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2009年1月

2009年1月31日 (土)

米国に収監中の5名のキューバ人政治囚の問題について

米国に収監中の5名のキューバ人政治囚の問題について

1998年「スパイ容疑」で逮捕され、現在米国の各地に収監中のキューバ人5名の裁判が、近く米国の最高裁判所で審理される予定です。この問題を考える資料として、下記に問題の概要を紹介します。

まず、本件は、いわゆる冤罪事件(完全無罪のでっち上げ事件)ではありません。告訴内容にはIDカードの偽造、外国情報機関のエージェントあることの事前の報告義務(これは、奇妙な内容としても法は法で存在しています)の違反など、確かに5名は米国内法に違反する行為を犯しています。そのことを、逮捕時に5人とも検事に対してこの罪を認めています。

しかし、これらはいわば微罪であり、1998年からの10年間の長期拘留を正当化するものではありません。10年間の拘留の理由とされている米国の国家安全保障に関する情報の漏洩については、被告側はそういう要件を構成しないと反論しています。事実を審査すると大きな疑問があります。この点は不当な裁判結果といってよいでしょう。また、マイアミで裁判を行うなど、裁判のあり方も公正でないことが指摘されています。

昨年12月17日、ラウル議長は、オバマ次期政権との関係改善のための行動として、キューバ国内の200余名の政治囚とマイアミで長期収監中の5名のキューバ人との交換を申し出ました。米国政府は、即座にこれを拒否しました。しかし、この提案には法的側面からすれば複雑な問題が含まれており、釈放の可能性は見られません。この問題は、双方が政治的な要素を絡めないで、純法律的に処理し、即座に釈放することが求めらます。

▽突然5名がスパイ容疑で逮捕される

ヘラルド・エルナンデス・ノルデロ、ラモン・ラバニーニョ・サラサール、フェルナンド・ゴンサーレス・ジョル、レネ・ゴンサーレス・シワラート、アントニオ・ゲレーロ・ロドリゲスの5名は、1998年9月12日、突然マイアミでFBIによって逮捕され、拘留されました。実は、同年7月キューバ内務省は、ハバナで開催された米連邦調査局との会議で、マイアミでキューバの破壊活動の準備が行われていることについて詳細な資料と提供しており、それが逆に使用されたのでした。

 98年9月15日、5名の当初の起訴容疑は、破壊謀議、スパイ謀議、外国諜報機関のエージェント隠蔽、IDカード偽造というものでした。5名とも検察に対して、外国諜報機関のエージェントであることは認めましたが(Rodolfo Dávalos Fernández, Estados Unidos VS. Cinco Héroes, Editorial Capitán San Luis, La Habana, 2005, p.6)、米国に対する国家機密の諜報活動は否定しました。しかし、翌年99年5月、検事側は突然ヘラルドを「殺人謀議」で告発しました。

実は、3年以上も前の96年2月24日、マイアミの亡命キューバ人過激派組織「エルマーノス・アル・レスカーテ(救援のための兄弟)」の民間機4機が、事前のキューバ側の度重なる警告にもかかわらず、キューバ領空を侵犯し、そのうち2機がキューバ空軍機により撃墜され、4名が死亡するという事件がありました。ヘラルドの容疑は、彼が「救援のための兄弟」の飛行計画をキューバ諜報機関に通報したというものでした。

▽不当な裁判指揮

その後、5名は、2000年2月3日まで17ヶ月間、独房(懲罰房)に収監されるという異常な処置を受けました。一般には、懲罰房は、服役態度が刑務所の規則に著しく違反した場合、それも最長60日とされています。5名は照明がほとんどない懲罰房に収監の間、弁護士や家族との面会や通信が制限されたり、不当な扱いを受けています。

2001年6月8日、フロリダの連邦裁判所法廷で12人の陪審員は、5名を有罪と認めました。しかし、陪審員の多くはマイアミいる全米キューバ系アメリカ人財団(CANF)、アルファ66、コマンドF-4などの亡命キューバ人過激派組織の近くに居住しており、かれらの圧力を受けています。また陪審員の選定の過程で、アメリカの対キューバ経済封鎖について賛成かどうかという、事件とは直接関係のない問題が選定の基準とされるという不当な運営が行われました。2001年12月11日-18日、レナード判事は、5名に次のような判決を下しました。

▽5名の容疑と判決

ヘラルド・エルナンデス・ノルデロ:1965年ハバナ生まれ、キューバ外務省国際関係大学卒業。容疑:殺人謀議、スパイ謀議、外国諜報機関のエージェント隠蔽、IDカード偽造。判決:2期分無期懲役+懲役15年。
ラモン・ラバニーニョ・サラサール:1963年ハバナ生まれ、ハバナ大学経済学部卒。容疑:破壊謀議、外国諜報機関のエージェント隠蔽、スパイ謀議、IDカード偽造。判決:無期懲役+懲役18年。
フェルナンド・ゴンサーレス・ジョル:1963年ハバナ生まれ、キューバ外務省国際関係大学卒業。容疑:破壊謀議、外国諜報機関のエージェント隠蔽、IDカード偽造。判決:懲役19年。
レネ・ゴンサーレス・シワラート(アメリカ国籍を所有):1956年シカゴ生まれ、パイロット、飛行機操縦インストラクター。容疑:破壊謀議、外国諜報機関のエージェント隠蔽。判決:懲役15年。
アントニオ・ゲレーロ・ロドリゲス(アメリカ国籍を所有):1958年マイアミ生まれ、ソ連のキエフ工科大学飛行場建設工学科卒業。容疑:破壊謀議、スパイ謀議、外国諜報機関のエージェント隠蔽。判決:無期懲役+懲役10年。

▽5名は容疑を否定し、控訴

5名は、ジョーン・レナール、マイアミ連邦裁判所判事に、マイアミでは、検事、陪審員、弁護側証人が亡命キューバ人過激派諸組織からいろいろな圧力を受けるので、裁判を行う場所としては不適切だとして、マイアミ以外での裁判を要求していますが、レナール判事は、これを拒否しています。また、同判事は、弁護士に検事側提出の証拠類の閲覧を許可しなかったり、あるいは書類の部分的閲覧しか認めないという不公正な裁判指揮を行っています。他方で、検事側により、裁判書類の一部が、過激派キューバ系アメリカ人グループに漏洩され政治宣伝の材料にされるという異常なことも起きています。

5名は、殺人謀議、破壊謀議、スパイ謀議、アメリカの軍事基地への侵入を全面的に否定し、90年代初めにキューバからアメリカに派遣されたのは、アメリカの過激派による対キューバテロ活動についての情報を事前に入手し、キューバ側がそれを防ぐ体制をとることによって、テロ活動を避け、両国の関係の悪化を防ぐ目的であったと反論しています。また、5名は、もはやキューバは、アメリカの安全保障にとって脅威とはなっていないという、元米南方軍司令官チャールズ・ウイルヘルム将軍やクリントン政権のキューバ担当補佐官リチャード・ヌシオ氏などの証言からも、アメリカの安全保障を脅かす情報を手に入れる必要がないと弁論するととともに、誰をも殺傷していないことは明白であると主張しています。5名は、近く、最高裁判所で審理される予定です。

▽問題の核心

この逮捕・裁判については、次の点を銘記する必要があると思われます。
1. この背景に、キューバの民族自決権を認めない、アメリカの対キューバ敵視政策、テロ政策が行われているという状況があること。キューバでは、アメリカの破壊テロ工作によって、革命勝利後42年間で3478人が死亡、2099人が負傷しています。細菌テロでは、344,203人が被害、158人が死亡したと報告されています。カストロ議長への暗殺未遂テロは、637件に上ると言われています。したがって、何よりも、アメリカのキューバ干渉政策を一日も早く止めさせなければなりません。

2. キューバがもはやアメリカの安全保障にとって脅威ではないということは、アメリカの少なくない元高級軍幹部や議員によっても主張されています。さらに5名がアメリカの安全保障に関わる情報を漏洩したことは、証明されていません。

3. マイアミという亡命キューバ人の過激派の諸組織が存在している場所で裁判が強行されていることをはじめ、今回の一連の裁判指揮には、多くの不公正がみられること。
4. 未決の5名の拘留者に対する非道な人権侵害が行なわれていること。

 以上の点から、5名に対する正当な裁判が行わなければならないと思われます。

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2009年1月30日 (金)

米玖関係の改善は、何を基礎とするか?

米玖関係の改善は、何を基礎とするか?

 カストロ前議長が、1月29日の省察、「米国新大統領の思考を読み解く」で、オバマ大統領の政策を論評した。同省察は、「オバマ大統領が、キューバにあるグアンタナモ米海軍基地内の収用所を廃止することを決定したあと、同基地のキューバへの返還には、米国の防衛能力にどう影響するかを検討しなければならない。さらに、返還に対応してキューバ側もどういう譲歩を行うかも考慮しなければならない」と述べたことを原則に関わる問題として、厳しく非難した。

 また、カストロ前議長は、「キューバ国民の意思に反して維持されている軍事基地に居座ることは、国際法に違反するうえ、キューバが半世紀もたたかって勝ち取った政治制度の変革を要求するのは、キューバの主権の無視であり、小国への大国の権利の濫用である」と批判した。

 さらに、「その外交政策は、就任直後の22日に米国の主要な同盟国である核保有国イスラエルを中東問題に関して断固として支持することを表明したことに現れているように、ブッシュ政権の政策を踏襲するものである」と結論付けている。
 
 オバマ大統領の就任後、キューバ政権の高官が、外交的に慎重に発言していることをもって、一般のマスコミは、キューバ側が、オバマ政権の「チェンジ」を期待しているかのように報道してきたが、筆者がこれまでこのブログで指摘してきたように、米玖関係を理解する鍵は、米国のどのような政権であれ、キューバの主権を尊重し、対等、平等、互恵、相互尊重の立場に立ったときにはじめて、関係が修復し、発展するものであることを見失ってはならない。こうした考え方が「チェンジ」しなければ、米国は、当面、軍事的にはラテンアメリカで超大国として君臨し続けうるかもしれないが、政治的にはラテンアメリカでの孤立は深まるばかりであろう。

 キューバも、ベネズエラも、ラテンアメリカの国々も、「反米」ではないのであり、単に当然の自主的な立場を取ろうとしているだけである。現在のラテンアメリカ諸国の自立の動きを「反米大陸」と捉えるのは、ラテンアメリカを「裏庭」と見なす考え方の裏返しである。

興味のある方は、カストロ前議長の省察を参照。

「09.01.29 Descifrando el pensamiento de Obama.doc」をダウンロード


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2009年1月29日 (木)

キューバ、移民と亡命

キューバ、移民と亡命 
 ラテンアメリカの国々の国民にとって、北の大国、アメリカ合衆国への移民問題は、複
雑な要素をもっている。経済水準、生活水準で7~8倍から20~30倍も高いアメリカに一攫千金の夢を抱いて出稼ぎにいき、故郷に錦を飾ろうとラテンアメリカの人々が考えるのは当然のことである。日本と近隣のアジア諸国との関係と同様である。水の流れとは逆に、生活水準の低い国から高い国に、仕事を求め、お金を求めて人が流れていくのは避けられない現象である。

