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2009年1月 2日 (金)

キューバ・ミサイル危機―40年目の検証

―あらためて核戦争寸前だったことを示す新資料―

 去る10月10日から3日間、キューバのハバナで、キューバ・ミサイル危機40周年検討国際会議が、米・ロ・キュの関係者・研究者が参加して開催された。このミサイル危機検討国際会議は、国際的に核の恐怖が広まり、核兵器禁止運動が高まる中で、これまで、87年3月フロリダ、87年10月マサチューセッツ、89年モスクワ(この会議からキューバ参加)、91年アンティグア、92年ハバナと都合5回開催されているが、今回の会議は、「10月危機―40年後の政治的検証」と題して、40年後の現在の政治状況からみた危機の検証を主要な目的とした。そのため、アメリカのイラク先制攻撃とそれによる世界の平和への深刻な影響が予測される現在の国際情勢中で、危機を生み出した情報の誤分析、先制攻撃と大量破壊兵器のもつ意味に大きな関心が寄せられた(Thomas Blanton, AP, October 11, 2002)。

 会議には、アメリカからは、マクナマラ元国防長官を団長に、ケネディ(JFK)政権のソレンセン元補佐官、JFK側近で歴史家のシュレジンジャー、テーラー将軍側近のスミス空軍少佐(USAF)、JFKの側近グッドウィン元特別補佐官、ブルギオーニ元CIA(米中央情報局)の分析官、ガーソフ研究員などが、旧ソ連からは、コルニエンコ元外務次官、ミサイル導入立案者のグリブコフ元将軍、ヤゾフ元国防相、レオーノフ元KGB将校などが、キューバからは、カストロ議長、フェルナンデス副議長、アラルコン国会議長など、海外から73名、キューバから42名が参加した。

 これまでの5回の会議の開催に合わせて50万ページに上る秘密文書が開示された(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。87年以降、新たに明らかにされた主な内容は次の通りである。
① キューバ革命勝利後、アメリカによる数々のカストロ政権転覆計画が、カストロの暗殺計画を含め進められ、61年4月には傭兵によるキューバのプラヤヒロン侵攻事件にまで発展した。その失敗からアメリカは、マングース作戦などで米軍のキューバ直接侵攻を計画するようになった。

② 米軍のキューバ直接侵攻計画を察知したキューバは、防衛力を強化するためソ連と相談した。フルシチョフは、ソ連に不利な1対17という逆ミサイル・ギャップの現実を逆転したいと考えており、キューバ側の関心を利用して戦略ミサイルの導入を提案した。カストロは、この冒険主義的な提案に反対であったが、「社会主義圏の防衛能力の強化という大義のために」これを受け入れた。

③ 62年8月ソ連・キューバ軍事相互防衛協定が締結され、カストロはこれを直ちに公表するよう主張したが、フルシチョフは、秘密裏に導入を行った後の11月に公表することを強調、結局同条約は公表されなかった。この秘密裏の導入は、アメリカにとっては、だまし討ちの感じを与え、ミサイル撤去を迫る「根拠」となった。

④ ソ連は、短距離ミサイル36基、中距離ミサイル24基をはじめとし、戦術核ミサイル「ルーナ」など合計162発(広島型原爆約3500発に相当)の核兵器のキューバ運搬作戦「アナディール計画」を7月末より実施した。戦略核の使用はモスクワの司令部の許可が必要とされたが、戦術核の使用は、現地司令官の判断に任されていた。

⑤ アメリカは、キューバ導入の核兵器は査察飛行で発見した戦略ミサイル33基のみと見ており、戦術核のキューバ配備までは知らなかった。

⑥ アメリカは、10月27日午後4時にキューバへの空爆、直接侵攻する計画を持っていた。その場合は、ソ連の戦術核ルーナが使用され、全面核戦争になるのは必死であった。

⑦ 10月27日U-2スパイ飛行機がキューバ駐留ソ連軍防空部隊ボロンコフ中将の指令によって撃墜された後、一気に緊張が高まったが、米ソ両指導者は、事態を打開し核戦争を避けるため、ミサイル撤去とキューバ不侵攻の条件をめぐって、頻繁な書簡の交換やいろいろなルートによる交渉を行っていた。そうした両国指導者の懸命な努力の結果、核戦争の危機は回避された。

