販売できると勧めた。藤田は、数十枚の絵を描き、旅費を稼いだといわれている。これを機会に、彼の作品が一層読まれることを期待したい。

下記に、彼の主要作品で日本語に訳されているものを紹介する。

◆アレホ・カルペンティエルほか『現代キューバ短編小説集 大使閣下』神代修訳(時事通信社、1971年)
◆アレホ・カルペンティエル『バロック協奏曲』鼓直訳(サンリオSF文庫、1979年)。1974年作品。銀行で巨富を得た鉱山主が従者と様々な品々を伴ってマドリッド詣でに出立しようとしている――この素朴にさえみえる物語は、放尿で鳴る便器、ヴィヴァルディのオペラ『モンテスマ』の上演場面で劇場を圧する楽器の音、泥の中を転げまわる豚、フランスの海賊の手から救われた司教を迎える町中に轟く音曲、浣腸かあそこを洗うのにぴったりの安酒が喉を通る音・・・
◆アレホ・カルペンティエル『ハープと影』牛島信明訳(新潮社、1984年)。1979年作品。アメリカ大陸に到着したコロンブスを痛烈に批判した歴史小説。
◆アレホ・カルペンティエル『この世の王国』木村栄一訳(サンリオ文庫、1985年)。1948年作品、現代小説の古典とも言われている。ラテンアメリカ最初の独立革命であるハイチ革命を中心的テーマとして取り上げ、革命の全容を寓意的に描く。
◆アレホ・カルペンティエル『光の世紀』杉浦勉訳(書肆風の薔薇、1990年)。1962年作品。当時のアメリカ大陸の現実を語るに相応しい新しい文学スタイルと激賞された。もうひとつの≪革命史≫、≪革命の歓喜と幻滅≫、生命の楽園=カリブ海域にもたらされた≪革命≫の<光>と<影>を身をもって生き抜いた青年男女の運命を濃密に描く、驚嘆すべき大長編小説。
◆アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』牛島信明訳(集英社文庫、1994年)。1953年作品。時はあらゆるものを幻に変える!近代から未開へと時間が逆行する不思議な旅を、一人の音楽家がたどる。アメリカの大都会に住む音楽家である私は、ある大学から未開種族の楽器の入手を依頼される。気乗りのせるまま、愛人を伴ってオリノコ河上流へと出発する・・・
◆アレホ・カルペンティエル『春の祭典』柳原孝敦訳(国書刊行会、2001年)。1978年作品。歴史とロマンの交響曲、ラテンアメリカ文学の巨編。ロシア革命・・・スペイン内戦・・・キューバ革命・・・空前のスケールで<戦争の世紀>を活写した壮大な歴史絵巻。
◆アレホ・カルペンティエル『エクエ・ヤンバ・オー』平田渡訳(関西大学東西学術研究所、2002年)。1933年作品、処女作。(岡知和)

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2009年2月 9日 (月)

クーバの黒人のソン

研究室に訪問のみなさん、今日は、満月の日です。残念ながら、関東地方は曇りで、輝かしい満月を見れませんが、満月の日なれば、クーバのサンティアゴにお誘いしましょう。

フェデリコ・ガルシア・ロルカFederico García Lorca (1898 - 1936)
クーバの黒人のソン

月が満ちれば、
私はクーバのサンティアゴに行こう
サンティアゴに行こう
黒い水の車に乗って
サンティアゴに行こう
椰子の葉の屋根が歌うだろう
サンティアゴに行こう
椰子の木がコウノトリの姿にみえるとき
サンティアゴに行こう
また、バナナがくらげの姿にみえるとき
サンティアゴに行こう
フォンセカの金髪をいだいて
サンティアゴに行こう
また、ロミオとジュリエットのバラをもって
サンティアゴに行こう
紙幣と硬貨の海
サンティアゴに行こう
ああ、クーバ、ああ、マラカスの乾いた種子のリズム!
サンティアゴに行こう
ああ、熱い腰とラムのしずく!
サンティアゴに行こう
生き生きとした椰子の幹のハープ、ワニ、タバコの花!
サンティアゴに行こう
いつも、私は、黒い水の車に乗って
サンティアゴに行くといったものだ
サンティアゴに行こう
車輪にはそよ風と酒
サンティアゴに行こう
暗闇の中の私の珊瑚
サンティアゴに行こう
砂にしみ込む海
サンティアゴに行こう
白熱の暑さ 死せる果物
サンティアゴに行こう
サトウキビの葉の涼しそうな牛
ああ、クーバ、ああ、ため息と土の曲線よ
サンティアゴに行こう
(訳 新藤通弘)