 経済先進諸国が、後進諸国からの就労目的の入国を制限すれば、不法入国が大量に行われる。メキシコからアメリカへの不法入国者は、逮捕されるだけでも年間数十万人にのぼる。逮捕されずに入国するものは年間120万人以上と推定されている( 「オースティン・アメリカン・ステーツマン」特別取材版『ラ・フロンテェラ〔アメリカ=メキシコ国境地帯〕』中島弓子訳(弓立社、1989年)67頁-) 。アメリカの側も、農業、製造業、サービス業、建設業などでの下層労働者に安い労働力が必要で、合法・不法移民を受け入れてきた基盤がある。近年はさらに、新自由主義グローバリゼーションの中で、価格競争から、不法移民の安い労働力をアメリカの産業界が求めていること、またラテンアメリカの側でも経済が停滞し、失業率が急増した結果、アメリカに職をもとめる人々が急増した。つまり、ラテンアメリカにとってアメリカへの移民問題は、もともと経済問題なのである。
 
 しかし、キューバの場合には、移民問題は次のように性格が歴史的に変化する。①1959年1月1日、反バチスタ独裁闘争が勝利したとき、バチスタ政権で国民の弾圧に携わったものが数百名在キューバ大使館に亡命したり、マイアミに急遽亡命したケースは明らかに「政治亡命」である。②しかし、その後は、キューバで生命を脅かされるような弾圧は革命政権によって行われず、革命直後の亡命者たちは、「革命体制忌避の海外移住」である。③その後、革命体制が定着した後の73年からは、海外での「より良い生活を希望する経済移住」である。④さらに、特に野球や、ボクシングなどのスポーツ選手、著名なミュージシャンが高額の契約金と収入保証により移住するのは、「商業移住」である。 

 いずれにせよ、キューバ革命が進行する過程で、急進的な社会改革に反対する富裕層が出国したこと、アメリカとキューバの対立の構図の中で、アメリカ政府が、「キューバ地位特別法」で不法入国キューバ人を1966年から「政治亡命者」として扱い、身体の一部がアメリカ領土に触れれば滞在を許可し、さらには1年後永住ビザを取得できるという、他のラテンアメリカの国民にはない優遇措置を取ったので、本来、経済的動機から起きた問題が、政治問題に性格が変わってしまったこと、歴代のアメリカ政権や在米の亡命キューバ人の極右ブループが、カストロ政権打倒のために、社会不安を引き起こす手段として大量出国を煽ったことなどから、他のラテンアメリカ諸国とは違った複雑な問題となっている。

 アメリカへのキューバ人の移住の後を辿ってみると、革命勝利直後の59年~62年までに主として社会改革に不満をもつ人々、約15万3000人が、通常商業航空路を使用してアメリカに向かって移住した。

 62年のミサイル危機以後、65年までアメリカ キューバ間の商業航空路が廃止された結果、非公式なルートで、しかしほとんどが合法的に約3万名がアメリカに移住した。

 65年以降73年まで、ジョンソン・ニクソン政権下でバラデロ―マイアミの航空路が常設化されて、この期間に約27万名が合法的にアメリカに移住した。

 73年再度航空路が中断され、79年までにスペイン経由で約2万1千人がアメリカに移住した。79年までに合計約47万4千人がアメリカに移住したが、ほとんどは合法的な移住であった。

 80年にはマリエル大量出国事件が発生し、同年4月から9月までの間に12万5千人が、キューバ政府の承認の下にアメリカに向かって出国した。その結果、両国は、1984年移民協定を締結し、アメリカは毎年2万人のキューバ人を受け入れることを合意した(Max Azicri, Cuba: Politics, Economic and Society, Pinter Publishers, London, 1988, pp.64-68.)。この協定は、アメリカが85年に反キューバ・ラジオ放送を開始したことから、キューバ側によって中断されたが、87年協定を再開することで双方は合意した。しかし、アメリカ政府は、その後、94年までに16万人の受入れ枠のなかで、わずか7%にあたる1万1222の入国を許可しただけであった(Fidel Castro, Comparecencia televisia, Granma, 20 de agosto de 1994.) 。

 90年にソ連・東欧諸国の旧体制の経済困難の影響を甚大に受けて、キューバは、『平和時の非常時』を宣言した。それ以降、アメリカが受入れ枠を実施しないこともあり、経済困難を反映して、非合法の出国=亡命が増加した(それでもその数は、年間数千名以下であった)。そして、94年8月、一層悪化した経済困難に乗じて、再び大量出国事件が発生し、キューバ政府の承認のもとに3万5千人が亡命した。

  しかし、アメリカへの大量キューバ人の移住は、ヒスパニックの移住問題を抱えるアメリカにとっても得策でなく、同年九月に両国は、新しい移民協定を締結し、両国は、不法入国の禁止と、アメリカが年間20,000人以上のキューバ人の移民を受け入れること、海上で捕捉された不法移民は帰還されること、キューバ側は、帰還者を処罰せず、不法出国を取り締まることで合意した。一方キューバ政府も、94年には合法的な移民年齢を16歳に引き下げた。その結果、キューバ人のアメリカへの非合法入国は、大幅に減少した。

 革命後の47年間でアメリカに移住したキューバ人は、06年までで95万人以上にのぼるが、90%以上は、合法的か、両国の承認のもとに移住した移民であり、亡命ではない。

 現在は、アメリカに移住を希望するキューバ人は、ハバナにあるアメリカの利益代表部(アメリカ=キューバ間には国交がないので大使館はない)に移住申請を提出すれば、時間はかかるが移住できることになっている。

 01年7月のアトランタ・オリンピックを目前にしたボクサーやアローホなどの野球選手の亡命事件は、こうした文脈で考えなければならない問題である。つまりアメリカへの合法的な移民の道が開かれている時に、しかもアトランタ・オリンピックへの代表選手として選出された後に「亡命」したのである。そこには、個人の経済的動機を利用して亡命を誘発することによって、キューバの威信を世界の前で失墜させようとした政治的意図が仕組まれていたといわれる。そうした亡命の手引きを行った人物が、得意然としてアメリカのテレビのインタビューに出たりもしている。カストロ議長が、オリンピック選手の結団式において、こうした行動を「裏切り行為」と強い口調で非難したのも、国民の怒りを代表したものであった。

 これまでにもキューバの代表的な野球選手が、日本に滞在したときもこうしたフィクサーから働きがあったといわれている。しかし、ほとんどの選手は、決然とこうした誘いを断っている。オリンピック直前のボクサーの亡命行為に、日本のスポーツ新聞でさえも、「国を捨て、魂を売った」と見出しを掲げて報道したほどである。同年10月には、野球選手の亡命に関与した選手三名が、キューバ球界において出場停止という厳しい処分を受けた。亡命問題は、キューバ問題の中でも、非常に複雑な側面をもった問題である。

 近年、ブッシュ政権は、キューバ経済が困難の度合いを深めると、年間2万人以上の移住許可を一時的に遅滞させ、国内に不満を高まらせ不法移住を奨励する態度を取ってきた。いずれにせよ、合法・非合法で年間3万人以上のキューバ人が海外に(特に米国に)移住している。キューバ人地位調整法の廃止と、その上に立った新たな移住協定の締結求められる。

キューバ人地位調整法(法律89-732) 1966日11月2日発効
1959年1月1日以降にアメリカに在住することを許可されたすべてのキューバ人、1年以上アメリカ領土に居住するキューバ人は、司法長官に申請することによって、永住ビザあるいは米市民権得て、永住することができる。この法律は、申請人の妻子にも適用される。

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2009年1月26日 (月)

国際テロリスト、ポサーダ・カリーレスの罪状

ポサーダ・カリーレスの罪状

 1976年のキューバ航空機爆破事件、2000年のカストロ議長暗殺未遂事件などの首謀者、ポサーダ・カリーレスは、数々のテロ行為を実行した国際テロリストとして、その犯罪を裁くよう、米国のニューヨーク・タイムズなどのマスメディア、キューバ、ベネズエラ、メルコスルなどのラテンアメリカ諸国によって要求されていますが、2007年4月ブッシュ政権は彼を釈放しました。

マイアミを歩き回るポサーダ
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 「テロリストをかくまうも者は、テロリストと同罪である」と、ブッシュ前米大統領は述べました。このドクトリンによって、ブッシュ政権は、世界の国々にテロリスト容疑者の迅速な引渡しを要求しました。

 それなら、と米国の代表的な良心的知識人であるノーム・チョムスキー教授はいいます。
「ポサーダが、キューバ航空機爆破事件の首謀者であることははっきりしており、ベネズエラ政府の要求を無視して、引渡しを拒否するのは、ブッシュ政権はシングル・スタンダードである」と厳しく批判しています。チョムスキー教授は、ダブル・スタンダード(二重基準)というのは誤解を招きかねない言葉ゆえ、それぞれのケースで都合よく使い分けるシングル・スタンダード(個別の基準)と呼ぶべきであると主張しています。

 呼び方はともかく、この問題は、米国のテロ対策への誠実な態度が鋭く問われている問題です。ベネズエラ政府は、発足したオバマ新政権に、ポサーダの引渡しを近く要求すると述べています。ラテンアメリカの国々は、こぞってポサーダのベネズエラ政府への引渡しを支持しています。オバマ大統領のラテンアメリカ政策の真価が問われる問題です。

参考資料として、ポサーダ・カリーレスの罪状を紹介します。
「09.01.26 Posada Carriles.doc」をダウンロード

また、興味がある方は、2007年5月3日、米国国家安全保障アーカイブで公開された文書もご覧ください。

「07.05.04 Posada Carriles Desclassified Documents by National Security Archive.doc」をダウンロード

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2009年1月25日 (日)

1月28日、キューバの独立の父、ホセ・マルティの生誕156年を迎える

1月28日、キューバの独立の父、ホセ・マルティの生誕156年を迎えます。この機会にホセ・マルティとはどういう人物だったのか紹介しましょう。

別添の資料をご参照ください。

「jose_marti.doc」をダウンロード


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2009年1月24日 (土)

フィデルの健康状態とオバマ政権についてのキューバ側の見方

フィデルの健康状態とオバマ政権についてのキューバ側の見方

本ブログでは、キューバのニュースを逐一知らせるものでなく、一定の時間が経過した事象を分析・研究するものであるが、フィデルの健康状態とオバマ政権についてのキューバ側の見方については、関心も深いこともあり、現在の状況を紹介しよう。以前にも述べたが、憶測や噂に基づいたニュースを扱うつもりはなく、正式機関で発表された、いわば一次史料(資料)をもって説明するのが筆者の方針である。

1)フィデルの健康状態
① 1月21日、フィデルは、クリスティーナ・フェルナンデス大統領と40分会談した(フィデルの省察「クリスティーナとの会見」Granma, 09.01.22)。なお、この会見の写真は、1月22日、アレハンドロ・ゴンサーレス外務次官が特別使者としてベネズエラに派遣され、チャベス大統領との夕食会の席上、クリスティーナ大統領に手渡された(Juventud Rebelde 09.01.23)。

グランマ紙掲載の写真。
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② クリスティーナ、「フィデルは元気ですよ」とのべる(Granma, 09.01.22)。「フィデルは、紳士として、立って出迎えてくれました」(AP, 09.01.22)。(岡注:病床ではなかったの意味)。

