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2009年1月 3日 (土)

キューバ史における米国の世界戦略

キューバと米国の関係は、その時々の米国の世界覇権戦略を如実に反映している。米国の世界覇権戦略が、明確な干渉・圧力の形で対キューバ政策として実行され、キューバ側も民族自決権擁護の立場から激しくそれに対峙する。新しく生まれるオバマ政権は、外交政策でも、「チェンジ」をもたらせるでしょうか。注目されるところである。

米国の世界戦略を如実に反映する米玖関係
 キューバとアメリカ合衆国(米国)の関係(米玖)は、当然のことながら、その時々の米国の世界覇権戦略を反映している。しかし、両国の地理的な近接関係、歴史的な支配・従属関係から、米国の世界覇権戦略は、実に明確な干渉・圧力の形で対キューバ政策として実行された。それに対し、キューバ側も民族自決権擁護の立場から激しくそれに対峙していくという図式が見られる。米国の世界覇権戦略とそれへの対応がこれほどまでに具体的に現れる国、あるいは地域は少ないであろう。

それは、その他の多くのラテンアメリカ・カリブ海諸国の独立が、国民国家の形成を伴わなかった独立であったのと違って、キューバの独立は、キューバの国民意識の形成を基礎にして1868年独立運動が展開され、1902年独立とともに米国の間接支配の下とはいえ国民国家が形成されたことから、キューバ国民が強い国民意識をもっているからであると筆者は考えている。

歴史的に見れば、米国のキューバ敵視・干渉政策が強ければ強いほど、キューバ側の対応も自立した政権の存続をかけた厳しいものとなる。そしてその対応の過程で、しばしばキューバの対応は、自ら重要性を強調している平等・互恵、民族自決権の尊重、内部問題不干渉などの国際関係の原則が背景に追いやられて、国際政治力学を優先したものとなる場合も見られる。1960年代のラテンアメリカ各国での武装闘争へのキューバの支援は、武装闘争の鎮圧作戦への米国の関与に対して対抗するという観点から、またラテンアメリカの武装闘争の発展は、国際情勢の力関係がキューバにとって有利になるという判断から行われたが、ベネズエラやボリビアでのキューバの支援・介入は、民族自決権の観点からは問題を含むものであった。1968年のソ連のチェコスロバキア侵略、1979年のソ連のアフガニスタン侵略は、いずれもソ連による明白な民族自決権の侵害であったが、キューバは、「ファシストや帝国主義の攻撃から社会主義陣営の利益を擁護することを優先して」これらの侵略を支持したのであった。

米国の独立直後から、キューバ併合を企図
米国とキューバの対立は、1959年1月にキューバにおいて社会主義をめざす政権が生まれたからではない。それは、19世紀以来の米国の対外膨張主義、アメリカ帝国主義とキューバの独立をめざすたたかいの中で生まれたものである。59年のキューバ革命の勝利までに、その後の米玖対立の原型がすでに生まれていたのである。

1776年独立を達成した米国は、1803年フランスよりルイジアナ全域を購入し、領土を2倍に拡大したことを皮切りに膨張を続け、米国に神から与えられた「明白な運命」という主張のもとに、1948年メキシコの半分以上の領土を獲得し「大陸帝国」を実現した。米国のキューバへの関心は、米国の膨張政策と軌を一にしている。キューバがカリブ海の要衝に位置するという地政学的な重要性とその豊かな経済的資源から、米国は、19世紀初頭からキューバ併合を主張している。1801年にはトマス・ジェファソン大統領がキューバに対する領土的関心を述べたし、1823年には、アダムズ国務長官は,「熟れたリンゴの自然落下」論によりキューバの併合を主張、1848年にはポーク大統領が、1854年にはピアス大統領が、スペインからキューバの買収あるいは掠奪を企図したりした。

その後米国は、1890年には、フロンティア・ラインが消滅し、資本主義が興隆して帝国主義段階に入り、「明白な運命」論が再燃し、海外膨張主義の時代に入った。その外交は、棍棒外交あるいは砲艦外交(1904年)といわれている。この米国の帝国主義的野望を鋭く指摘したのは、キューバ独立の父といわれるホセ・マルティであった。マルティは、1895年アメリカ帝国主義の野望とそれを阻止するキューバの役割を次のように指摘している。 

「米国が、アンティル諸島に手をのばし、さらにより強大な力で、アメリカのわれらの国ぐにを支配しようとすることを、キューバの独立でもって適時に阻止するのが、私の義務です。そして、わが国とその義務のために、私は、生命をささげる危険に連日さらされているのです。・・・私は怪物の中に住んだことがありますので、その胎内を知っています。私の投石器はダビデと同じものです」。

