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2009年1月 2日 (金)

キューバ革命50年をたどる革命物語

事実上のアメリカ植民地
1959年1月1日未明、ハバナからドミニカ共和国に向けて飛行機が飛び立った。中には独裁者バチスタとその家族・側近の者が乗っていた。52年から、2万人の国民を殺害し、ラテンアメリカで最悪といわれた独裁者の国外逃亡であった。1月8日、フィデル・カストロは、反乱軍を率いてハバナに入城した革命運動の直接の発端となった53年7月26日のサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営襲撃から6年が経過していた。

バチスタなど圧制者を倒し、国の真の独立をかちとろうとする国民の熱い願いは、キューバが独立をめざして立ちあがったときから、マキシモ・ゴメス、アントニオ・マセオ、ホセ・マルティなど多くの愛国者が国の真の独立のためにたたかってきた。スペインから形だけの独立を実現したものの、キューバはすぐさまアメリカの半植民地の状態におかれたからである。「北方の巨人」アメリカは、キューバの憲法に「プラット修正条項」を押し付け「アメリカ国民の財産と安全を守るため」と称して、アメリカは、いつでもキューバに干渉する権利を手にいれた。アメリカは、キューバで政変があるたびに干渉をくり返した。また、経済面ではアメリカの大資本がほぼ全面的にキューバ経済を支配した。一握りのキューバ人の金持ちとアメリカの大資本に支配されたキューバは、ラテンアメリカでもっともアメリカの支配が強かった国の一つであった。アメリカは、キューバの最良の耕地の4分の1を所有していたし、電話と電力の90%を所有し、砂糖生産の約50%近くを占めていた。

1933年の独裁者マチャドに反対するたたかいにおいてハバナ駐在のウェルズ、アメリカ大使は、政変に介入し、「大統領メーカー」と称されたほどである。産業は、砂糖生産にかたより、砂糖産業は、国民所得の3分の1近くを生産し、輸出の5分の4を占めていた。国民の半数以上が、農業で働いていたが、わずか114の農場が全農地の4分の1を所有するという極端な大土地所有制が見られた。農民の3分の2は、土地を持たない農業賃金労働者であり、彼らは、1年の内、砂糖の収穫期に当たるわずか3―4か月しか仕事にありつけなかった。それでも仕事を持っている者はよい方で、失業者は、常に人口の4分の1にたっしていた。国民の43%が文盲で、義務教育の8年を終了する者は、国民のわずか7%というあり様であった。また農村には、医療はほとんど普及していなかった。アメリカ人がキューバの政治・経済を支配し、わが者顔でキューバを歩きまわった。ごく少数のキューバ人がアメリカに従属し、国民を弾圧し自らの利益を守った。政治は、腐敗し、国民の利益、キューバの利益を考える政治家は少なかった。コロンブスがキューバを発見した時、「人間の目が見た最も美しい島」と言われていたが、アメリカと一部のキューバ人が支配する最も貧しい国となっていた。

モンカダ兵営の襲撃と革命戦争
1952年、フルヘンシオ・バチスタは、大統領選挙が不利と見るやクーデターを起こし大統領に就任した。国民のがまんもここにきて限界に達した。翌53年7月26日(7・26)早朝、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営などをフィデル・カストロはじめとする153人の青年たちが襲撃した。襲撃は失敗し、カストロは逮捕され投獄されたが、この計画は、全国的に、独裁者にたいし"立ち上がるべき時が来た"ことを知らせるものであった。