③ ラウル議長、「フィデルは、クリスティーナ大統領としばらく話し合った。元気だ。体操を行い、いろいろ思索をめぐらし、多くの文書を読み、私に参考意見をいってくれ、協力してくれている」(Granma, 09.01.22)。

④ ラウル、新聞記者たちに「あなたがたは、もしフィデルが重病だとすれば、私がにこにこしていると思うかね。近くヨーロッパを訪問する。あなたがたは、もしフィデルが重病であったら、私がキューバを空けることができると思うかね。フィデルの健康については、噂を書くのをやめてほしい」とのべる」(La Jornada, 09.01.22)。
(岡注:ラウルの訪ロは、1月31日に行われる(Novosti, 09.01.23)。

⑤ フィデルは、省察「11人目の米国大統領」で、「今後、党や政府の同志の仕事への干渉となったり、邪魔となったりしないように、このところの省察は短く書いている。しかし、同志は、私の時折の省察、私の重病や死亡に縛られないでほしい。これまで長い間、いろいろ重大事件を見てきて、考察してきたが、オバマ大統領が任期を終える4年後には、そうした機会に恵まれないかもしれないとも思う」と述べた(Granma, 09.01.22)。

2)キューバ政府のオバマ新政権の見方
じつは、オバマ大統領は、就任式の2日前にベネズエラの保守系テレビ局「ビシオン」とインタビューを行い、「チャベスは、ラテンアメリカの進歩を阻害している。ベネズエラはテロ活動を輸出しており、FARC(コロンビア革命軍、コロンビアの反政府武装勢力)を支援している」とチャベス政権を厳しく批判した(岡注:チャベス大統領はFARCを支持しないことを公式に認めている)。

同時にキューバについては、「旅行と送金の制限を緩和する用意がある。しかし、経済封鎖は解除しない。ラウル・カストロ政府が、キューバで個人の自由を改善する用意があるならば、対話する」と、キューバとの対話に「人権問題の改善」という条件をつけた(EFE, 09.01.19)。なお、キューバ側は、当然のことながら、対話は双方が無条件で行わなければならないとう原則を繰り返し述べている(本ブログ、1月17日「フィデル・カストロ前議長の健康と米玖関係」参照)。

さて、オバマ大統領の就任式のあと、キューバ政府首脳陣はどう述べたか。

① キューバのマスコミではキューバ共産主義青年共産同盟機関紙、Juventud Rebelde紙のみが電子版でオバマ演説全文を掲載。他は、簡潔な客観的な報道記事であった(09.01.20)。

② アラルコン国会議長(キューバの対米交渉の責任者)、「演説は、大変興味あった。良くできている。なかなかの演説家だ。今後の政策はいろいろな疑問がある」と述べる(La Jornada, 09.01.21)。

③ フィデル、1月21日、省察『クリスティーナとの会見』を執筆し、「オバマが正直な人物であることは疑いをもっていないと前に述べたが、演説を聴いていていろいろな疑問が湧いた。例えば、あれほどの浪費・消費社会でどうやって環境を維持するのであろうか」と述べる(Granma, 09.01.22)。

④ ラウル議長は、「良い人物のように思える。成功を期待している」と述べた(La Jornada, 09.01.22)。

⑤ ラウル議長は、「グアンタナモ収容所の閉鎖をわれわれは要求してきたが、それだけでは不十分で、グアンタナモ基地のキューバへの返還こそ、キューバが望むものである。現在は、軍事的にもこの基地は意味がない」とのべた(Tass, 09.01.22)

⑥ フィデルは、省察「11人目の米国大統領」で、「オバマが米国を自由のモデルの国の変えること、世界の人権の尊重、各国の独立の尊重を確認したとき、だれもその真摯さを疑うことはできないだろう。しかし、まだオバマは重要な問題と対面したわけではない。近いうちに、その手にある巨大な権力が、体制と対立する解決不可能な矛盾を克服するためにはまったく役に立たないとき、オバマはどうするだろうか」と根本的な疑問を提起している(Granma, 09.01.23)

こうしたキューバ政府首脳陣の発言、コメントは、オバマ大統領の「ビシオン」とのインタビューを考えると、非常に抑制されたものである。以前に「本ブログ、1月17日フィデル・カストロ前議長の健康と米玖関係」でも述べたが、キューバ側の原則的立場ははっきりしている。国際的な常識である、無条件、対等、平等、相互尊重の原則に基づいた対話である。原則がはっきりしていることから、過度の期待も、過度の敵意もなく、冷静な態度で、オバマ政権の具体的政策を見てみよう、それまではあえて論評する必要もないというものである。

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2009年1月23日 (金)

オバマ新大統領によるグアンタナモ収用所の閉鎖について

オバマ新大統領によるグアンタナモ収用所の閉鎖について

オバマ大統領は、22日、米海軍基地グアンタナモ基地内にある収用所を閉鎖する行政指令書に署名しました。しかし、これは、グアンタナモ海軍基地を閉鎖することではありませんので、早とちりしないように。

キューバ側は、これは米国の内政政策で、捕虜拷問などについての国際的な批判からしても当然の行為とみなし、対キューバ外交政策の転換とは見ていません。ラウル議長は、1月22日ロシアのタス通信との独占インタビューで、「それだけでは不十分で、グアンタナモ基地のキューバへの返還こそ、キューバが望むものである。現在は、軍事的にもこの基地は意味がない」と、キューバの歴史的な原則的立場を表明しています。

なお、グアンタナモ基地については、このブログ内の「グアンタナモ基地」を参照ください。

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キューバ革命を理解するための3つの表現

キューバ革命を理解するための3つの表現

キューバ史、キューバ革命、キューバ社会、キューバ人を理解するために、外国人が述べたキューバ社会・文化についての表現の中で、筆者が言い当てて妙と感じているものを3つ紹介しよう。それらは、次のものである。キューバ問題を考える際のご参考になればと思う。

キューバ人は、届かないとすれば、行き過ぎてしまう
―マキシモ・ゴメス・バエス将軍

キューバを説明すれば、フィデルが政府首班であると同時に、反対のリーダーでもあるということだ
―ガブリエル・ガルシア・マルケス (Intervención de Felipe Pérez Loque, Granma, Diciembre 30, 2005)

キューバの経済政策は、常に試行錯誤=対症療法的に行われてきた
―岡部廣治教授 (1929-)(「キューバ社会主義は生き残れるか」『週刊東洋経済』臨時増刊号、1991年3月29日号)

①のマキシモ・ゴメス・バエス将軍(1836-1905)は、ドミニカ共和国出身。ドミニカでスペインの植民地支配に反対して戦い、1865年キューバのサンチャゴに移住、そこでスペインの過酷な植民地支配、奴隷制の搾取をみて、1868年キューバ人とともにスペイン支配に反対して第一次独立闘争に参加した。独立運動が一時的に退潮した1878年、ゴメスはキューバを去ってジャマイカに移った。その後、1892年ホセ・マルティから新たな独立闘争への協力を要請され、軍最高司令官に任命されて、第二次独立戦争にも参加。マルティやアントニオ・マセオの死後も戦いを継続した。キューバで最も人気の高かった人物であったが、1901年の初代大統領選には出馬せず、一市民としてキューバで家族と共に生活し、生涯を終えた。

②のガブリエル・ガルシア・マルケス(1927-)は、コロンビア生まれ。コロンビアで新聞記者として働いていたが、キューバ革命勝利直後の1960年、キューバに渡り、新設された通信社、プレンサ・ラティーナの記者となる。1961年にメキシコに移住し、1967年「百年の孤独」(新潮社より翻訳刊行)を出版、ラテンアメリカを初め、世界的な大ベストセラーとなった。1960年代初めよりキューバ映画の脚本なども執筆、1986年よりハバナを本部とする新ラテンアメリカ映画協会会長を務める。1982年ノーベル文学賞を受賞。フィデル・カストロとも親交を結び、訪玖のたびに交友を温めている。

③の岡部廣治教授は、キューバを初め、ラテンアメリカ史を幅広く研究している歴史家の泰斗。史的唯物論の立場にたった分析は客観的で正確、かつ包括的で、その研究は高く評価されている。元津田塾大教授。日本キューバ友好協会元理事長。著書に『ラテンアメリカ経済発展論』(アジア経済研究所)、『たたかうニカラグア』(新日本出版社)、『ラテンアメリカの世界』(大月書店)、翻訳書にフィデル・カストロ著『カストロの提言』(ほるぷ出版)、コルトマン著『フィデル・カストロ』(大月書店)他あり、論文はキューバ、ラテンアメリカについて多数。

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2009年1月22日 (木)

研究・報道の方法について

研究・報道の方法について

本ブログでは、コメント・批評は、各研究者の研究内容が対象ですので、原則として実名を挙げることはさける方針ですが、吉田太郎さんがブログ「キューバ有機農業」http://pub.ne.jp/cubaorganic/で率直な反省を述べていますので、ここではあえて吉田さんの名前を挙げて筆者の考えを述べることにします。

本ブログで、1月9日付け「キューバ、7つの神話(3)」、1月19日付け「ハバナ市では100%無農薬野菜で自給?」、1月20日付け「キューバの食料自給率は?」と小論を掲載してきましたが、誤解のないように申しておきますと、これらは、すべて吉田太郎さんの現在の見解を批判したものではありません。筆者が批判したのは、吉田さん以外の人々で現在こうした意見を述べている方々です。吉田さんは、だいぶ前から彼のブログ等で、彼の衝撃的な事実上のデビュー作「200万都市が有機野菜で自給できるわけ」(築地書館、2002年)の内容に不正確なところがあったことを認められおり、その上にたって現在は新たな認識をもたれています。研究者として、実に信頼に足る誠実な姿だと筆者は考えています。

もともと、絶対的真実に近づこうとして研究が解明した認識は相対的なものですが、実践によって吟味され、修正や批判をへて再吟味され、より高度の認識に進んでいくものです。私も、これまで少なからずの間違いを書いてきました。研究には避けられないことです。2-3の参考例をあげておきましょう。

エンゲルスは、マルクスが執筆した「フランスにおける階級闘争」(1850年)の出版後、45年経った1895年、同書の新版の序文で「われわれは1848年の2月革命の後、長期にわたるたたかいにより、労働者階級が最終的には勝利すると考えた。しかし、歴史に照らしてみて、われわれも謝っていたのであり、歴史は、当時のわれわれの見解が一つの幻想であったことを暴露したのだ。・・・1848年の闘争方法は、今日では、どの関係からも時代遅れとなっている」と厳しい自己批判の目を自分たちに向けています。

フィデル・カストロ首相(当時)も、65年から70年にかけて、国家予算の廃止、無料政策の拡大、農民にたいする貸付金の利子、税金の撤廃、賃金と生産目標との関係の廃止、時間外労働への賃金の支払いの停止、党と国家の機能の混同、労働組合・大衆組織の活動の低下、党中央委員会の機能の停止などを進めました。カストロは、その後、1975年に「われわれは、マルクス主義を理想的に解釈し、われわれ独自の方式を確立しようとした。(しかし、その結果)、われわれが、生産と分配の共産主義的形態に近づいているように思われたとき、実際はその前の段階の社会主義を建設するための正しい方式からも遠ざかっていたのである」と率直に自己批判を行っています(Informe del Comité Central del Partido Comunista de Cuba al I Congreso, Departamento de Orientación Revolucionaria del CC. del PCC, La Habana, pp.162-172)。

