« 端緒に着いたキューバの構造改革 | トップページ | キューバについての7つの神話(2) »

2009年1月 7日 (水)

キューバについての7つの神話(1) 増補版 09.01.15

キューバについての7つの神話(1)増補版09.01.14 

日本のキューバ案内本、ルポ、紹介本には、あまりにも事実を誤解あるいは曲解したものが少なくない。7つの代表的な例を何回かに分けて紹介したい。

1. 旧国会議事堂(現在はキューバ科学アカデミー)はホワイト・ハウスのコピー?
 キューバの旧国会議事堂(カピトリオ)をアメリカのホワイト・ハウスをまねて作ったものだと信じている人が少なからずいることに驚いている。昨年あるテレビ局にキューバの世界遺産の番組の監修を依頼されたとき、シナリオには「カピトリオは、アメリカのホワイト・ハウスをモデルに造られた」とあった。しかし、モデルはホワイト・ハウスでなくアメリカの国会議事堂である。2校、3校と訂正しても直してくれない。
どこにその原因があるかと調べてみると、あるトラベル・ライターの旅行ガイドに、「旧国会議事堂はこれこの通り、ホワイト・ハウスのコピーである」とカピトリオの写真が掲載してある。
(写真は筆者岡知和が撮影のもの)
Capitolio

しかし、彼は、アメリカのホワイト・ハウスの写真を掲載するのを忘れたようだ。

(ホワイト・ハウス)
Whitehousepicture



(アメリカ国会議事堂)
Capitolhill


間違いは、一目瞭然である。
このライターは、「その国に1ヵ月滞在すれば本が書ける」と豪語している才能の持主だが、遅筆な私は、そうした才能をうらやましく思うとともに、速筆は悪いことではないが、事実をしっかり確かめてほしいと思う。
なお、同ライターのエッセイやガイド本には、少なからずの事実の誤りがある。たとえば、「革命前にハバナ・ビエハ(アバナ・ビエハが適当)には、黒人は立ち入り禁止だった。食事のとき黒人と白人は同席できなかった」とある。しかし、まったくそういう事実はなかった。アバナ・ビエハ(旧市街)は、逆にもっとも黒人の人口密度は高かった区域である。第一ああした複雑な区域を黒人が入らないようにどうしてコントロールできるであろうか。黒人と白人は食事に同席することも、一緒に遊ぶこともあった。「ベニ・モレ物語」など映画にいくらでも出てくる。キューバにあった人種差別はそうした形ではなかった。

もう一つの例。「ハバナ・ヒルトンは、59年1月1日にオープン予定だったが、革命政府により同日接収された。一日も営業しなかった稀有なホテルだ」という。どこから、こうした知識を得たのだろう? 事実は、オープンは、58年3月。国有化されたのは、60年6月10日。革命政府は、そのように乱暴に権力にまかせて国有化したことはない。
 
そうした点では、旅行ガイドでは、Andrew Coe, Cuba, Odyssey, London, 1995は、学問的検証にも耐えうる秀逸な本である。文化水準の違いとは思わないが、ガイドを頼りに旅行する人々のことも考えてほしいものである。


2. 「永遠の勝利まで」? 増補版 09.01.15この問題に、最近関心が高まってきているようなので、必要最小限の追加をしておいた。
 1965年3月31日、エルネスト・「チェ」・ゲバラは、有名な「別れの手紙を」フィデル・カストロに渡した。翌日、ゲバラは、コンゴで武装闘争を行うためにキューバを去った。その手紙が読み上げられたのは、6ヶ月後の同年10月3日、キューバ共産党創立の記念集会においてであった。その時、ゲバラは、コンゴで武装闘争を行っており、食料供給が困難で、戦闘は苦境に陥っていた。

このコンゴでのたたかいを、ゲバラ自身『コンゴの革命戦争回想記』(Ernesto Che Guevara, Pasajes de la Guerra Revolucionaria: Congo, Grijalbo Mondadori, Milán, 1999)で、「これは失敗の歴史である。戦争のエピソードとして詳細な逸話を記す。しかし、もしこの回想が何らかの重要性をもつとしたら、他の革命運動のために役立つ経験を引き出すことができることにあると思われるので、観察と批判的精神をないまぜた物となっている」と苦い結果を述べている。
 
同年11月には、ゲバラは、コンゴで政府軍に破れ、コンゴを引き揚げ、タンザニアに滞在します。壊走してタンザニアに避難した。また、ニエレレ、タンザニア大統領からは、「革命の輸出になるので退去してほしい」と要求されていた。コンゴには武装闘争の客観的条件はなかったからである。ゲバラが、2月にカイロでナセル大統領に会って、コンゴでの闘争を語ったとき、ナセルは、驚き、「白人の君はすぐ分かってしまう。また、帝国主義者に、ゲバラと帝国主義者の傭兵の間には違いがないといわせるチャンスを与える。アフリカにキューバ人部隊を送れば、外国の干渉と呼ばれ、マイナスである。またコンゴには革命の条件がない」と述べ、「考えを忘れるよう」にいさめたという(Mohamed Heikal, The Cairo Documents, Dobuleday & Company, New York, 1973, pp.348-353)。