 カストロは、この裁判での自己弁論の最後で「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と述べて、自らの行動の正当性を主張した。55年、特別恩赦で釈放されるや、カストロは、より国民と密接に結びついた形で革命運動をすすめるため、統一戦線組織である「7・26運動」を結成した。
 カストロをはじめ青年たちは、メキシコに亡命し革命の準備をすすめる一方、キューバ国内の反バチスタ独裁感情も急遠に高まっていった。メキシコでは、真の社会変革を求めてラテンアメリカを放浪していたエルネスト・チェ・ゲバラも参加した。56年11月25日、82人の青年たちを乗せたヨット「グランマ」号は、キューバをめざしてメキシコのトゥスパン港を出発した。しかし、「グランマ」号は、予定より遅れて、しかも上陸予定地点サンティアゴとは異なるラ・コロラダス海岸に12月2日到着した。バチスタ軍の迎撃により結局は、40名が生存し、12月末までに21名がシエラ・マエストラ山中で再結集した。しかし、バチスタ独裁政権がまったく腐敗しており、その弾圧政治によりまったく国民の支持を得ておらず、逆に国民の大多数が「7・26運動」を支持しているのを確信して、フィデル・カストロは、「この上陸作戦が勝利した」と宣言した。

 カストロの生存を知ってシエラ・マエストラの多くの農民が支持を寄せてきた。58年になると、解放区もつくられ、人民社会党(当時の共産党)もゲリラ戦に参加するようになり、反乱軍の力も大きく増大した。同年11月には、オリエンテ州で全面的な攻撃が開始され、反乱軍は、ハバナに向って進撃を始めた。また、アメリカ政府も内外で不人気なバチスタを見限ることを決めた。こうした孤立した状況を見て、1959年1月1日早朝バチスタは国外に逃亡したのであった。

アメリカの干渉と社会主義をめざした国づくり
 勝利した「7・26運動」は、ただちに国民への公約である社会改革に着手した。59年3月、家賃の50%値下げがおこなわれ、5月には第1次農業改革法が制定された。ソ連など社会主義国との貿易の拡大、国交の樹立などがすすめられた。しかし、ラテンアメリカを「裏庭」、自らの勢力圏と考えるアメリカは、こうしたキューバの自主的な動きを認めることができず、武器の供給禁止、キューバ糖の輸入割り当て停止でキューバ革命政府に圧力をかけた。60年2月、ソ連のミコヤン副首相がキューバを訪間し貿易援助協定が結ばれた。この時、アメリカのアイゼンハワー犬統領は、CIA(米中央情報局)に亡命キューバ人によるキューバ侵攻作戦の準備に着手するよう指示した。アメリカの気に入らない政府は、力によって倒そうというアメリカの伝統的な政策であった。アメリカは、1954年グアテマラの民族的なハコボ・アルベンス政権をその手で倒したことがあった。キューバの場合も同じやりかたで自主的な道をすすもうとする革命政府を倒そうと狙ったものであった。しかし、人民の強い支持を受けて独裁政権を倒した革命政権は、ふるい軍隊を解体するとともに、反乱軍を国防軍に発展させており、組織された民兵軍とともに、こうした圧力に屈せず、あくまで主権を守り抜いていった。
 
 60年6月、革命政府は、ソ違から輸入した原油の精製を拒否したアメリカの石油全社を接収した。これにたいし、アメリカ政府は、60年度のキューバ糖輸入割り当てを停止すると発表した。また8月には、コスタリカのサン・ホセで開かれた米州諸国外相全議でキューバヘのソ違・中国の介入を非難する宣言を発表し、キューバを国際的に孤立させようとした。キューバ政府は、これにたいし、8月と10月に外国系企業をふくむ大企業や銀行を国有化した。アメリカは、ただちにキューバヘの輸出を禁止するとともに、翌61年1月には国交を断絶してしまった。
 