さらに、最近では、日本において90年代以降の新自由主義政策の旗頭役であった経済学者が構造改革の悲惨な結果(貧困率の急激な上昇など)をみて、「懺悔の書」を書いている一方、閣僚として構造改革を推進した学者は、「日本の貧困は定義がないうえ、今の日本の貧困は、アメリカやヨーロッパほど深刻ではない」と自らの責任は一顧だにしていません。前者の学者としての良心は、同氏の学問の今後の一層の発展を保障するもののように筆者には思えます。

さらに、インターネット時代の資料集めの方法も便利な中で、一定の陥穽もあることを理解しておかなければなりません。たとえば、「キューバ、有機農業」とキーワードを入れて検索すると、日本語でも英語でも、キューバの有機農業を賛美する報告が際限なくヒットします。逆に批判的な報告はほとんど出てきません。というのは、批判的な人は、一般にわざわざインターネットには主張をアップロードしないのです。すると、検索結果に、作業者は驚き、自らの仮説により確信を深めます。つまり、自らが一定の路線を引き、その中で都合の良い資料をかき集めることになりかねません。やはり、キューバの新聞、雑誌、書籍、聞き取り調査などの古典的な研究方法でしっかり補強・検証することが必要です。そして使用する史料(資料)批判も不可欠でしょう。

このように研究は、常に進歩するものですから、筆者が、吉田太郎さんの2002年時点の認識を今この時点で依然として繰り返し批判するなら、逆に筆者の知的怠慢でしょう。また同書の読者が、それをもとに現時点で有機農業を議論するのも、探求精神の不足といえるかもしれません。いわんや、テレビ局が、氏自らが問題点を指摘したことを無視して、自らの幻想に拘泥して作品を作り放送したのは、知的誠実性を疑われても仕方がないでしょう。最近憂慮されるのは、テレビ局が視聴率を稼ぐためか、センセーショナルな番組づくり、宣伝が目に付くことです。ドキュメンタリー、報道番組は、誇張表現や、甲高い声を上げなくとも、内容そのもので感動を与えるべきものではないでしょうか。

吉田太郎さんは、現時点では、キューバの有機農業を、苦悩するキューバ農業の全体の中に正確に位置づけ、様々な経済的・技術的困難の中で奮闘しているキューバの有機農業研究者、まだまだ少数とはいえ明確な有機農業の概念をもっている有機農業実践者の実態とその発展の可能性を、粘り強く探求されています。持ち前の研究対象への類まれな情熱と冷静な研究方法が融合されて、歴史の検証に耐えうる素晴らしい研究の花が開くものと期待しています。

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2009年1月21日 (水)

「歴史は私に無罪を宣告するであろう」の形成過程

フィデル・カストロ著「歴史は私に無罪を宣告するであろう」の形成過程

キューバ革命の原点を知るためには最も重要といわれる文献、フィデル・カストロの法廷陳述(「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と後に題された)は、どのように作られたのでしょうか。実は、現在私たちが読めるものは、最初の版とはかなり違ったものです。その形成過程をたどって見ましょう。

 1953年7月26日にサンティアゴのモンカダ兵営とバヤモのカルロス・マヌエル・デ・セスペデス兵営をフィデルたち153人の青年が襲撃しました。しかし、襲撃は失敗し、山中に逃げ込んだカストロは8月1日早朝、逮捕され投獄されました。10月16日、サンティアゴの市民病院の看護婦学校の一室に臨時に設けられた法廷で、フィデルだけ個別に裁判が行われました。

フィデル・カストロは、この裁判の際、自らが弁護士の役割を果たすことを主張しました。この時同志であるアベラルド・クレスポ被告の弁護士、バウディリオ・カステヤーノス、プール・カブレーラ被告の弁護士、マルシアル・ロドリゲスの弁護士二名が同席していました。裁判長が、カストロの主張を受け入れるが、再度弁護士をつける意思がないことを確認すると、カストロは、自らが弁護することを再度主張しました。結局、フィデルは自らの弁護を行いました。

この裁判の6人の記録係の中に、マルタ・ロハスがいました。彼女は、新聞記者養成学校を卒業したばかりで、雑誌「ボヘミア」の専属記者ではなく、内容が良ければ掲載するという契約記者でした。彼女は、自ら志願して、裁判傍聴の地方新聞記者のリストに入れてもらっていました。しかし、彼女がこの陳述を最初に発表したのではありません。彼女は、この裁判の経緯を1965年に「モンカダ裁判における不朽の世代」という題で出版しています。

「歴史は私に無罪を宣告するであろう」の陳述は、発表されたものは、カストロがピノス島の監獄に移されたあと、監獄の中で裁判の陳述をもとに手をいれ、次第に現在の形にして、それが少しずつ持ち出され、1954年6月には文書の編集が終了しました。10月11日にはハバナ市の小さな印刷所が警察に察知されていることがわかりましたが、すでに印刷は終わっていました。そして1954年の11月出版されました。

 初版は27,500部出版されたといいますから、人口600万人のキューバでは大ベストセラーの部類に入るでしょう。初版には、短い序文がついており、本文の題は「たたかいの理由」というものでした。翌55年、釈放されたフィデルは、ニューヨークで校閲し、加筆して新版を「歴史は私に無罪を宣告するであろう」という題で出版しました。その後数回、版が重ねられ、その都度フィデルは加筆・修正を行い、最終的に完成したのは1975年版でした。1993年に出版された”Fidel Castro, La historia me absolverá, edición anotada, Oficina de Publicaciones del Consejo de Estado, La Habana, 1993”には、その都度、加筆された箇所が注釈されていて、とても興味深いものとなっています。

 日本語訳では、池上幹徳訳「わがキューバ革命」(理論者、1961年)、「カストロ演説集」(新日本出版社、1965年)に収録されています。しかい、残念ながら英訳からの重訳です。スペイン語の原文を添付しましたので、興味のある方は、お読みください。なお、青色箇所は筆者のマークしたもので、原文にはありません。

「53.10.06 La Historia me absolvera texto completo.doc」をダウンロード


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2009年1月20日 (火)

ハバナ市では100%無農薬野菜で自給? ―改定版―

ハバナ市では100%無農薬野菜で自給?

また、別な友人から、下記の質問を受けたので、アジア人が忍耐でもって農業を行うように(キューバでの表現)、回答します。

1)Q:「ハバナでは100%無農薬野菜で自給。食料自給率は80%とありますが、これは何を根拠」?

A:根拠があるはずはありません。自給率について、日本の農水省のようなキューバの農業省の公式統計はありません。出典は何か、前日に引用した報告者であるそれぞれのブロガーに聞いてください。

2)Q: 「ハバナだけの自給数字というものはわかるものなのでしょうか?」

A:ハバナだけのものもありません。全国の数字もないのですから。

そこで、別な統計から、考えてみましょう。ハバナ市220万人の食料消費は、一人年間500キロの消費で110万トンの農産物が必要です。ハバナ県は人口73万人です。この方々は36万トン必要です。

面積の狭いハバナ市の農業生産が110万トンなどとは考えられる数字ではないので、ハバナ県も入れて考えてみましょう。キューバ全体の農業適作地面積は872万ヘクタールです。栽培面積は、3分の1程度の312万ヘクタール(念のため)。農業適作地面積はハバナ県とハバナ市合わせて44万5000ヘクタールです。栽培面積は15万ヘクタール、さらに単年生作物(野菜、根菜類など)栽培面積は3分の1で、5万ヘクタール程度でしょう。反収は、10キロ/m2が良いほうで、それだと野菜、根菜類の生産は、ハバナ市・ハバナ県で50万トンどまりです。野菜の自給にはほど遠い数字です。不足分は、近県から供給されます。

3)Q:「有機ではないとして、ハバナでは野菜は100%自給か?」

A:90年代以前も食料の輸入は、肉類、豆類、穀類、粉ミルクで、野菜は、年間10万ドル程度でほぼ輸入がありませんので、90年代以前からキューバ全土でほぼ自給でした。日本のように野菜を近隣諸国から大量に輸入するのは世界的に珍しいのです。この構造は90年代以前も現在も変わりません。しかし、ハバナ県で野菜栽培が現在有機農業でおこなっているかというと、認定数字もありませんし、私が訪問したUBPC(協同組合)では化学肥料・農薬を使っていました。詳細、本ブログの「キューバ7つの神話(3)」、「都市農業・有機農業歴史的位相」を参照ください。

また、食料自給率は、90年代以前も現在もほとんど変わっていません。ソ連圏崩壊後に自給率が大幅に下がり、有機農業で復活したというのは、フィクションです(そうであれば、ドラマチックで面白いのですが)。カロリー計算の食料自給率は、1950年が53%、1975年が44%、1988年が47%です。


結論として、食料全体そのものをハバナ市・県は自給できませんし、またいわんやその一部の野菜も自給できませんし、さらには、すべて有機農法で栽培されている野菜を自給している事実はありません。

若干、歴史的なことをいいますと、革命勝利前、ハバナ県、近県のマタンサス県西部、ピナルデルリオ県東部の農業は、大消費地ハバナ市への供給のため野菜などの換金作物の栽培が盛んでした。しかし、60年代半ばから、砂糖の1000万トン生産のため、多くの栽培畑が、砂糖キビ栽培畑に転換されました。これが現在も基本的には継続されているのです。なお、キューバで「地産地消」政策が、全国的に推進されるようになったのは、2007年度からです。

このようなことは、一般のキューバ人知識人にとって、また外国人キューバ農業研究者にとって、いわば常識の部類に属することですが、かたくなに「有機農業野菜ででハバナ市が100%自給されている」と信じる人には、無駄な説明の時間かもしれません。一昨日のTV放送の影響でしょうか、マスコミの影響は大きいものがあります。それだけに正確を期して善意の視聴者、読者をミスリードしないでほしいと思います。

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2009年1月19日 (月)

キューバの食料自給率は?

キューバの食料自給率は?