⑧ しかし、キューバは、危機の真の解決の条件であるアメリカの対キューバ経済封鎖の解除、キューバへの干渉行為の停止、キューバにあるグアンタナモ米海軍基地の返還などが解決されていないとして、危機の真の解決には至っていないとみなしている。

 会議は、①プラヤヒロン侵攻事件(アメリカの傭兵によるもの、1961年4月)からミサイル導入まで、②ミサイル導入と10月危機、③11月危機とその余波、④危機からの教訓、といった4つのテーマで話し合われた。同時にこの会議に合わせて、米・ロ・キュの3カ国によって関係秘密文書の一部が開示された。さらに今回は、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ブラジル、イギリス、メキシコの一部秘密文書も開示され、世界を核戦争の瀬戸際まで追いやったミサイル危機が、これまでのように米ソ超大国に限定されるのでなく、より大きな世界的な広がりをもって分析されることになった。

 40年後の政治状況からみた危機の検証ということもあって、会議開催の前に、ブッシュ現政権とアメリカ側の会議参加者の間に、前哨戦が戦われた。ブッシュ大統領は、10月7日、ミサイル危機との関連で、大量破壊兵器所有の疑いがあるイラクへの先制攻撃を正当化して、「危機の解決は、ケネディがキューバの核兵器(大量破壊兵器)の所有に対して、先制攻撃も辞さない強い態度を取ったことによる」と述べた。これに対して、シュレンジンジヤーは、「ブッシュは、危機の文脈を無視してケネディの言葉を利用しており、歴史を読み誤っている。ケネディ政権が行ったソ連船舶に対する海上検問は、軍事行動への対案であり、軍事行動ではない」と反論。さらにマクナマラは、「検問は、戦争用語でなくその反対であり、戦争を先送りにするものであって、先制攻撃とは正反対のものである」と批判した(Reuters, October 11, 2002)。

 会議において、最初のテーマである「①プラヤヒロン侵攻事件からミサイル導入まで」は、アメリカが、カストロ政権転覆のために傭兵を使用してキューバに侵攻したプラヤヒロン作戦が失敗した結果、引き続きカストロ政権転覆のために秘密作戦「マングース作戦」や、「ウッドワース作戦」によって、キューバに直接侵攻を行う計画であったことが、近年の解禁文書で一層明らかになっている。今回開示された文書でもロバート・ケネディ司法長官がCIA及び国防省とキューバ侵攻計画を進めていたことが判明した(The National Security Archive, The Cuban Missile Crisis, News Release)。また開示文書によれば、アメリカは、1000機以上の爆撃機と28万人の兵隊をキューバに上陸させる計画を持っていた(AIN, Oct.12, 2002)。こうしたキューバの民族自決権を無視したアメリカの態度こそ、キューバミサイル危機を招いた根源であるとキューバ側は主張している。キューバは、アメリカの直接侵攻があることを予測して、自国の防衛のためソ連に相談したところ、フルシチョフ議長は、米ソのミサイルバランスの劣勢を補うため、キューバの要請を利用してキューバへの短・中距離ミサイルの導入を提案した経過がすでに明らかになっている。

 また、カストロ議長は、ソ連・キューバ軍事相互防衛協定の締結後、即時、公表するよう主張したが、フルシチョフは、導入後の11月の公表を主張して譲らなかった。最終的に、キューバ側は革命後4年しか経過しておらず、革命後45年を経過していたソ連への信頼から、フルシチョフの意見に従った(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。ソレンセンは、もし同協定が公表されていれば、アメリカがトルコで行っていることと同じことになり、アメリカの手を縛ることになったと述べている(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。カストロ議長も、同協定を公表しなかったことは、フルシチョフの誤りであったと述べている(Interview of Barbara Walters with Fidel Castro in ABC News, Oct.10, 2002)。