ガルシア・ロルカは、1898年スペインのアンダルシアで生まれた。1930年、キューバを訪れ、2ヶ月滞在した。その間、いくつかの詩を書いているが、この詩はもっとも有名なものである。ロルカは、左翼的詩人としてスペイン内戦では共和派を支持、1936年ファシスト政権により逮捕、銃殺された。38歳の若さであった。

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2009年2月 7日 (土)

誠実な外交とは

誠実な外交とは

昨日のフィデルの13項目の質問に、オバマ大統領本人ではないが、ラム・エマヌネル首席補佐官が記者会見で回答した。

同補佐官は、記者団の質問に、「オバマ大統領が関心があるのは、キューバ系米国人である。キューバ系アメリカ人のキューバ訪問と送金を承認する」と述べるに留まった。全体として、誠実さに欠ける回答であった。

フィデルは、5日、省察「即座の回答」で、「回答がないよりも良いが、1200万人のキューバ人には関心がないのか。キューバ人地位調整法、経済封鎖などの重要な質問には深入りせず、回答していない」と批判し、「これでは、早くもオバマ政治の純粋性が失われつつある」と警告した。

この問題をはぐらかす態度は、補佐官の性格かも知れないが、チェンジを掲げるオバマ大統領のイメージには程遠いものである。

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2009年2月 5日 (木)

フィデルのオバマへの質問状「オバマの政策と倫理の間の矛盾」

フィデルの質問状、「オバマの政策と倫理の間の矛盾」

2月4日、フィデルは、省察「オバマの政策と倫理の間の矛盾」で、次の13項目にわたり、原則的な問題をオバマ大統領に送り、これらをどう思うか、回答を求めた。前にも述べたが、ここにはキューバの対米政策の根本的な姿勢が見られるので、紹介しておきたい。

① ほとんど例外なく米大統領が指示してきた外国人政敵の暗殺
② アイゼンハワー以来、キューバに行われてきた暗殺計画、キューバ侵攻、テロ・キャンペーン、国内反体制への武器の供給
③ キューバに対して数十年行われてきた人と家畜に対する細菌作戦
④ キューバ人だけに居住特権を与えるキューバ人地位調整法
⑤ 対キューバ経済封鎖
⑥ 資源国での加工を行わない米多国籍企業の特権的行動
⑦ 米国の石油の自給化による供給国の外貨収入をどうするか
⑧ 自動車産業による環境破壊
⑨ 盲目的市場を合理的に管理できるか
⑩ 原子力発電による自然環境破壊と人体への影響
⑪ 大気・海洋汚染
⑫ これらの矛盾を倫理を転換することなく解決可能か
⑬ バイ・アメリカン運動、これはWTOの原則と矛盾しないか

これは、ちょうど、1998年、キューバとローマ・カトリック教会が関係を修復して、教皇ヨハネ・パウロ2世がキューバを初訪問した際、ハバナ空港での歴史的な歓迎式典において、カストロ議長(当時)が、世界の窮状を次のように教皇に訴えたことを想起させる。