■キューバ独立するも米国の半植民地に
キューバの第二次独立戦争(1895-98)は、アメリカの干渉を受け、米国のキューバへの干渉権を合法化する「プラット修正条項」が憲法に附則として認めさせられた。そのため、キューバは、1959年までは「間接支配された」共和国と呼ばれている。まさに半独立国、あるいはレーニンのいう半植民地であり、米国の新植民地主義支配の典型であった。

20世紀初頭、金融資本が独占段階に到達した米国は、「ドル外交(1908年)」を展開した。キューバに米国資本が、砂糖産業などに奔流となって流れ込んだ。米国の棍棒外交、ドル外交が、ラテンアメリカ諸国から強い批判を浴びたことから、ルーズベルト大統領は、善隣外交(1929年)を進めたが、1933年キューバで労働者・学生・兵士が社会改革を主張して臨時政府を樹立したときには、帝国主義の本性が現わして、ルーズベルト政権は、これを承認せず、29隻の軍艦をキューバに派遣し、バチスタ軍曹に軍隊を使って権力を掌握するよう主張した。

連合国と枢軸国の対戦となった第二次世界大戦では、バチスタ政権は、1940年7月の第二回米州機構外相会議の決定にしたがって、12月10日直ちに日本に宣戦を布告した。反ファシズムとの戦いがヨーロッパで進展する中で、ルーズベルト大統領は、ラテンアメリカ諸国を反ファシズム勢力として維持する必要性から、共産主義勢力とも一定の妥協政策をとった。その結果、1940年にはバチスタ政権に、キューバ共産党から2名が入閣し、また大土地所有制の廃止、8時間労働など民主的な条項を含む憲法が採択された。

第二次大戦後、1947年、米国は、冷戦構造の中で共産主義の「封じ込め政策」を打ち出した。キューバでも反共攻撃が行われ、共産党員指導者が労働組合から追放されたり、暗殺されたりした。同年、共産主義の進出から米州を守る目的で作られた軍事条約、「米州相互援助条約」と翌年創設された米州機構(OAS)に、キューバも参加した。

続いて1954年アイゼンハワー政権のもとで「大量報復戦略=戦争瀬戸際政策」が追求された。同政権は、ラテンアメリカの少しでも民主主義的な動きを共産主義者の策動として警戒した。1953年7月から、フィデル・カストロが率いる「7・26運動」は、バチスタ独裁政権との闘争を展開した。米国は、この運動に共産主義者が浸透していないか大きな関心をもっていた。早くも1958年の2月「カストロ兄弟は共産主義者かそれに近いものであるという報告がある」とサンチャゴ・デ・クーバ在住の米国領事が、国務省宛に報告している。

■革命勝利後、米玖対立は一層激化
革命闘争の勝利の可能性が見えてきた同年10月、カストロは、シエラ・マエストラ山中から、ラジオ・レベルデ放送でキューバの主権を擁護する立場を明確に述べている。

「キューバは、自由な主権国家である。われわれは米国と友好的な関係を維持したいと思っている。キューバと米国の間で、諸国民の理性と権利の中で解決できないような紛争が起きることを好まない。しかし、米国国務省が、われわれの主権を侵害する行為を行い、正当化できない間違いを犯すならば、われわれは断固主権を守るであろう。」

カストロの予測通り、米国は、キューバの主権を尊重しなかった。キューバ内務省の報告によれば、バチスタとの独裁闘争に勝利した直後の1959年2月2日にCIA(米中央情報局)のカストロ暗殺計画は始まり、その後、1999年までに米政府諸機関によるカストロ暗殺計画は637件に達している。

1959年1月の革命勝利直後の4月、カストロ首相は、アメリカを訪問し、ニクソン副大統領と会談した。その結果、同副大統領は、「カストロは信じ難いほど共産主義及び共産主義の原理を信用している」ときめつけ、カストロ政権の打倒をアイゼンハワー大統領に進言した。同年5月の第一次農業改革など経済の民主的改革をすすめるカストロ政権に対して、米国は、経済的圧力をかけたり、撹乱・破壊行為を行ったりして、両国の対立は激化していった。同年12月ダレスCIA長官は、アイゼンハワー大統領にカストロ暗殺を進言し、大統領はそれを受け入れた。翌60年3月、アイゼンアワー政権は、キューバ進攻秘密作戦計画「プルト作戦計画」を策定し、それは、ケネディ政権により61年4月にプラヤ・ヒロン侵攻事件として実行された。しかし、この侵攻は、カストロ政権によって撃退され、カストロ首相は、「革命が社会主義的性格を持ったもの」と宣言した。

