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2009年1月29日 (木)

キューバ、移民と亡命

キューバ、移民と亡命 
 ラテンアメリカの国々の国民にとって、北の大国、アメリカ合衆国への移民問題は、複
雑な要素をもっている。経済水準、生活水準で7~8倍から20~30倍も高いアメリカに一攫千金の夢を抱いて出稼ぎにいき、故郷に錦を飾ろうとラテンアメリカの人々が考えるのは当然のことである。日本と近隣のアジア諸国との関係と同様である。水の流れとは逆に、生活水準の低い国から高い国に、仕事を求め、お金を求めて人が流れていくのは避けられない現象である。

 経済先進諸国が、後進諸国からの就労目的の入国を制限すれば、不法入国が大量に行われる。メキシコからアメリカへの不法入国者は、逮捕されるだけでも年間数十万人にのぼる。逮捕されずに入国するものは年間120万人以上と推定されている( 「オースティン・アメリカン・ステーツマン」特別取材版『ラ・フロンテェラ〔アメリカ=メキシコ国境地帯〕』中島弓子訳(弓立社、1989年)67頁-) 。アメリカの側も、農業、製造業、サービス業、建設業などでの下層労働者に安い労働力が必要で、合法・不法移民を受け入れてきた基盤がある。近年はさらに、新自由主義グローバリゼーションの中で、価格競争から、不法移民の安い労働力をアメリカの産業界が求めていること、またラテンアメリカの側でも経済が停滞し、失業率が急増した結果、アメリカに職をもとめる人々が急増した。つまり、ラテンアメリカにとってアメリカへの移民問題は、もともと経済問題なのである。
 
 しかし、キューバの場合には、移民問題は次のように性格が歴史的に変化する。①1959年1月1日、反バチスタ独裁闘争が勝利したとき、バチスタ政権で国民の弾圧に携わったものが数百名在キューバ大使館に亡命したり、マイアミに急遽亡命したケースは明らかに「政治亡命」である。②しかし、その後は、キューバで生命を脅かされるような弾圧は革命政権によって行われず、革命直後の亡命者たちは、「革命体制忌避の海外移住」である。③その後、革命体制が定着した後の73年からは、海外での「より良い生活を希望する経済移住」である。④さらに、特に野球や、ボクシングなどのスポーツ選手、著名なミュージシャンが高額の契約金と収入保証により移住するのは、「商業移住」である。 

 いずれにせよ、キューバ革命が進行する過程で、急進的な社会改革に反対する富裕層が出国したこと、アメリカとキューバの対立の構図の中で、アメリカ政府が、「キューバ地位特別法」で不法入国キューバ人を1966年から「政治亡命者」として扱い、身体の一部がアメリカ領土に触れれば滞在を許可し、さらには1年後永住ビザを取得できるという、他のラテンアメリカの国民にはない優遇措置を取ったので、本来、経済的動機から起きた問題が、政治問題に性格が変わってしまったこと、歴代のアメリカ政権や在米の亡命キューバ人の極右ブループが、カストロ政権打倒のために、社会不安を引き起こす手段として大量出国を煽ったことなどから、他のラテンアメリカ諸国とは違った複雑な問題となっている。

 アメリカへのキューバ人の移住の後を辿ってみると、革命勝利直後の59年~62年までに主として社会改革に不満をもつ人々、約15万3000人が、通常商業航空路を使用してアメリカに向かって移住した。

 62年のミサイル危機以後、65年までアメリカ キューバ間の商業航空路が廃止された結果、非公式なルートで、しかしほとんどが合法的に約3万名がアメリカに移住した。

 65年以降73年まで、ジョンソン・ニクソン政権下でバラデロ―マイアミの航空路が常設化されて、この期間に約27万名が合法的にアメリカに移住した。

 73年再度航空路が中断され、79年までにスペイン経由で約2万1千人がアメリカに移住した。79年までに合計約47万4千人がアメリカに移住したが、ほとんどは合法的な移住であった。