「・・・猊下の世界各地への長い巡礼によって、猊下のご自分の目で、多くの不正義、不平等、貧困、耕作されない荒地、食べ物も土地もない農民、失業、飢餓、疫病、わずかのお金の不足で救うことができない生命、非識字者、少女売春、6歳から始めている少年労働、あるいは生きるために物乞いをしている少年、非人間的な条件のもとで生活している数億人にのぼる貧困生活者、人種・性差別、土地を奪われた不幸な少数民族、外国人排外主義、他民族蔑視、破壊された、あるいは破壊されつつある文化、低開発、高金利の借款、回収不能かつ支払不能の対外債務、不等価交換、巨大かつ非生産的な金融投機、無慈悲にあるいはおそらくは他に方法もなく破壊された環境、あきれるほどの商業主義、戦争、暴力、虐殺の目的で行われる傍若無人の武器貿易、広範にみられる腐敗、麻薬、あらゆる国民に理想的なモデルとして押し付けられる消費主義をご覧になることができたと思います。
・・・この世紀だけでも人類の人口は、ほぼ四倍も増加しました。何十億という人類が、正義に対して飢えと渇きを覚えています。人類の経済的、社会的災厄の一覧表は、無限です。そのうちの多くが、猊下にとって恒常的かつ日々深まっている関心事であると理解しています。猊下は、これらの問題をどう考えられますか」(Granma, Enero 22, 1998.)。

これは、16世紀にスペインの植民地主義がアメリカ大陸で先住民に対して行った蛮行をローマ教皇に厳しく糾弾したラス・カサス司教を彷彿させる姿であった。

関係の修復の際、相手のことを思い図り、原則問題に触れないという態度はとらず、原則は厳しく守りつつ、対等、平等の立場で、関係修復を行うというキューバの姿勢がここにもうかがわれるであろう。米玖関係で、キューバも何らかの譲歩をと考えると、米玖関係の進展を読めなくなるであろう。

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2009年2月 4日 (水)

キューバ人の国民性

キューバ人の国民性

キューバ人(正式にはクバーノ)の国民性は、一般的に言えば、ラテンアメリカ国民一般の国民性に似通ったところが多い。いうまでもなく、4世紀にわたるスペインの植民地であったことから、またスペインからの移民が圧倒的に多かったことから、スペインの文化、習慣がキューバに根付いたのはいうまでもない。

しかし、16世紀初頭よりアフリカから黒人が奴隷としてキューバ(クーバ)に強制的に連行されて、キューバには黒人の文化・習慣も移入された(1880年まで合計約100万人)。いわゆるアフロ・クバーナ文化が形成された。1880年奴隷制度が廃止されたときの黒人の人口は、全人口の3分の1程度であった(16万人余)。原住民のインディオは、1492年クリストバル・コロン(コロンブス)がキューバに到達したとき、20万人以上いたと推測されるが、スペイン人の強制労働やスペイン人がもたらした疫病などで16世紀末にはほぼ全滅した。したがってキューバは、アメリカ大陸のメキシコ、グアテマラ、ペルー、ボリビアなどのようにはインディヘナ(インディオ原住民)の影響を強く受けていない。わずかに、生活用品の名前、料理とか地名にうかがわれるだけである。

こうしたキューバ人の国民性については、古くから外国人の旅行者によって次のように語られている。18世紀半ばにキューバを旅行したアメリカ人のワードマンは、キューバ人特有のもてなしの良さに強い印象を受けている。
「キューバ人は、アイルランドの農民と同じように、追従を好み、人を騙したあとで笑い、できないことを平気で約束し、際限のないもてなしを行う。しかし倹約家である。一般に倫理は弱く、賭博が好きで、迷信と結びついた不貞が多くある」。

一般にキューバ人の性格としては、「創造性があり、いかなる環境にも適応する仕事への適応力がある」、「仲間の助け合い意識の強い国民」、「陽気で、冗談好きで、反抗的であるうえに、頭の回転が速い国民」(フィデル・カストロ)、「情熱的で、創造性に富み、物事に別な側面を見る能力があると同時に、否定的な面として、品がなく、マチスモであり、直情的で、攻撃的である」(Juventud Rebelde, 9 de Marzo de 1997)などがあげられている。

19世紀末のキューバ独立戦争で活躍したドミニカ生まれのマキシモ・ゴメス将軍は、キューバ人の性質には、「届かないか、行きすぎてしまう」ところがあると述べている。筆者は、これに、キューバ人は、どんな逆境にあっても、ユーモアを失わず、冗談(チステ)を言って困難に打ちひしがれないという長所をあげたい。