実は、ゲバラは、1年前の1964年半ば、ベネズエラ共産党にも、当時ベネズエラで行われて武装闘争に参加したい旨提案している。しかし、ベネズエラ共産党は、全国指導部会議において多数決でそれを否決した。理由は、ベネズエラでの武装闘争路線が間違っており、終結する過程にあったからである。同時にベネズエラのたたかいは、ベネズエラ人が行うものであるというベネズエラ共産党の原則的な考えがそこにはあった。

さて、タンザニアに滞在していたゲバラは、翌年3月、カストロのキューバへの帰国の進めに、失意のうちにプラハに向かい、5ヶ月滞在した。ゲバラは、「別れの手紙」が発表されており、今更キューバに帰るわけにもいかず、プラハから直接、アルゼンチンに向かい、そこで解放闘争を行おうと考えた。しかし、その条件がなく、カストロは、一旦キューバに帰国し、準備してボリビアに向かうことを進めた。7月ゲバラは、ボリビアでの戦闘訓練のためキューバに帰国。短期間、秘密裏に滞在したあと、10月キューバを出発し、ボリビアに向かった。

一方ボリビアではボリビア共産党は、「ボリビアには武装闘争の条件はなく、約束したのは、ゲバラが別の国でゲリラ戦を行うために、彼のボリビアの通過での協力を約束したのである」、「ボリビア共産党のいかなる幹部もボリビアで行われるゲリラ戦への参加を約束したことはなかった」と、当時のボリビア共産党の幹部、ホルヘ・コージェは後年述べている。

11月、ゲバラは、ボリビアに到着した。ボリビアでの戦闘員はわずか50名で、アルゼンチン人2名、キューバ人16名(うちキューバ共産党中央委員4名)、ボリビア人29名、ペルー人3名であり、しかもその後、隊列は増えることはなかった。人的にも、資金的にもキューバが進める武装闘争であった。この点が、キューバでのフィデル・カストロを指導者としたキューバ人主体で、広範なキューバ国民が支援した解放闘争とまったく違う点である。侵略戦争であれ、高邁な理想を掲げる解放闘争であれ、外国からの遠征軍は、結局は勝利を収めることはできないことは歴史が示していることである。それは、その国の客観的条件を正確に把握できないことと、広範な国民の物的・人的支持をえられないからである。根本的には、それぞれの国のことはそれぞれの国民が決定するという民族自決権の侵害という問題がそこにはある。

ゲバラ問題を考えるときには、ゲバラが①キューバの革命戦争に参加したときから(1957年)、キューバを出国するまでの時期(1965年4月)と、②その後のコンゴ、ボリビアの時期を区別して評価しなければならない。①の段階でのゲバラの経済路線も問題があったが、②の段階でのゲバラの他国での武装闘争は、各国の革命運動の自決権を無視したものであったことを見逃してはならない。

ここで、参考までに、ゲバラのボリビアでのゲリラ闘争の背景を若干説明しておこう。ゲバラは、彼自身の単独の考えによってボリビアで武装闘争を行おうとしたのではなかった。彼の「ボリビア計画」は、「アンデス計画」をボリビアに適用したものであった。「アンデス計画」とは、キューバが作った計画で、まずいろいろな国籍のラテンアメリカ人よりなる本隊を創り、適応期間が終われば、戦闘部隊を作り、キューバの反乱軍の経験に基づき、これが次第次第に他のラテンアメリカの地域に派遣するというものであった。ゲバラのボリビア計画は、キューバ革命政府指導部の指示のもとに、キューバ共産党中央委員会国際部中南米担当のピネイロが責任者となって推進したことが史料で明らかとなっている。それは、ピネイロによれば、次のようなものであった。

「先ずはボリビアに南米のいろいろな国籍をもつ戦闘員からなる本隊をつくり、その後アルゼンチンを初めとする南米地域にゲリラ部隊を派遣して、武装闘争を拡大する。これは帝国主義に支援された近隣の政府や軍隊の反撃を呼び、そのことはまた南米の武装闘争を拡大し、同時に凄惨な、長期の、困難なたたかいをもたらし、アメリカ帝国主義の介入をまねくこととなる。それは、とりもなおさずもう一つのベトナムとなるものであった(Entrevista con Cdte. Manuel Piñeiro por Luis Suárez Salazar, Tricontinental, Julio 1997)」。