昨日(1月18日)、友人から、「あるテレビ番組でキューバについて紹介するコーナーがあり、キューバの食料自給率を80%と紹介していたが、どうなのか」と連絡があった。以前から、繰り返し述べている通り、伝聞や、見聞に期待を重ねて報道すると真実の報道や報告にはならない。それらを数件引用しよう(原文のまま)。

「キューバでは自給率を80%まで上げたという。それには都市部の遊休地を耕す人の収穫とするとか、農村で若者が働きやすいようあらゆる環境を整え、給料は都会より良いという」。

「キューバから学ぶ-最新事情。210万都市(人口の20%)ハバナでは100%無農薬野菜を自給。食料自給率は80%」。

「1989年(ママ)にソ連が崩壊すると深刻な経済危機に見舞われた。石油が入ってこなくなり、石油が原料の化学肥料や農薬も、トラクターなどの農業機械やパーツも手に入らなくなった。あっという間に食料自給率は40%まで低下した。そのため、今までの大規模かつ石油依存型農業から脱出するしかなくなった。このままでは、多くの国民が飢え死にすることになる。そこで生き延びるためとはいえ、 たった10年で食糧自給率を70%まで見事に引き上げた」。

「ソ連崩壊後、食料危機に見舞われ、野菜以外に食べるものがないという状況に追い込まれた。だから、キューバの都市農業は計画的に行われたというより、やむにやまれず、食べ物をどこででも作るという状況の中から生まれた。しかし、わずか10年間で試行錯誤を繰り返しながら全体の食料自給率を70%にまで引き上げた」。

これらの人々は、筆者と同じように、日本の自給率の低さを憂い、農業の荒廃を怒る善意の人々である。しかもキューバを訪問した人々の報告であるだけに、こうした事実に基づかない報告に胸が痛む。もっとも「ブログでの情報記事等は知るきっかけや判断材料に過ぎず、受け手も受け取り方も様々のため、<みんな違って、みんないい>」という意見もあるようだ。しかし、こうした考えは、ブログの内容の正確さの問題と、ブログの多様性の問題とを混同しているように思われる。ブログが多様であることは当然である。見ることを強制されるのではないので、見るほうがブログを選択すればいいだけである。筆者のブログでは、貴重な時間を使ってブログを見る方に誠実に答えたいと思う次第である。

さて、本論の、キューバの食料自給率を再論しておきたい。
キューバの食料自給率

キューバの食料自給率は、政府発表の数字は見当たらない。国連のCEPAL(ラテンアメリカ・カリブ経済委員会)で報告されている30%程度という数字は穀物計算と思われる(Política Social y reformas estructurales: Cuba a principios del siglo XXI, CEPAL, p.143)。ただし、CEPALに提出するのは、キューバの経済・計画省傘下の研究機関、「全国キューバ経済調査所(INIE)」であるので、キューバ政府の準公式数字とみてよいであろう。


また。日本の農水省がFAO(国連食糧農業機関)の資料をもとに作成した資料では、2003年度穀物計算で33% と報告されている(農林水産省「食料需給表」2008年)。FAOの資料は、キューバの農業省が提出した資料に基づくものである。したがって、これもキューバ政府の準公式数字とみてよいであろう。2003年以降、農業生産は、微増ないしは停滞しており、自給率が大きく改善することはない。

ハバナ大学付属キューバ経済研究所のノバ教授は、2005年度、カロリー計算で42%、たんぱく質38%と計算している(Armando Nova González, La Agricultura en Cuba: Evolución y trayectoria 1959-2005, Editorial de Ciencias Sociales, La Habana, 2005, p.285)。

実際の生活はどうか。キューバでは普通、国民の食事は、米を主食とし、パンも欠かせない。米は、消費量が年間約90万トン程度で、国内生産は約30万トン、したがって、米の自給率は30%程度で、パンの原料小麦は100%輸入である。

2007年度の数字を見てみよう。キューバの国内総生産(GDP)は、473億4600万㌦で、そのうち農業生産は、18億2100万㌦、3.8%であった。一方、輸入総額は、100億8200万㌦で、そのうち食料輸入は16億4800万㌦、16.3%であった。農業生産の中には、農産物の他に生産活動の中の付加価値も含まれるし、輸出に回される砂糖生産2億㌦程度が含まれる。また食料輸入には、観光客200万人の消費も含まれるが、それは6万人分程度に過ぎない。話を複雑にしないため、これらの要素を除外して、単純に比較しても生産と輸入総額34億6900万㌦のうち国内農業生産が占める比率は52%となり、ノバ教授の計算を裏付けるものである。

また、現在、国民は、食料品の配給で一ヶ月の40-50%をカバーできるが(逆にいえば50-60%を自由市場で買わなければならない)、配給食料品の84%は輸入品である(マガリス・カルボ経済・企画省副大臣、Granma, Febrero 26, 2007)。ここからも食料自給率をある程度推測でき、上記の数字が正しいことがわかるであろう。

参考までに2007年の日本の農業生産は、6兆7000億円程度(GDPの1.2%)、食料輸入総額は6兆100億円、カロリー計算の食料自給率で40%、穀物計算で28%である。キューバの農業生産、輸入額の構造と類似していることがわかるであろう。

いずれにせよ、憂慮すべき数字であり、革命勝利後、コメコン体制の中で、砂糖供給を担当した弊害がここにうかがわれる。近年の国際的食料価格の値上げで、キューバ政府は食料の増産を呼びかけているが、近年、食料生産は、むしろ減産ないし停滞しているのが実情である。キューバも、日本もそれぞれ異なった理由からであるが、食料自給率は異常に低い。農業の正しい政策により、農業生産の発展が期待されている。

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2009年1月18日 (日)

フィデル・カストロの誕生日は、1926年? 1927年?

フィデルは、健在で、執務したり、執筆したりしていると、チャベス大統領が、16日AFP通信の記者に語って、今回の健康不安説は一段落したようである。

それはともかく、フィデルは、いったい1926年生まれなのか、1927年生まれなのか。
フィデル・カストロの成年月日については、二通りある。公式には、1926年8月13日ということになっているが、どうやら、史料からすると、1927年8月13日のようである。


1926年8月13日説
Fidel Castro, Fidel y Religión: Conversación con Frei Betto, Oficina de Publicaciones del Consejo de Estado, La Habana, 1985..
「私は、1926年の8月、8月13日に生まれました。もし時間が知りたいのなら、朝の2時ごろでした」。
「1926年に生まれたのは事実です。武装闘争を開始したときは26歳でした。13日に生まれましたが、それは26の半数です。バチスタがクーデターを起こしたのが1952年で26の倍数です。なにか26の周りに不思議なものがあるのかも知れません」。

Katiuska Blanco, Todo el tiempo de los cedros: paisaje familiar de Fidel Castro, Casa Editorial Abril, La Habana, 2003. Katiuska Blanco Castiñeira, Ángel: la Raíz Gallega de Fidel, Casa Editora Abril, La Habana, 2008.
「フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは、1926年8月13日の早朝2時丁度に生まれた。12ポンドの元気な男の子であった。」
その前、1923年4月2日、長女アンヘラ・マリア・カストロ・ルスAngela María Castro Ruzが誕生。14ポンド。
その後、1924年10月14日午前7時、長兄ラモン・エウセビオRamón Eusebio誕生。13ポンド。
1931年6月3日午後1時、ラウル・カストロ(Raúl Modesto Castro Ruz)誕生。
その他に妹として、エンマEmma, フアナJuanaがいる。

しかし、フィデルの自伝的インタビューといわれているラモネーとのインタビューでは、「言われているところでは」と慎重な言い回しになっていることが注目される。

Iganacio Ramonet, Fidel Castro: Biografía a dos voces, Debate, Barcelona, 2006.
「私は、言われているところでは、1926年8月13日早朝2時に生まれました」

Hugh Thomas, Cuba: The Pursuit of Freedom, Harper & Row, Publishers, New York, 1971. 「カストロは、一年後の1927年に生まれたといううわさがあるが、1926年8月13日に生まれた」。しかし、別なページでは1927年生まれとしている。

06.07.15 キューバ共産党のHP: 「キューバの旧オリエンテ県のビランで1926年8月13日に生まれる」。

06.04.19 グアヤサミン財団のHP、フィデル生誕80周年を記念した公式HP.
「フィデル・カストロの経歴:キューバの旧オリエンテ県のビランで1926年8月13日生まれる」。


しかし、実際は、1927年生まれという説もある。この説は革命勝利当初の本、史料をよく分析した本に見られる。
1927年8月13日説
Pensamiento Político, Económico y Social de Fidel Castro, Editorial Lex, La Habana, 1959.
「フィデル・カストロは、マジャリのビラン地区の『マナカス』農場で1927年8月13日に生まれた。両親は、母親リナ・ルス・ゴンサーレス(Lina Ruz González)と父親アンヘル・カストロ・アルヒス(Angel Castro Argiz)である」。

Gerardo Rodríguez Morejón, Fidel Castro: Biografía, P. Fernández y Cía, La Habana, 1959.
「1927年8月13日、母親リナ・ルス・ゴンサーレス(Lina Ruz González)と父親アンヘル・カストロ・アルヒス(Angel Castro Argiz)は、マジャリのビラン地区の『マナカス』農場で、長女アンヘラと長男ラモンに続いて、次男をもうけた。そこには、アンヘルの最初の結婚の子供たち、リディア、ペドロ・エミリオ・カストロ・アルゴタも住んでいた。10ポンドであった。洗礼を受け、Fidel Castro Ruzと名づけられた」。

Lionel Martín, The Early Fidel: Roots of Castro’s Communism, Lyle Stuart Inc., 1978.
「兄のラモンによれば、フィデルはマルカネの公立学校からイエズス会の学校に送られたとき、彼の入学を適格とするために、彼の記録の誕生日が一年早くされて1926年とされた」。
「私が、ラモン・カストロにフィデル・カストロの誕生日について特別に訪ねたところ、彼は1927年と言った(1972年12月12日ピカドゥーラ渓谷でのインタビュー)」。

Peter Bourne, Castro, Macmillan, London, 1986.
「フィデルは、1927年8月13日午前2時、オリエンテ州のマジャリ町から遠くないビラン村の近くの父親のラス・マナカス農場で生まれた。12ポンドあった」。

レイセスター・コルトマン『カストロ』岡部広治監訳(大月書店、2005年)、6ページ。「アンヘラとラモンのあと、3人目の子フィデルが生まれた。1927年8月13日であった」。

Claudia Furiati, Fidel Castro: La historia me absolverá, Plaza Janés, Barcelona, 2003.
「1941年5月10日の証明書Fidel Alejandro Castro Ruzの名前:ここで一年早く生まれた証明が作られた。フィデルが学校を終えたとき、アンヘルは地区の裁判所の書記に100ペソ与えて、以前の文書のデータを書き直し、誕生日を1926年にするように依頼した」。

それは、ベレンの学校に入学することができるようにするためであった。『別におかしいことではありませんでした。行政の中では、付き合い、お金、融通のしあいでよくある措置でした』と姉のアンヘリータは説明している。

こうして公式には1926年が公表された。しかし、アンヘリータは、母親が、『26年生まれだとすると、ラモンとフィデルの間には10ヶ月しかないことになり、それは不可能だわ。ラモンのお産は麻酔を使わなかったし、その後長い休養が必要でした。それに母や、一年以上も母乳を与えていました』(フリアティ、アンヘリータとのインタビュー)

「ラモン・カストロはフィデルとは22ヶ月以上違うとのべている(フリアティ、ラモン・カストロとのインタビュー)」。

このことから、結論は、フィデルは1927年8月13日に生まれたことになる。しかし、すでにキューバ国民は26年という数字に慣れている。史料を検討した限りでは1927年説となるであろう。

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キューバ10大ニュース(5) 2007年度

キューバ10大ニュース(5) 2007年度

詳細、下記参乞う

「07.12.31 2007年キューバ10大ニュース.pdf」をダウンロード

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2009年1月17日 (土)

フィデル・カストロ前議長の健康と米玖関係

フィデル・カストロ前議長の健康と米玖関係

 先週の9日頃からカストロ前議長(以下フィデルと略称)の健康状態についていろいろ取りざたされ、いろいろな憶測が流れている。筆者にも新聞社やテレビ局から質問が来ている。関心が大きく広がった発端は、11日のAP電が同日のチャベスの「こんにちは、大統領」での発言を報道してからであるが、いわゆる「西側外交筋」では、その2-3日前から、カストロ前議長の病状悪化説が流れていたようである。
チャベスの言及はこういうものであった。
「あのフィデル、街路や国民の間を早朝であっても制服を着て、人々と抱擁していた彼は、再び戻らないであろう。記憶の中に残っていくであろう。フィデルは、肉体的な生命を越えて永遠に生きているであろう。フィデルは、飛行機の入口までわれわれを連れて行ってくれ、抱擁を交わした。なんという思い出だろう。それが最後であった」。