キューバ人の愛に対する考え方には興味深いものがある。それについて、キューバ独立運動の父と言われているホセ・マルティは、1882年、妹のアメリア宛ての手紙で次のように述べている。キューバでは良く知られている手紙だ。

 「わが国には、決して壊れることのない結婚をもたらす、決定的で変えがたい慈愛と情愛の感情を混同する破滅的な習慣がある。わが国では、愛情関係が、そこで終わることになるところで始まる。しっかりした気持ちと知性をもった女性は、愛ではないが、愛と似ている情交の生き生きとした喜びと、-その感情は、男性を表面的に立派であるとみる感情であるが-、他の者に対する言いがたい精神の傾注であるような決定的で偉大な別な愛を区別しなければならない」。

さて、アメリアはこの手紙をどう受け取ったであろうか。筆者は寡聞にして知らない。

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2009年2月 2日 (月)

「非アメリカ」とはどういう意味?

「非アメリカ」とはどういう意味?

『悪魔の辞典』(西川正身編訳、岩波文庫)という傑作な本がある(原本は1906年刊)。著者は、アメリカ人のビアス(1848-1913)である。彼は、変わった人物で、晩年メキシコ革命に共感。メキシコに行き、パンチョ・ビージャ派と行動を共にし、消息不明となった。その物語をメキシコの著名な作家、カルロス・フエンテスは、「おいぼれグリンゴ(Gringo Viejo)」(安藤哲行訳、集英社、邦訳名は『私の愛したグリンゴ』)と題して小説にしている。映画にもなり、グレゴリー・ペックが主役を演じた。

その『悪魔の辞典』に、「非アメリカの(un-American adj.)」という項目がある。そこにはこう説明してある。
 「=邪悪な、許しがたい、異端の」

それから100年経った2006年、チョムスキー教授は、「アメリカの真の敵は、独立を求めるナショナリズムであることは、少し調べればすぐわかることである」と述べた。米国によるアジェンデ人民連合政権転覆活動も、キューバのカストロ政権転覆活動も、経済封鎖も、ソ連の脅威からではなく、アメリカの政策に対する反抗がその原因であると的確に指摘している。

米国のラテンアメリカ史研究の泰斗、ラーズ・シュホルツ教授によれば、「米国は、ずっとラテンアメリカ諸国の人々が劣った存在であるとみなしてきたことが、最大の間違いである」と述べている。

オバマ新政権との対話に、キューバは経済封鎖の解除とか、5人のキューバ人政治囚の釈放など、前提条件を付けていない。対等、平等、相互尊重、互恵というだれしも否定できない原則を主張しているだけである。一方、オバマ政権は、キューバ国内の民主化という条件を付けている。それは、上記の賢人の指摘したことが、今でも米国では変わっていないことを示しているであろう。

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2009年2月 1日 (日)

「非常時」とは何か

「非常時」とは何か。

 キューバの指導者の演説を読むと、「非常時」という表現が良く出てくる。一体、非常時とはどういう意味であろうか。

 スペイン語では、”Período Especial en Tiempo de Paz”、英語では”Special Period in Peace Time”である。「平和時の非常時」の意味である。これを「特別な期間」とか「特別な時期」と訳している人もいるが、なぜ特別な時期かを理解していないようである

「平和時の非常時」は、90年8月29日、宣言された。その概念については、フィデル・カストロ議長(当時)は、すでに同年1月28日の第16回キューバ労働者センター(CTC)大会閉会演説で次のように述べていた。