「②ミサイル導入と10月危機」については、今回の会議では、これまでの5回の会議で明らかにされた以上の衝撃的事実が明らかにされた。それは、米軍の駆逐艦とソ連の潜水艦の間で、米ソの間に核戦争寸前にいたるほどの危険な軍事的遭遇があったということである。23日国家安全保障会議執行委員会(ExCom)は、ソ連潜水艦に対してカリブ海で検問を行っていた米海軍の駆逐艦の前で、浮上して艦型を明らかにするよう通告していた。ソ連は、アナディール作戦(ミサイル・核弾頭秘密輸送作戦)のもとで162発以上の戦略核と戦術核兵器・弾頭(広島型原爆約3500発に相当)をキューバに導入するため、大輸送作戦を展開していた。その中には輸送船を護衛するため、核魚雷(15キロトン、広島型原爆に匹敵)を装備する潜水艦B-59及びB-130、4隻が含まれていた。これらの潜水艦は、米軍との戦闘指令は受けていなかった。

27日午前10時米軍のスパイ飛行機U2がキューバ領内で撃墜され、緊張感が一気に高まった。この時米軍は、海兵隊・陸軍25万人、核爆撃機B-52など航空機1000機、核空母など艦船250隻がカリブ海に展開していた。ソ連側は潜水艦6隻をはじめ数十隻の輸送船団がハバナを目指しており、キューバでは革命軍27万人をはじめ民兵・内務省軍を含む総員40万人、駐留ソ連軍4万3000人が、24-72時間以内に予想される米軍の空爆、直接侵攻に対峙するため臨戦態勢にあった。カリブ海は、まさに一触即発の状態であった。

同日午後5時前、米海軍駆逐艦は、ソ連潜水艦を浮上させるため演習用の爆雷を投下した。米軍は、これら4隻の通常潜水艦が核魚雷を装備しているとは思わなかった(The Submarines of October)。ソ連潜水艦B-130内では艦内が割れるような大変な震動を受けた。シュムコフ政治将校は、もし潜水艦自体に損傷があれば、戦争が開始されたとみなし、核魚雷で反撃するために核魚雷を準備するよう指令を出した。しかし、特別武器管理将校が、司令部の承認がなければ使用できない旨、牽制したところ、シュムコフは、核魚雷使用を思いとどまったということである。さらに、一層危険なことは、別な潜水艦B-59内では、米軍の爆雷に憔悴したサビツキー艦長は、司令部と連絡が取れないことに業を煮やし核魚雷の発射準備を指令した。しかしアルキノフ副艦長が、サビツキー艦長を諌めた結果、艦を浮上させることになったという(40周年ハバナ会議オルロフ証言The Submarines of October)。

その15分前に、ドブルイニン駐米ソ連大使が、ケネディ大統領のフルシチョフ議長宛の緊急メッセージもってケネディ司法長官の事務所を退出していたのであった(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。このメッセージで、キューバ不侵攻とトルコのミサイル撤去が提案され、事態は急転回することになったのは周知のとおりである。もし、核魚雷が発射されていたならば、当然、上空を警戒飛行しているアメリカ空軍機は、搭載していた核爆雷で反撃したであろうし、そうなれば米ソ間の全面的な核戦争は必至であった。
 
「③11月危機とその余波」に関しては、新開示文書によると、ソ連船がキューバよりミサイルを撤去した後も、地対地、地対海、軽爆撃機などの90発の戦術核兵器は、キューバの残されキューバが管理することとなった。しかし、それらも11月20日最終的に撤去された(The National Security Archive, The Cuban Missile Crisis, News Release)。