 この発言から、フィデルは、死亡したのではないかとの風説まで各国に流れていった。筆者は、この種のいわゆる流布説に加わって憶測を表明する習慣はもっていないが、問題が広く関心を呼んでいるので、ここでは憶測による見解ではなく、この問題を分析する筆者のポイントを紹介しておきたい。

① 先ず、キューバ政府は、重大なことは長期間は隠さず、最小限度の事実のみを発表するということである。
② 第二に、キューバ政府は、指導者の健康状態を、対米関係から、恒常的には発表しないということである。

 ①の点では、2006年7月31日、キューバ政府は、フィデルが腸の手術を受け、手術の結果から職務の継続が無理となり、ラウル・カストロ(以下ラウルと略称)副議長に(1)党書記長、(2)軍最高司令官、(3)国家評議会議長・閣僚評議会議長の権限を一時的に委譲したと発表した。この声明では手術の日は発表されていなかったが、実際は7月27日にフィデルは、腸の手術を受けていたことが翌年の1月になって外電で判明した(AP, AFP, 07.01.17, Reuters, Xinhua 07.01.31)。

 手術の詳細は、翌年の07年1月15日、議長を診察したスペイン人医師が、スペインの有力紙「エル・パイス」に語って始めて明らかとなった。それによると、「フィデルは、少なくとも3度の手術の失敗で、腹部の合併症を起こしており、病状の見通しは『極めて深刻』と報じた。また、「フィデルは06年の夏前から憩室炎と呼ばれる腹部の持病が悪化し、腸内の炎症と大量出血を招いた。1回目の手術では、腸の一部を摘出し、大腸と直腸を結合する方法が取られたが失敗し、炎症が拡大。新たに人工肛門をつける手術を行った。しかし、その後、炎症は胆のう部分にも及び、人工器官を埋め込む手術を行ったが失敗し、別の人工器官に交換した。議長は現在、点滴で栄養を取っている」というものであった(El País, 07.01.15)。
 フィデル自身が、手術について初めて語ったのは、手術後10カ月経過した翌07年の5月23日のことであった。彼は、第21回「省察」『耳を傾けないものに対して』において、健康状態について、「最初の手術は成功せず、数回の手術を行った。そのため回復が遅れた」と簡略に述べた。そして、手術後の1年半後の08年1月22日に、第68回「省察」『ルーラ1』において「7月26日夜から27日の早朝に出血し、死ぬかと思った。医師たちが私の生命を取りとめようと手を尽くす一方、議長室長のバレンシアーガに声明を読むように頼み、それに適切に手を入れた」と具体的に述べた。これが、初めて公式に27日に手術したことを認めたものであった(Granma 08.01.24)。 

 ②の点では、フィデルは、手術発表後の翌日、8月1日、「最高司令官からキューバ国民および世界の友人へのメッセージ」を発表し、その中で、「キューバの特別な状況において、帝国の計画のために私の健康状態は国家機密となってしまい、恒常的に報道することはできない。同胞のみなさんはそれを理解してほしい」と述べて、今後は、容態を逐一発表することはないと釘をさした。実際、その後その時折の容態は、上記の本人自身の説明を除くと、チャベス大統領やモラーレス大統領など、フィデルと会見した外国人指導者、アラルコン国会議長、ペレス外相、ラウルなどキューバ政府幹部が記者会見の中でコメントする中でうかがわれるだけで、政府の公式の発表は一切されていない。

 こうしたキューバ政府の発表政策からすれば、内外の重大なことは最小限の事実は必ず発表される。そして、1月16日午後10時(現地時間)現在、フィデルに関して重大な発表はされていない。影武者説や、「省察」の替え玉執筆者説があるが、そうした姑息な手段は、フィデルのこれまでの思考・行動様式からは考えられない。

 替え玉執筆説は、フィデルの最近の「省察」を読めば、彼の文章であることは、専門家であれば理解できることである。

 影武者説は、次期オバマ政権発足の前に重大事件を知らせるのは得策でないと推測して出される解釈である。しかし、これは、キューバ国民が、歴史的にもっている対米観を理解していないものである。キューバ国民の自国の主権の尊重について、その代表的なものを3つ挙げておこう。

 1884年,独立闘争の闘士、アントニオ・マセオは、スペインとの独立戦争の勝利後のことを考え、米国の支配がキューバに伸びてくることを警戒し、キューバの独立と主権は譲歩できないと最後まで抗戦する意志を友人に宛てた手紙で述べた。
「米国は、軍事力ではキューバを灰燼にすることができるが、血にまみれた灰燼を拾うか、たたかいの中で命を失うだけであろう」。

 1895年5月18日、キューバ独立の父といわれるホセ・マルティは、彼の死の前日にメキシコの友人マヌエル・メルカドあてに次の未完の書簡を書いている。 
「米国が、アンティル諸島に手をのばし、さらにより強大な力で、アメリカのわれらの国ぐにを支配しようとすることを、キューバの独立でもって適時に阻止するのが、私の義務です。そして、わが国とその義務のために、私は、生命をささげる危険に連日さらされているのです。
・・・私は怪物の中に住んだことがありますので、その胎内を知っています。私の投石器はダビデと同じものです」。

 1958年6月、フィデル・カストロは、バチスタ独裁政治とのたたかいが、まだ決定的な勝利の光明が見えないとき、キューバ東部のシエラ・マエストラ山中で、ゲリラを支援していた農民のマリオ・サリオルの家がアメリカ空軍の飛行機で爆撃されたことに怒りを示し、次の手紙を同志のセリア・サンチェスに送っている。
「シエラ・マエストラ 58年6月5日
セリア:
マリオの家にロケット砲が打ち込まれるのを見たとき、アメリカ人に、彼らが行っていることに高い代償を払わせてやると私は誓った。この戦争が終わった時、私にとって、はるかに長期にわたる大きな戦争が始まるであろう。その戦争を、私は彼らに対して行うつもりだ。それが、私の真の運命となることが私にはわかっている。
フィデル」
 
 こうしたキューバ人の歴史的に培われてきた強靭な対米自立の考えを見誤ると、オバマ政権に対して、キューバが過度の期待をもっているとか、何らかの行動をキューバ側から取る必要があるという見解が出てくる。

 しかし、ラウルは、昨年12月31日のインタビューで、米国のキューバ干渉の歴史をたどりつつ、オバマ次期政権に対して原則的な立場を述べている。
 「われわれの立場ははっきりしている。米国が議論したいときに、対等の条件で、キューバの主権になんらの陰をさすことなく議論しよう。われわれが、何らかの行動を起こすように、しばしば進言されてきたが、一方的な行動の時代は終わった。相互の行動が必要だ。米国が、第三者の仲介なく直接行動をとることを決定したとき、われわれも行動を取る用意がある。われわれは、棍棒と人参でもって議論はしない」。
 こうした原則的な立場からすれば、影武者を立てる必要もないのである。

 12月31日、フィデルは、「革命勝利50周年を数時間内に迎えるに当たり、英雄的な国民にお祝いを申し上げる」という、革命50周年にしては、ごく簡単なメッセージを発表した。12月28日、ラウル議長は、国会の閉会演説で「皆さん、革命勝利50周年を、フィデル最高司令官にお祝い申し上げよう。フィデルは、これまでも、今も、われわれを導いてきたし、これからも常に導くであろう」と結んだが、国会の会期中にフィデルからのメッセージはなかった。

 1月6日パナマのマルティン・トリホス大統領がキューバを訪問、8日はエクアドルのコレア大統領が訪問した。いずれもキューバにとって重要な国家元首であったが、フィデルが会見したとの報道は、キューバの報道には一切出ていない。しかし、フィデルが会見しても発表されない例もある。昨年10月20日、 フィデルは、ロシア正教のキリル大司教と会見したが、キューバでは報道されず、11月10日にロシア正教のインターネットに写真が掲載されてその事実がわかった。したがって、外国要人との会見は、判断の材料にはならない。

 フィデルは、別添の昨年2月18日の国民への退任のメッセージで、「皆さんに、お別れをいわない。思想の一兵士としてたたかうことだけを望んでいる。『同志フィデルの省察』という題のもとで引き続き執筆を続けるであろう」と文筆活動が今後の重要な活動であることを述べている。それでは、フィデルの「省察」あるいはメッセージは、昨年08年1月からどのように書かれたであろうか。下記の通りである。
1月 10件
2月 13件
3月 16件
4月  9件
5月  5件
6月  6件
7月 13件
8月  6件
9月 13件
10月 13件
11月 10件
12月  3件 15日が最新版。
 1月  0件
明らかに12月15日以降は普通ではない。健康状態が、執筆をしたいというフィデルの強い意思を許さないのであろうか。
 フィデルの「省察」は、彼の該博な知識を駆使して述べられた大変興味深いものが少なくない。多くの人々が新たな執筆を待っていることであろう。
「08.02.18 カストロ議長、退任のメッセージ全文.pdf」をダウンロード


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2009年1月16日 (金)

キューバ10大ニュース(4)2006年度

キューバ10大ニュース(4)2006年度

下記ご参照ください。
「06.12.28 2006年キューバ10大ニュース.pdf」をダウンロード

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2009年1月15日 (木)

キューバ10大ニュース(3)2005年度

キューバ10大ニュース(3)2005年度

下記参照。

「05.12.21 2005年キューバ10大ニュース.pdf」をダウンロード

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2009年1月14日 (水)

キューバ10大ニュース(2)2004年度

キューバ10大ニュース(2)2004年度

詳細は下記の文書を参照。「04.12.26 2004年キューバ10大ニュース Revised.pdf」をダウンロード

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2009年1月13日 (火)

キューバ10大ニュース(1)2003年度

キューバの政治・経済状況は、変化が早い。ここ数年を概括した本もない(日本語で)ので、2003年度から順次各年のキューバ10大ニュースを紹介しよう。この10大ニュースからもれたものも、もちろんその後大きな事件となっているものもあることは、歴史学の常識として理解してほしい。

2003年度キューバ10大ニュース
下記参照

「04.01.05 2003年キューバ10大ニュース 了.pdf」をダウンロード

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2009年1月12日 (月)

歴史的岐路に立つキューバ経済

歴史的岐路に立つキューバ経済

雑誌『経済』2008年1月号掲載
新藤通弘

(一)1990-1993年:経済危機と緊縮政策の実施
(二)1993-1997年:経済改革の推進
(三)1998-2003:米国による干渉の強化と経済の停滞
(四)2003-2006:産業構造の変化と新しい経済発展モデルの模索
(五)2007-:歪んだ経済・社会構造の構造改革をめざして