その後、ケネディ政権は、ソ連と対決しつつ必要な軍事介入を第三世界で行う「柔軟反応戦略」を提起(1961)、キューバ・ミサイル危機で米・ソ=玖の対決を招いた(1962)。さらに、その結果、キューバ不侵攻の約束、米国の対キューバ経済封鎖(1962)、ケネディ政権末期の米・キューバ和解交渉(1963)、ソ連の原潜基地設置疑惑による緊迫化(1970)、キッシンジャーのデタント外交の中での関係修復の模索(1975)、カーター「人権外交」下での利益代表部の相互設置(1976)と3200人の政治犯の釈放(1978)、アンゴラ・エチオピアへのキューバ軍派遣をめぐっての関係悪化(1978)、レーガン政権下の「反共ドミノ理論」下での中米紛争をめぐっての米玖関係修復交渉とその決裂(1981)、ソ連崩壊を機に一層強められた米国の経済封鎖(トリセリ法、1992)、カストロ政権倒壊戦略の強化とキューバの全方位が外交の展開(1992)、クリントン政権によるヘルムズ=バートン法の制定と米国の一層のキューバ経済封鎖強化(1996)、米国の一極支配体制、単独行動外交の推進とラテンアメリカにおける革新勢力の台頭(1998)、ブッシュ政権の「反テロリズム外交」とカストロ政権打倒計画の追及などと、米玖関係は、複雑に展開する。

■ブッシュ政権、予防戦争論で恫喝
ブッシュ政権は、発足以来、キューバを「悪の枢軸」、「テロリスト国家」、「圧制の砦」などと決めつけ、キューバへの敵意を一層あらわにしている。02年、同政権は、「新アメリカ国家安全保障戦略」を発表し、大量破壊兵器を開発している敵国やテロ組織に対する先制攻撃及び予防戦争を容認する軍事戦略への転換を明言した。つまり、「テロリスト国家」、「悪の枢軸」であるキューバを、予防戦争の観点から攻撃する可能性があると恫喝したのである。さらに本年五月、同政権は、「自由キューバ支援委員会」の報告で、具体的なキューバ敵視政策を示したあと、付属文書で重大な政策があるが、その性格から公表できないと述べた。キューバ側は、それは直接侵攻の計画以外にはありえないとして警戒感を強めている。一方でキューバは、南米の新しい左派政権、ベネズエラ、ボリビア、ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、エクアドル、ニカラグアなどとの関係を緊密にしつつ、非同盟諸国運動の議長国として(06年)、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の協調をはかって、米国のキューバ孤立化政策ときびしく対決している。

■ラテンアメリカで米国の孤立化が目立つ近年
 近年、ラテンアメリカ諸国で左派政権が連続して成立するに連れて、米国から自立する国が増えている。その動きを列記する。
 07 年12 月ニューズウィーク誌は、ラ米の自立、米国のラ米での地位の低下に「モンローが草葉の陰で泣いている 」と論評した。
 08 年3 月、ジョビン・ブラジル国防相は、米国抜きの南米安全保障理事会の創設を推進した。米ゲーツ国防長官が、どういう点で協力できるかと聞いたところ、同外相は「最良の協力は、米国がラ米と距離をおくこと 」と、米国の関与を拒否した。
 08 年5 月、ブッシュ大統領、「社会的正義は、医療・教育の保障、汚職とのたたかい、自由市場の推進を必要とする」と述べと。すると、フォックスレイ・チリ外相は、「米国とラ米は成熟した平等な関係に発展している。ラ米の貧困は、ラ米で解決する 」と述べ、米国の関与を拒否した。
 08 年5 月、米国の「外交問題評議会」は、「ラ米での米国の覇権時代は終わった 」と分析した。
 08 年5 月、第14 回サンパウロ・フォーラム「ラテンアメリカ・カリブ海地域、33カ国のうち、13カ国、実に40%が革新政権 と述べ、米国抜きの南米安全保障理事会創設 を提唱した。
 08年12月、ラ米33カ国が米国抜きで12月16日にはブラジルでリオ・グループ(22カ国、地域紛争の平和的解決を追求)首脳会議が開催され、キューバの加盟が正式に承認された。
 翌17日、ラテンアメリカ、カリブ海地域33カ国すべてが参加して、第1回「ラテンアメリカ・カリブ海統合と開発」首脳会議が開催された。かつて米国の「裏庭」と呼ばれた地域で米国抜きで会議を行うのは歴史的なことであった。会議では、2010年に米国抜きのラテンアメリカ・カリブ海連合(Unión de América Latina y el Caribe)を創設することが決定された。
 
いまや、ラテンアメリカ諸国は、対等、平等の関係を米国に望んでいるのであり、オバマ次期大統領が勝利演説で述べたような「米国が指導力を発揮し、21世紀の課題に取り組む新たな時代が来るべき時だ」、「米国が安全であるためには、軍事力と強大な外交を組み合わせなければならない」というものではなくなっている。

米玖は、時に関係修復の話し合いが進めながらも、最終的には米国の不当なキューバ内部の変革要求により、交渉は決裂し歴史的な和解には至っていない。米玖関係の正常化のためには、何よりも米国の外交政策の正常化、各国の民族自決権を認めることが前提となっていることを歴史は示している。

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