アメリカは、ミサイル撤去受諾後も、キューバ領空で低空査察(スパイ)飛行を継続した。キューバの国家主権を無視したこの行為は、再び危機を招くものとなった。解禁文書によれば、フルシチョフは、11月16日付けのミコヤン副首相宛の書簡で「カストロは、アメリカの査察飛行機を撃墜して、われわれを戦争に引きずり込もうとしている」と非難した(AP, October 11, 2002.この文書はAPが独自に入手したものとのこと)。しかし、キューバが開示した秘密文書によれば、アメリカが低空査察飛行の禁止を正式に発表した11月16日の翌日の17日付けで「11月18日以降に、キューバ領空を侵犯したアメリカの査察飛行機を撃墜してもよい」という指令がキューバ軍に出されていたのであった。またこの決定は、その後18日に取り消されたことをカストロ議長は開示文書で示した(AP, October 11, 2002. The National Security Archive, The Cuban Missile Crisis,)。フルシチョフのカストロ非難は、領空主権を侵害され、連日頭上を低空でスパイ飛行する米軍機を見て、切磋扼腕して眺めているキューバ国民の感情を理解しないもので、危機は両大国間の政治取引で解決されるものであるという大国主義的見方であった。

 第四のテーマ「危機からの教訓」に関しては、今回の会議の討論を通じて、米ソ司令部も、現場指揮官も大戦争に発展するのを好まず、冷静に、職業意識をもって事態に対処したことと、若干の幸運に恵まれたことから最悪の事態は避けられた、また最大の危険は、現場の指揮官が未許可のまま核を使用することではなく、むしろ、人間や機械の相互作用などの偶発的な事故によると、一部の研究者たちは結論付けている。ウエイン・スミス元在キューバ・アメリカ利益代表部代表は、「危機は、大変注意深くまた慎重に対処され、だれもカーボーイのようにはふるまわなかった」と会議で述べている(Reuters, Oct.12, 2002)。マクナマラ元国防長官も、「カストロ、ケネディ、フルシチョフは、冷戦期の最大の危機において、核戦争の崖っぷちから世界を引き戻すために適切な判断と冷静な解決策で対応した」と指摘している(Reuters, Oct.12, 2002)。しかし、人類の運命を指導者たちの資質に頼ることはできないことは、人類の悲惨な戦争の歴史が示している。また、ミサイル危機のような極限の状況の中で、偶発的な事件を完全に避けることは不可能であろう。そうであれば、核戦争を避ける唯一の確実な方法は、核の廃絶しかないことになる。

 会議に先立って、キューバは、9月14日署名はしたものの批准をしていなかった「トラテロルコ・中南米非核地帯条約」と「核不拡散条約(NPT)」条約を批准することを発表した。キューバがこの時期に両条約を批准するに至ったのは、両条約とも、既存の核保有国の核独占を正当化する内容を持つものの、アメリカの一方的外交が強まり、アメリカがテロ支援国家とみなす国への核兵器を含む先制攻撃が予測されるとき、道義的に優位な立場に立って、国際社会と協調して反対しなければならないという考えからであった。キューバもまた、ミサイル危機の分析と教訓から学んだのである(Nidia Díaz, Cuba y el desarme nuclear, Granma, Octubre 7, 2002) 。

 こうして会議の参加者は、危機を繰り返さないためには、小国の主権を尊重すること、核兵器を廃絶することこそが重要であることを、危機の教訓として学んだのであった。しかし、依然として、世界における戦略核弾頭の保有数は、アメリカ10,656発、ロシア1万発、フランス約350発、中国250発、イスラエル100-120発、イギリス185発、インド約60発、パキスタン約48発といわれている(Luis M. García Cuñarro, Granma, Noviembre 20, 2002)。さらに国際条約の規制外にある戦術核弾頭は、3万6800発にのぼるといわれている。アメリカ保有の核兵器だけでも廣島型原爆の10万発分に相当する。

 今回も危機からのより一層の教訓を真剣に学びたいとして、会議に参加したマクナマラ元国防長官が、この種の会議を経験するたびに核兵器の絶対数の削減から、ついには核兵器の廃絶まで訴えるようになっていることは、核問題の本質を示していると思われる(ロバート・S・マクナマラ『マクナマラ回想録―ベトナムの悲劇と教訓』仲晃訳(共同通信社、1997年)460-461ページ。「軍縮問題を考えるエコノミストの会」主催の国際シンポジウムでの基調講演。『朝日新聞』95年9月5日朝刊)。

(2002年11月)

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