現在、キューバ経済は、歴史的な岐路に立っている。80年代末の経済モデルの破綻、90年代の「非常時」の経済改革 、その後の米国による干渉の強化、経済発展をめざす新たな発展モデルの模索、歴史的な積年の経済的・社会的諸困難の克服と、この20年間キューバは、対症療法的に問題と取り組んできた。
北の巨人の圧力は、キューバにたいして一貫した政策を遂行する余裕を与えないほど激しいものがある。しかし、キューバ国内にも必ずしも一貫して経済建設の政策を追求するという風土がかけているといえなくもない。
本稿では、90年代から現在にいたるまでの20年間のキューバ経済・社会の歴史的展開を素描し、現在、広く議論されている議論の中でどのようにキューバ社会が変革をとげていくかを考えてみたい。

詳細は下記論文参照

「07.11.18 歴史的岐路に立つキューバ経済.pdf」をダウンロード

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2009年1月11日 (日)

キューバについての7つの神話(6)

7.キューバは社会主義国? 1/12 追加版。

 さて、7つの神話も最後のテーマになった。今回は、少し論争的で複雑なテーマだが、ご辛抱願いたい。面倒な方は、適当に端折っていただいて結構。

キューバに関心を持っている人々のうち、少なからずの方々は、社会主義に関心や共感をもっている人々であろう。キューバ本やテレビでは「社会主義国キューバは・・・」と語られ、報道されている。そのような人々に、「キューバは、社会主義国だろうか?」と聞くと、「決まっているだろう」といわれるかもしれない。

ある社会が歴史の発展段階のなかで、どの位置にあるのか、どういう社会であるかということは、その社会を、またその社会で行われている政策を理解するために極めて重要である。

1. マルクスの発展段階論
いろいろな歴史の発展段階を区分する意見もあるが、だれしもキューバ革命とマルクス主義の関連は深いと思っているだろうから、マルクスがどういう歴史の発展段階を考えていたかをみるのがよいだろう。マルクスは、人類史の発展諸段階を、①原始共産制社会→②古代奴隷制社会→③封建制社会→④資本主義社会→⑤共産主義社会と五段階に位置づけて、壮大な展望を示している(『経済学批判』)。この①から②、②から③、③から④、④から⑤に発展する間には、当然のことながら、それぞれの移行の期間(「過渡期」、百年単位の長く複雑な期間)があると、マルクスは述べている。これは常識でも分かることであろう。フランスでは1788年で封建社会は終わり、1789年のフランス市民革命でその年から資本主義社会が始まるというほど、歴史は単純ではない。そしてマルクスは、その移行期間は革命を遂行するために労働者が中心となって権力を握る必要があると述べている(『ゴータ綱領批判』)。これも常識で理解できることであろう。

2. キューバ共産党の発展段階論
では、当事者のキューバでは、この問題はどう考えられているのか。キューバで最大の政治勢力であり、革命の中心勢力であるキューバ共産党が、革命を推進するにあたり、どのように自らの社会を考えているか、見なければならない。キューバ共産党の綱領は、1991年の第4回党大会で国際情勢の変化から廃止されていらい、その後制定されていないが、共産党幹部や知識人の間でキューバ社会自体の規定は変わっていない(例えば、Revista Temas No.50-51 abril-septiembre 2007)。同党の1975年政策綱領では、「現在のキューバ社会は、社会主義(社会)の建設期にある。そのための目標は、マルクス・レーニン主義の科学的基礎の上で社会主義建設を継続し、共産主義の第一段階に到達することである」と述べている。
そうか、現在キューバは、「マルクスがいう④から⑤、資本主義から社会主義に移行する時期で、社会主義を作っている段階」ということか。

移行期間についてはどうか。同政策綱領は、「この期間には、歴史的にはプロレタリアートが権力を握る必要がある。その権力は、少数の搾取者に対する多数の労働者の権力によって、またすべての勤労者、知識人を含む一層拡大される民主主義によって支えられる」と規定している。これも常識的な規定であろう。

3. でもキューバ憲法では・・・
 しかし、ここで、キューバの憲法を読んだことがある人は、「そうはいっても、憲法第1条には『キューバは、勤労者の社会主義国家であり、独立・主権国家である』と書いてあるのではないか、憲法に書いてあるのだから、はやり社会主義社会だ」と強力に反論するだろう。
 
なかなか鋭い指摘だが、そこで、レーニンが述べた次のことばを思い出してほしい。レーニンは、国名の表現と社会の実態との違いを明確に指摘している。
「『社会主義ソヴェト共和国』という表現は、社会主義への移行を実現しようという決意を意味するものであって、けっして新しい経済体制が社会主義であることを意味するのでない」と述べている(レーニン、「『左翼手的』な児戯と小ブルジョワ性とについて」、全集第27巻338-339ページ」)。

そうか、レーニンの言い方を借りると、キューバは社会主義社会に移っていく移行期にあり、その意気込みを示すために、「社会主義国」という表現をとっているのか。なら、分かったが、それは、レーニンが言っていることであって、旧くはないか? 新しい社会主義社会をめざしているラテンアメリカの政治家、チャベス大統領などはどう言っているのか?キューバは社会主義社会と言っているのではないか?と粘り強く反論する人もいるかもしれない。

しかし、チャベスも、エボ・モラーレスも、コレアもこれまで世界史では社会主義社会に到達した国はないと述べている。ソ連などは、社会主義の原則から大きく逸脱したと考えられている。したがって、現在のラテンアメリカの革新勢力は、従来の社会主義理論、社会主義運動を批判的に摂取しつつ、各国の実情にあった社会主義を追求していくと述べている。
マルクスは、「社会主義社会では、生産力の発展から労働日が短縮され、人間は自由にできる時間が増えて、いろいろな生産物を利用でき、生活と余暇を楽しみ、「必然の世界」から、人間的な諸能力を発達させる『自由の世界』に入っていく」と壮大な人類史のロマンを語っている(『資本論』⑬第三部第7篇48章新日本出版社)。社会主義社会は、実に豊かなものであり、現在の見聞できるものは、それとは程遠いものである。

4. マルクスが考えた社会主義社会
さて、人類史の発展段階はわかったが、社会主義社会といってもどういう社会をマルクスやエンゲルスは想定していたのだろうか。彼らは、社会主義社会の青写真を描くことに慎重であった。しかし、概念的骨子を羅列すれば、①生産手段を社会(国民)が共有する、②資本家や労働者階級がなくなっている、③したがって人が人を搾取することはない、④生産の方法は、「自覚した自由人が、結束して、協力して」生産に従事する、⑤無駄なく生産するため、広く社会のことを考え、計画的に生産を行うという調節組織をもつ、⑥販売することだけを目的とする商品市場が無くなっている、⑦国民の活動を締め付ける国家はなくなっていることがあげられる。現在では、これらに、⑧「地球環境を考えて持続可能な発展をめざす」ことも付け加えなければならないであろう。さらに、⑥については、現在では、社会主義社会でも当分の間、市場が必要と考えられている。

5. キューバが考えている社会主義社会
では、当のキューバ共産党は、社会主義社会はどういう内容と考えているのであろうか。75年および86年の綱領を総括すると、①主な生産手段は、全国民が所有するとともに、協同組合も所有する、②諸階級が次第になくなっていき、最終的には階級のない社会となる、③市場は、初期の段階には存在するが、次第に消滅していく、④経済発展は、計画にしたがって推進される、⑤「各人は、能力に応じて働き、各人はその労働に応じて受け取る」という原則から、しだいに「各人は、必要に応じて受け取る」という原則に移っていく(Programa del Partido Comunista de Cuba, Editora Política, La Habana, 1986)、⑥国家の政治・経済・社会生活の決定において、大多数の住民がより一層民主的で、広範に、意識的に参加する、⑦さらに昨年の党内検討文書では地球環境を維持した開発をめざすなどを考えている。これから見ると、マルクスとエンゲルスが考えていたことと、ほぼ同じ内容である。

(なお、煩雑になるが(飛ばして読んでいただいて結構)、キューバ共産党綱領は、86年の第3回党大会で制定された。75年の第1回党大会では政策綱領が採択され、80年の第2回大会でもこの政策綱領が引き続き承認された。)

この機会に、明らかにしておきたいことは、マルクスとエンゲルスは、『共産党宣言』で使用した「共産主義」も『空想から科学へ』で使用した「社会主義」も同じ意味で使っていることである。分配の違いでもって、社会主義、共産主義と区分したのはレーニンの間違いであった(興味ある方は、不破哲三氏の労作『マルクス未来社会論』、新日本出版社、2004年を参照)。

6. 移行期の社会はどういう社会か
とすると、キューバは上記の社会主義社会をめざす資本主義社会からの移行期の社会であるならば、いったい移行期の社会とはどういう社会であろうか?かつて、レーニンは、ソ連の社会主義社会の初期において(1918年)、移行期の性格を述べたことがある。
「移行というばあい、現在の体制のなかに、資本主義と社会主義との両方の諸要素があるということを意昧する。これらの要素としては、①現物的な農民経済、②小農や零細企業の活動、③私経営的資本主義、④国営企業が進める資本主義、⑤社会主義、が存在する」、と5つの要素を挙げ、「そこで問題になるのは、どの要素が優勢か、ということである」と移行期の社会の性格を分析する視点を述べている。

それでは、現在のキューバでは、どういう生産制度の要素が存在するのか。キューバでは、現在次の生産制度が存在している。①自営農民(2万人)、②自営業(15万人)、③農業・漁業・建設協同組合(1102組合、25万人)、④国営企業(国営農場、製造業、サービス業企業、商業、金融、建設業、運輸、通信など合計2732企業)、⑤外国資本との合弁企業(237企業)。③、④は社会主義的要素であり、①、②、⑤は資本主義的要素である。この中で優勢な要素は、⑤である。ニッケル生産、石油生産、通信、観光、製造業などは合弁企業で支えられている。つまり、キューバ社会は、移行期の中でいろいろな生産制度が入り混じっている社会である。

7. キューバの移行期の特殊性
これに加えて、キューバの場合、現実の歴史の中では、この社会主義社会を建設する移行期の間、つねに革命政権を打倒しようという米国の強い干渉を受けている。そのため、恒常的な干渉と圧力に対処する必要から、総動員体制が導入された結果、共産党の一党制が敷かれ、法律上、集会、結社、出版の自由が制限されている。また、キューバの生産力の発展水準からすれば、異常に国有化率が高く、国家所有による企業の経営は、過度の中央指令型計画経済の中で、自由な生産力の発展を妨げる桎梏となっている。これは、本来の社会主義をめざし、社会主義的要素をしだいに増やしていく考え方から離れたものである。

86年の同党綱領は、「移行期は、社会発展の客観的法則に従うものであり、それに違反したり、間違って解釈したりすれば、社会発展が中断したり、逸脱したりする危険をおかすことになる」と警告している。社会主義社会は、現実の歴史の中でつくるものであり、社会主義工房で理論的青写真に従ってつくるものではない。間違いや、試行錯誤や、後退もあるであろう。でも長い目で見れば、人類は社会主義社会に進んでいくことはさけられない。

稚拙な内容でかつ悪文を辛抱強くお読みいただいて感謝している。なお、理解しやすくするために、文中の引用文は、原文からかなり噛み砕いて訳してある。ご了承乞う。

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2009年1月10日 (土)

キューバについての7つの神話(5)

6.賃金はわずか17ドル?
外国人の、あるいは日本の新聞、雑誌、ルポ記事、テレビでは、「キューバの○○さんの賃金は、わずか一月17ドル(1700円)! スポーツ・シューズを1足買うにも、賃金の二月分を払わなければならない」と、よく出てくる。日本の賃金水準に直せば、40万円も、50万円もすることになる。日本だと普通の人は誰もこんなに高い靴を買わないであろう。では、キューバ人はなぜ買えるのか?