 80年にはマリエル大量出国事件が発生し、同年4月から9月までの間に12万5千人が、キューバ政府の承認の下にアメリカに向かって出国した。その結果、両国は、1984年移民協定を締結し、アメリカは毎年2万人のキューバ人を受け入れることを合意した(Max Azicri, Cuba: Politics, Economic and Society, Pinter Publishers, London, 1988, pp.64-68.)。この協定は、アメリカが85年に反キューバ・ラジオ放送を開始したことから、キューバ側によって中断されたが、87年協定を再開することで双方は合意した。しかし、アメリカ政府は、その後、94年までに16万人の受入れ枠のなかで、わずか7%にあたる1万1222の入国を許可しただけであった(Fidel Castro, Comparecencia televisia, Granma, 20 de agosto de 1994.) 。

 90年にソ連・東欧諸国の旧体制の経済困難の影響を甚大に受けて、キューバは、『平和時の非常時』を宣言した。それ以降、アメリカが受入れ枠を実施しないこともあり、経済困難を反映して、非合法の出国=亡命が増加した(それでもその数は、年間数千名以下であった)。そして、94年8月、一層悪化した経済困難に乗じて、再び大量出国事件が発生し、キューバ政府の承認のもとに3万5千人が亡命した。

  しかし、アメリカへの大量キューバ人の移住は、ヒスパニックの移住問題を抱えるアメリカにとっても得策でなく、同年九月に両国は、新しい移民協定を締結し、両国は、不法入国の禁止と、アメリカが年間20,000人以上のキューバ人の移民を受け入れること、海上で捕捉された不法移民は帰還されること、キューバ側は、帰還者を処罰せず、不法出国を取り締まることで合意した。一方キューバ政府も、94年には合法的な移民年齢を16歳に引き下げた。その結果、キューバ人のアメリカへの非合法入国は、大幅に減少した。

 革命後の47年間でアメリカに移住したキューバ人は、06年までで95万人以上にのぼるが、90%以上は、合法的か、両国の承認のもとに移住した移民であり、亡命ではない。

 現在は、アメリカに移住を希望するキューバ人は、ハバナにあるアメリカの利益代表部(アメリカ=キューバ間には国交がないので大使館はない)に移住申請を提出すれば、時間はかかるが移住できることになっている。

 01年7月のアトランタ・オリンピックを目前にしたボクサーやアローホなどの野球選手の亡命事件は、こうした文脈で考えなければならない問題である。つまりアメリカへの合法的な移民の道が開かれている時に、しかもアトランタ・オリンピックへの代表選手として選出された後に「亡命」したのである。そこには、個人の経済的動機を利用して亡命を誘発することによって、キューバの威信を世界の前で失墜させようとした政治的意図が仕組まれていたといわれる。そうした亡命の手引きを行った人物が、得意然としてアメリカのテレビのインタビューに出たりもしている。カストロ議長が、オリンピック選手の結団式において、こうした行動を「裏切り行為」と強い口調で非難したのも、国民の怒りを代表したものであった。

 これまでにもキューバの代表的な野球選手が、日本に滞在したときもこうしたフィクサーから働きがあったといわれている。しかし、ほとんどの選手は、決然とこうした誘いを断っている。オリンピック直前のボクサーの亡命行為に、日本のスポーツ新聞でさえも、「国を捨て、魂を売った」と見出しを掲げて報道したほどである。同年10月には、野球選手の亡命に関与した選手三名が、キューバ球界において出場停止という厳しい処分を受けた。亡命問題は、キューバ問題の中でも、非常に複雑な側面をもった問題である。

 近年、ブッシュ政権は、キューバ経済が困難の度合いを深めると、年間2万人以上の移住許可を一時的に遅滞させ、国内に不満を高まらせ不法移住を奨励する態度を取ってきた。いずれにせよ、合法・非合法で年間3万人以上のキューバ人が海外に(特に米国に)移住している。キューバ人地位調整法の廃止と、その上に立った新たな移住協定の締結求められる。

キューバ人地位調整法(法律89-732) 1966日11月2日発効
1959年1月1日以降にアメリカに在住することを許可されたすべてのキューバ人、1年以上アメリカ領土に居住するキューバ人は、司法長官に申請することによって、永住ビザあるいは米市民権得て、永住することができる。この法律は、申請人の妻子にも適用される。

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