 同年4月15日ハバナなどが空襲を受け、それを非難する演説でカストロ首相は、キューバで行われている革命が社会主義革命であると宣言した。4月17日、約1500人からなるCIAの傭兵部隊が、キューバ中央南部にあるプラヤ・ヒロンに上陸作戦をおこない侵攻してきた。しかし、民族の主権を守るためキューバ人民は、正規軍・民兵が一体となってこの侵略を撃退した。アメリカは、62年2月から、キューバに対する貿易を禁止する経済封鎖政策を開始した。同年10月、ソ連との軍事協力条約にもとづいてキューバに配備された中距離ミサイルをめぐって、カリブ海(ミサイル)危機が発生した。予測されるアメリカの侵攻に備えて、キューバ国民は、断固とした決意で祖国防衛の意思を示した。危機は、アメリカがキューバ不侵攻を約束し、ミサイルは撤去され、解除された。

 祖国の主権を守ったキューバ革命は、同時に文盲一掃運動、農業改革などの社会改革をすすめた。68年には、「革命的攻勢」によって鉱・工業・商業をすべて国有化した。その結果、キューバでは、農地の70%、金融・商業の100%、鉱・工業の100%、運輸の95%、漁業の95%が、国有化された。70年代と80年代前半、キューバは、こうした経済構造を基礎に、堅調な経済発展を遂げた。しかし、高度の国有化率は、アメリカの対キューバ干渉政策に対抗するための総動員体制のためにとられたもので、現実のキューバの生産力の水準から行われたものではなかった。またこうした市場を軽視した過度の中央指令型経済は、経済の効率を欠く点もあり、キューバ経済は、80年代後半には停滞してしまった。

ソ連・東欧諸国の崩壊と非常時の困難
 そうしたときに、89年の東欧諸国の旧経済体制の崩壊、91年のソ連の解体がキューバ経済に大きな否定的影響を与えることとなった。キューバは、ソ連・東欧圏に貿易の85%を依存していた。これらの国々との貿易は激減し、キューバ政府は、90年8月「平和時の非常時」を宣言した。94年までに国民総生産は、40%近く減少した。キューバ政府は、経済の対外開放をすすめ、観光と外国投資の誘致を推進するとともに、93年からは国内の経済改革を進めた。国営農場を解体して、協同組合生産基礎組織に再編し、飲食業、宿泊業、修理サービス業など自営業種を拡大し、農産物、工業製品の自由市場も認められた。外資との合弁企業・経済提携は、400件にのぼり、株式会社制度による独立採算制で運営され、観光、石油開発、ニッケル生産などで生産を顕著に増大している。経済の私的部門は拡大され、市場機能が導入され、経済活動の4分の1程度にまで及んでいる。

 06年8月からは、病気療養のフィデルに代わって、ラウル国家評議会副議長が議長代理(08年2月からは議長)となり、指導するようになった。2008年、経済は、89年の水準の80%程度まで回復したが、依然として、外貨不足、企業の経済生産効率、農業生産の停滞(自給率は穀物で30%、輸入の20%近くが食料品)などの問題を抱えている。経済改革の中で、所得の格差も広がってきており、これまでの、国民すべてへの全般的な社会保障政策という理念は通用しなくなっている。さらに、外貨ペソと国内ペソの二重通貨制度のもとで実質賃金が著しく低下し、国民生活大きく歪めるものとなり、賃金が生活の4分の1程度しかカバーできなくなっている。優れた医療制度、教育制度も、経済困難から制度のヒューマンな理念を生かせず、否定的な現象も指摘されている。09年からは有望な海底油田の開発が期待されているが、一層の生産性の向上、生産の増加が必至とされている。そのためには経済の全面的な構造改革が必要とされている。

 多くの国民が貧困にあえぎ、教育も満足に受けられず、医療の恩恵に浴することもできず、人種差別に泣き、失業に苦しみ、女性は男性より劣るものとされていた革命前の状態から、現在のキューバは、大きく変わっている。
革命勝利から50年たって、キューバ革命が米国の干渉に耐えながら民族の主権を守り通したこと、その中で達成した社会改革の成果は、だれも否定できない。経済的困難を抱えながらも、人間味豊かなキューバ社会は、他のラテンアメリカの国々の現状と比較して際だったちがいを見せている。

(2009年1月)

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