「われわれは、十年前から防衛力を強化してき、全人民の戦争という概念を適用してきた。わが国の全面的軍事封鎖を始めとするあらゆる可能性に対する計画を作成した。・・・彼らは全面的封鎖を課すことができるが、われわれは全面的封鎖に耐えるための計画を作成した。・・・われわれは、この全面的封鎖の時期を『戦時の非常時』と呼んでいるが、現在、『平和時の非常時』のための計画を作成しなければならない。
 『平和時の非常時』とはどういう意味であろうか。東欧諸国との関係において、またソ連における状況において、経済的問題は極めて深刻であるので、わが国に対するこれらの国々からの供給が極めて厳しいものとならざるをえない。全ての石油はソ連から来ており、これが三分の一に、あるいは半分に、あるいはゼロとなった場合、これは戦時の非常時に等しい。もちろん『平和時の非常時』は、ある程度の輸出入の可能性があるので、最悪というものではない。『平和時の非常時』の最悪の事態を予測して、その対策を立っておかねばならない」。

 つまり、「平和時の非常時」とは、アメリカの軍事侵略・封鎖によって作り出される「戦時の非常時」とは違って、通常の時期、平和時において、キューバは、異常な経済困難により非常時体制をとっているという意味である。

 80年代末、ソ連・東欧諸国の経済困難は、輸入依存度が高いキューバ経済に直接重大な影響を及ぼすこととなった。キューバは、貿易の70%をソ連と、15%を東欧諸国と行っていたからであった。90年8月、ソ連からの原油が同年には従来の1300万トンから300万トンも減少することが確実となり、『平和時の非常時』の第一段階が宣言されたのである。現在でも(2009年2月)『平和時の非常時』は続いている。

 フィデルが、この『非常時』をひき起こすことになるソ連の崩壊を、極めて早い時期に予見していたのは、驚くべきことである。1989年7月26日、カマグエイにおいて、彼は、次のように述べている。

 「もしも、明日、あるいはある日、ソ連で大きな内戦が勃発したというニュースで目を覚ますことがあっても、あるいは、ソ連が解体したというニュース、それは決して起こらないようにわれわれは望んでいるが、そういうニュースで目を覚ますことがあっても、そういう状況にあってもなお、キューバ及びキューバ革命は闘い続け、抵抗し続けるであろう」。

 では、なぜ、80年代初め、「戦時の非常時」が、「ゼロ作戦」として考えられたのであろうか。93年ラウルが、その経緯を率直に語っている。

「80年代の当初、ソ連を訪問し、ソ連最高会議議長・ソ連共産党書記長ブレジネフ、国防相、ソ連共産党中央委員会国際部書記の出席のもとに公式の会談をもった。理由は、レーガン政権が成立するや、キューバ侵略政策を露骨に示したので、キューバを軍事的に攻撃しようとするレーガン政権にブレーキをかけるべく政治的・外交的行動を取るようソ連政府の指導部に要請する必要があったからである。
 キューバ側は、ソ連がアメリカのキューバ侵略を容認しない、また、ミサイル危機当時の約束を守るようアメリカの書簡を送付するよう、ソ連に要請した。
 しかし、ブレジネフの回答は、硬直したものだった。つまり「アメリカが、キューバを侵略した場合、われわれは、キューバで戦うことができない。なぜなら、われわれから1万1000キロも離れているし、そこでわれわれがひどい目にあえというのか」というものだった。
 われわれは、ずっと以前から、ソ連がキューバのために戦争に参加することはないとは考えていたが、またわれわれ自身の力で防衛しなければならないことは知ってはいたが、アメリカのキューバ侵攻があった場合に、キューバ一国となると、明確に、公式にソ連の指導者が述べたのは、まさに最大の危険が迫っている時であった。
 アメリカがこのことを知ったならば、しかるべき反撃を受けることがなく侵略を行うことができると考えたことであろう。
 したがって、われわれは、このことを厳密に秘密にする必要があったし、敵を刺激せず、もし帝国主義者が戦争をしかけるなら、全人民の戦争を行うために準備をしなければならなかった。
 内部的には、フィデルと私、及びこのことを仕事上知った同士達は、このことを「パンドラの箱」というコード名で呼んだ。われわれは、沈黙を守りながら、苦い事実をがまんし、最大限に努力をしてわれわれの歴史的使命を達成すべく準備を行った」。

「非常時」という概念の中には、東西対決の中で大国の思惑と利害に翻弄されながらも、主権を守り続けたキューバの苦悩があるのである。

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