これは、各国の民族自決権、各国の革命の自決権を無視したものであると同時に、人命を軽視し、ともかく無制限に武装闘争を各国に広げるという無政府的、冒険主義的な考えでもあり、とうてい各国の多くの国民の支持を得られるものではなかった。このことは、その後の歴史が示している。ボリビアの武装闘争の失敗から30年たった1997年の時点で、当時の責任者のピネイロが、内政干渉の問題、民族自決権の無視の問題など、なんの反省もなく語っていることは大変な驚きである。

ネバダ大学のトマス・ライト歴史学教授も、武装闘争の条件が存在すると主観的に判断したことを、武装闘争の失敗の根本的原因として指摘している。
「ゲバラのゲリラ理論は、キューバでのゲリラ闘争の経験に基づくといいながら、都市の労働者大衆のたたかいを軽視してはならないとはいいつつも、広範な反バチスタ闘争が存在したことを事実上無視し、『ゲリラ戦争』では都市の抵抗に2%しか当てておらず、ゲリラのフォコに論点を集中した。キューバ革命の大きな評価と英雄的なゲリラ戦士としてのゲバラの姿によって、彼の言葉は多くのラテンアメリカ人にとってゴスペルとなった。こうして、彼は、キューバ史をゆがめただけでなく、ラテンアメリカの革命に欠陥モデルを提起し、それによって多くのものを死に至らしめたのである」(Thomas C. Wright, Latin America in the Era of the Cuban Revolution, Praeger, West Port, 2001.)。
 ボリビア共産党の次の指摘は、客観的なものと思われる。
 「キューバ革命の勝利の結果、一部の知識人たちによってそれが一般化され、新しいこの概念が革命闘争の雰囲気の中で有効性が探求された。農村及び都市の非プロレタリア階層がその支持の源泉であった。その方法論、ゲリラ闘争、より適切には「フォコ」論、その社会主義の待望、こうした概念は、大陸的な広がりを見せたが、少なくともわれわれのボリビアの現実には沿わなかった」(1971年6月第3回ボリビア共産党大会での報告)。

さて、「別れの手紙」次のようなものだった。ゲバラらしいロマンティシズムに満ちた手紙である。

「アバーナ、
農業の年、
フィデル:
いま、わたしは多くのことを思い出している。マリア・アントニアの家できみに初めて会ったときのこと、きみが、わたしにクーバにくるように提案したときのこと、緊張した準傭期間のすべてのことを。
ある日、自分が死んだ場合だれに知らせたらよいかと、ひとりひとりに聞いたことがあり、そうした現実の可能性に全員が衝撃を受けたことがあった。その後、確かに革命においては勝利するか、死するかである(もしそれが真の革命であるなら)ことを知ることになった。多くの同志が勝利への道程で倒れたものだ。
・・・・・
きみやわれわれの国民に言いたいことはたくさんある。しかし、それは不要だと感じる。
言葉は、わたしの言いたいことを表現できず、手紙を汚すだけの価値もないからだ。常に勝利まで、祖国か死か。
あらゆる革命的情熱を持ってきみを抱擁する。
    
チェ」
 
このスペイン語の”Hasta la victoria siempre. Patria o Muerte”を一般には、「永遠の勝利まで」と訳していることが多い。しかし、この文章のままだと「常に勝利まで」(たたかいを続けよう)という意味である。マルクス主義を理解していたゲバラが、弁証法からして「永遠の勝利」があるとは思っているはずはない。キューバ人達の文章解釈も、「常に勝利まで」である。しかし、ゲバラの夫人、アレイダ・マルティがプラハで滞在中、ゲバラは、“Hasta la victoria, siempre Patria o Muerte”と書きたかった、カンマの位置を間違ったのだと語ったという(Aleida March, Evocación: mi vida al lado del Che, Espasa, Bogotá, 2008, p.204)。

その文章だと、「勝利まで、常に、祖国か死のスローガンでたたかおう」ということになる。ゲバラがいいたかったことは、「常に『祖国か死か』の精神で勝利までたたかおう」ということだったのである。これは、きわめてノーマルな論理である。史料批判からいえば、直接話し合ったアレイダ・マルチの説明が最も信用できる。いずれにせよ、現在のままでも本来ゲバラが望んだことからも「永遠の勝利まで」ではない。手書き原文をよく見ると、”Hasta la victoria. Siempre, Patria o Muerte”と読める。

それでは、「別れの手紙」の手書き原文、発表印刷原文と日本語訳(新藤通弘氏訳)を筆者が並べて構成したものを紹介しよう。カストロがこの手紙を改竄したという説が、発表当時より流布しているが、二つの原文史料を検討してみると、そういう事実は見当たらない。

下記参照

「carta_de_la_despedida.pdf」をダウンロード


|

« 端緒に着いたキューバの構造改革 | トップページ | キューバについての7つの神話(2) »

歴史」カテゴリの記事