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2009年1月22日 (木)

研究・報道の方法について

研究・報道の方法について

本ブログでは、コメント・批評は、各研究者の研究内容が対象ですので、原則として実名を挙げることはさける方針ですが、吉田太郎さんがブログ「キューバ有機農業」http://pub.ne.jp/cubaorganic/で率直な反省を述べていますので、ここではあえて吉田さんの名前を挙げて筆者の考えを述べることにします。

本ブログで、1月9日付け「キューバ、7つの神話(3)」、1月19日付け「ハバナ市では100%無農薬野菜で自給?」、1月20日付け「キューバの食料自給率は?」と小論を掲載してきましたが、誤解のないように申しておきますと、これらは、すべて吉田太郎さんの現在の見解を批判したものではありません。筆者が批判したのは、吉田さん以外の人々で現在こうした意見を述べている方々です。吉田さんは、だいぶ前から彼のブログ等で、彼の衝撃的な事実上のデビュー作「200万都市が有機野菜で自給できるわけ」(築地書館、2002年)の内容に不正確なところがあったことを認められおり、その上にたって現在は新たな認識をもたれています。研究者として、実に信頼に足る誠実な姿だと筆者は考えています。

もともと、絶対的真実に近づこうとして研究が解明した認識は相対的なものですが、実践によって吟味され、修正や批判をへて再吟味され、より高度の認識に進んでいくものです。私も、これまで少なからずの間違いを書いてきました。研究には避けられないことです。2-3の参考例をあげておきましょう。

エンゲルスは、マルクスが執筆した「フランスにおける階級闘争」(1850年)の出版後、45年経った1895年、同書の新版の序文で「われわれは1848年の2月革命の後、長期にわたるたたかいにより、労働者階級が最終的には勝利すると考えた。しかし、歴史に照らしてみて、われわれも謝っていたのであり、歴史は、当時のわれわれの見解が一つの幻想であったことを暴露したのだ。・・・1848年の闘争方法は、今日では、どの関係からも時代遅れとなっている」と厳しい自己批判の目を自分たちに向けています。

フィデル・カストロ首相(当時)も、65年から70年にかけて、国家予算の廃止、無料政策の拡大、農民にたいする貸付金の利子、税金の撤廃、賃金と生産目標との関係の廃止、時間外労働への賃金の支払いの停止、党と国家の機能の混同、労働組合・大衆組織の活動の低下、党中央委員会の機能の停止などを進めました。カストロは、その後、1975年に「われわれは、マルクス主義を理想的に解釈し、われわれ独自の方式を確立しようとした。(しかし、その結果)、われわれが、生産と分配の共産主義的形態に近づいているように思われたとき、実際はその前の段階の社会主義を建設するための正しい方式からも遠ざかっていたのである」と率直に自己批判を行っています(Informe del Comité Central del Partido Comunista de Cuba al I Congreso, Departamento de Orientación Revolucionaria del CC. del PCC, La Habana, pp.162-172)。

さらに、最近では、日本において90年代以降の新自由主義政策の旗頭役であった経済学者が構造改革の悲惨な結果(貧困率の急激な上昇など)をみて、「懺悔の書」を書いている一方、閣僚として構造改革を推進した学者は、「日本の貧困は定義がないうえ、今の日本の貧困は、アメリカやヨーロッパほど深刻ではない」と自らの責任は一顧だにしていません。前者の学者としての良心は、同氏の学問の今後の一層の発展を保障するもののように筆者には思えます。

さらに、インターネット時代の資料集めの方法も便利な中で、一定の陥穽もあることを理解しておかなければなりません。たとえば、「キューバ、有機農業」とキーワードを入れて検索すると、日本語でも英語でも、キューバの有機農業を賛美する報告が際限なくヒットします。逆に批判的な報告はほとんど出てきません。というのは、批判的な人は、一般にわざわざインターネットには主張をアップロードしないのです。すると、検索結果に、作業者は驚き、自らの仮説により確信を深めます。つまり、自らが一定の路線を引き、その中で都合の良い資料をかき集めることになりかねません。やはり、キューバの新聞、雑誌、書籍、聞き取り調査などの古典的な研究方法でしっかり補強・検証することが必要です。そして使用する史料(資料)批判も不可欠でしょう。

このように研究は、常に進歩するものですから、筆者が、吉田太郎さんの2002年時点の認識を今この時点で依然として繰り返し批判するなら、逆に筆者の知的怠慢でしょう。また同書の読者が、それをもとに現時点で有機農業を議論するのも、探求精神の不足といえるかもしれません。いわんや、テレビ局が、氏自らが問題点を指摘したことを無視して、自らの幻想に拘泥して作品を作り放送したのは、知的誠実性を疑われても仕方がないでしょう。最近憂慮されるのは、テレビ局が視聴率を稼ぐためか、センセーショナルな番組づくり、宣伝が目に付くことです。ドキュメンタリー、報道番組は、誇張表現や、甲高い声を上げなくとも、内容そのもので感動を与えるべきものではないでしょうか。

吉田太郎さんは、現時点では、キューバの有機農業を、苦悩するキューバ農業の全体の中に正確に位置づけ、様々な経済的・技術的困難の中で奮闘しているキューバの有機農業研究者、まだまだ少数とはいえ明確な有機農業の概念をもっている有機農業実践者の実態とその発展の可能性を、粘り強く探求されています。持ち前の研究対象への類まれな情熱と冷静な研究方法が融合されて、歴史の検証に耐えうる素晴らしい研究の花が開くものと期待しています。

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