それでは、謎解きのために、外貨ショップに行ってみよう。店は、市民で一杯である。品数は少ないが陳列棚には商品が並んでいる。靴を探すと、確かにブランドものではなく、あまりいいものではないが、CUC34.00 と書いてある。CUCとは外貨表示商品を買うことができる交換ペソ(peso convertible)のことだ。CUCは、金銀と交換できないため「兌換」通貨ではない。現在1CUC=25CUP(国内ペソ)だから、靴代は34 x 25 で850ペソ(CUP)となる。賃金は? 平均月408CUPペソ。とすると850CUPペソを408CUPペソで割ると、確かに2ヶ月分である。それでは2ヶ月の間、どうやって生活するのだろう? 一体キューバ経済はどうなっているのだろうか? これは、一晩寝ずに考えても分からない。

ところで、世界銀行の基準では、一日1.25ドル(1年457ドル)以下で生活する家庭を極貧と規定している。そうであるならば、キューバは、賃金からすれば平均年収は17 x 12 = 204ドルとなり、ほとんどの家庭が絶対的貧困層となる。ええっ? 「医療大国」、「有機農業大国」ではなかったのか? ほとんどの家庭が絶対的貧困とは誰も信じない。

実は、キューバ人の生活は、CUPペソでまかなう生活と、CUC交換ペソでまかなう生活の二つの世界があるのである。Aさんの家庭の場合、賃金でもらった一人CUP408ペソ、幸い共稼ぎだから二人でCUP800ペソが家族の収入だ。

(キューバペソCUP20ペソ紙幣。外貨ショップでは使えない。)
M20p1


ここから支出はこうなる。
① 家賃支払(収入の10%、80ペソ)。
② 電気代、ガス・水道代、電話代、バス代、新聞代、野球、映画などの観覧料(家庭によって違うが、合計約CUP180ペソ)。ここまでで小計約260ペソ程度必要。
③ それに一人CUP30ペソ程度の食料などの配給品、4人で118ペソ程度。
④ ここまでで最低CUP380ペソ程度必要。
⑤ しかし、配給品は、一般に消費の40-50%しか、カバーできない。あと半分の食料は、農産物の自由市場で買うとしても、その価格は配給の5-6倍、家族4人分でCUP700ペソ必要である。ここまでで合計では、CUP1080ペソとなる。

ここまでがCUPの世界のこと。不足の食費をカバーするためには、CUP800-CUP380=残ったCUP420ペソはとても足りないどころか、あとCUP280ペソ必要だ。どうしよう。

さらに、石鹸、歯磨き粉、洗濯石鹸、基礎化粧品、衣服、履物、家庭内の生活必需品も買わねばならない。子供の簡単なお菓子ぐらい買ってやりたい。腕時計も今年は必要だ。これらは、すべてCUC交換ペソで外貨ショップで買わねばならない。テレビの修理も知人に個人的に頼まなければならない。台所の水道の修理も必要だ。パーマにも行きたいし。これら個人サービスも政府が提供するのではないのだからCUPで受け取ってはくれない。CUCで払わねばならないのだ。

そこで、ここから交換ペソCUCの世界となる。これらのためには、最低交換ペソのCUC80ペソが必要だ。しかし、すでにCUPペソの世界でCUP280ペソ以上不足している。両親の頭が痛いところだ。CUP1080ペソとCUC80ペソ(=CUP2000ペソ)の支出全部を足してみると、CUPペソ計算でCUP3080ペソとなる。賃金が生活費の4分の1程度しかカバーできないといわれるゆえんである。

(交換ペソ、CUC20ペソ。外貨ショップ以外では買物に使えないが、市民の間のやり取りはこのCUC紙幣で行う)
M20cuc

このこんがらがったCUPとCUCの二つの世界の通貨の問題が二重通貨の問題と呼ばれている。

ではどうやって不足分を解決するのか?
不足分を解決する方法は、次のものがある。
① 海外に家族や親戚がいれば、送金を受けとる。月150ドルも送金してもらえれば、職場で嫌な思いをしてまで働かない。送金ぐらしとなる。
② 外国企業や観光業に勤務しているものは賃金以外の特別支払やチップを取得する。官庁の「有能で、目先のきく」人はコネを作って脱官庁となる。学卒がレストランでボーイとなったり、タクシー運転手となる。
③ 重要な官庁、国営企業の職場で支給される外貨奨励金。ただし40CUCどまり。
④ 特技をもっているものは、本来は禁じられているが、専門職の英語や、音楽などの家庭教師、大工などのアルバイトを行う。ここまでは半ば合法的である。学校の先生が、自分の教室の生徒に夜も教えているケースもある。熱心な先生というわけでなく、一月1科目CUC10ペソ程度授業料を取る。10人程度でCUC150ペソ稼ぎ、生活問題は解決。一方で家庭教師(CUC40-50ペソ)を付けられる家庭は、限られた人たちとなる。高学歴家族=高収入の固定化現象が問題とされている。前回指摘した闇治療の問題はここから出ている。
⑤ しかしこうした条件がないものは、小売店や、レストランなどのサービス現場で資材をごまかし、横流しする、あるいは会計をごまかす。倉庫や工場に勤務しているものは、資材を横流しする。資材がない事務現場では事務の優先処理のために袖の下を要求する。昨年12月の国会で国内商業相は、驚くべき報告を行った。08年度、キューバの小売商品流通額、207億ペソのうち、2億1800万ペソ(1.1%)の商品が喪失した。07年は4億4000万ペソだった。原因は、管理上の欠陥、経理上の欠陥、犯罪、腐敗など(Granma, Diciembre 26, 2006)。この1.1%という数字は、例えば日本の流通業界になおすと家電量販最大手のヤマダ電機の売上全体がどこかにいったことになる。
⑥ どこにも就職しておらず、これらも行うことができないものたちは、街で窃盗をおこなう。
⑦ と、ここまでで筆者のリストは終わるはずと思っていたが、友人のキューバ人エコノミストたちは、いや最後がある、米国に移住することだ、という。悲しいね。こんなことになると。

原価計算ってあるの?
さらに、革命勝利以降、キューバ政府は、1USDドル=1CUPペソを堅持している。キューバ中央銀行の公式交換レートは、1CUC=1CUPと設定され、企業や政府機関で使用されている。しかし、国営の外貨交換所(CADECA)でのCUPペソの実勢は、CUC1.00=CUP25である。つまり、公式レートでは国内ペソが実勢を離れて過大評価されている。90年代に入って、インフレが生じたが、それでも1USDドル=1CUPペソが維持され、公式レートでの現在のCUPペソの過大評価が生まれたのである。CUPは、購買力が4分の1となり、その結果、複雑な二重通貨問題が発生しているのである。このことは、あらゆる原価計算、経済計算を大きくゆがめることとなっている。政府機関内の計算も実勢に合わせて1CUC=25CUPで計算しなければならない。

したがって、輸出価格は、工場の原価計算ではなく、国際市場の価格を見て決定されるし、観光客相手のホテル代、レストランも原価計算でなく国際価格を見て決定されている。その結果、観光分野では余りに現状を離れた高価格水準になって、最近の2-3年観光客の減少の大きなひとつの原因となった。

賃金には反映されていない給付金
ところで、キューバ人労働者の賃金支払表には、社会保険、年金、各種補助金の給付分が記載されていない。一月CUP410ペソと支給全額が労働日数とともに記載されているだけである。しかし、実際は、労働者はこれらを国に払って、それを控除したあと受け取っており、それが支払額CUP408ペソ(平均)となるはずである。筆者の計算だと一人の賃金表に現れていない給付額はCUP700ペソ程度となる。労働者は、実際にはCUP1100ペソ程度の賃金である。そして二重通貨問題が解決過程に入り、交換レートが正常化すれば、一人当たり一月600ドル程度の収入となり、まだ低いが実際の市民の生活水準と符合するものとなろう。現在の収入、CUPペソの賃金+給付金+CUCペソ収入を足すと、家族の生活自体は月120ドルを超え、絶対的貧困層ではないことも理解できるであろう。

なお、キューバの経済成長、人間開発指数(HDI)などの中で、キューバの医療や教育サービス、海外への医療・教育サービス輸出などを、入れることが妥当かどうかということについて、キューバ政府と国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会(CEPAL)の間に論争があった。キューバ政府は、2003年から国内総生産(GDP)の計算に入れ始めたが、ここ数年、キューバ政府のGDP数値はCEPALよりも2-3%高く出ていた。これをもって背伸びした経済成長だとか、竹馬をはいた人間開発指数と海外の専門家は批判していたが、昨年11月、CEPALもキューバ政府の経済計算方法を妥当だと認め、論争に終止符が打たれた(Reuters, December 16, 2008)。しかし、1CUC=1CUP=1USDからくるコスト計算、経済計算の不正確さは別問題として残っており、この問題を解決しなければ、各年の比較はできても、絶対的な比較、評価はできない。二重通貨とともに必ず解決しなければならない問題である。

愉快そうにサルサを踊っている人々を表面からだけ見ると分からないが、内実は、結構大変な生活なのである。

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キューバについての7つの神話(4)

5.キューバの医療制度は世界の手本?

 マイケル・ムーアのドキュメンタリー映画、『シッコ』は、見る人々に鮮烈な印象を与えた。ムーアの歯に衣着せぬ辛らつな本『アホでマヌケなアメリカ白人』、9月11日の同時多発テロ以降の米国社会をテーマにブッシュ政権を鋭く批判したドキュメンタリー『華氏911』は、好きな作品である。

米国の医療保険制度は、悲惨なものである。米国民の約15%、4500万人が医療保険に加入していない。1家族の平均的な年間保険料は06年1万1000ドル(中間層労働者の年収の4分の1)、つまり最低賃金労働者の年収と同じ額にのぼる。これが、80年代の新自由主義政策の結果であることはよく知られているところだ。

ムーアは、『シッコ』では、そうした実態を厳しく告発している。その中で、最後の場面で、世界貿易センタービルの倒壊の際、救助にかけつけた消防士たちは、米国の医療保険制度では放置され、キューバで無料で最新式の医療機器と設備による治療を受ける。

日本人の書いた本にも、善意にあふれ「医療大国」、「世界を救う人道的国際医療貢献」、「世界の手本」、「ソ連崩壊後、食料難の中で医療面での万全の取組で餓死が出なかった」と絶賛である。食料難を医療でカバーできるとは思えないが、いずれにせよ、これらは本当にそうだろうか?

キューバの医療制度の骨格をまず見ておこう。細かい数字は、以前に述べたので繰りかえさない。本ブログ、「キューバ医療最新事情」を参照こう。
① キューバの医療は、すべてが国家公務員医師というわけではない。個人開業医は、革命勝利後もそのまま営業の継続を認められた。6000人いた医師の半数の3000人が米国に移住したからである。もっとも現在は、ほぼ亡くなっており、ほんの僅かで数字にも出てこない。現在7万2000人余だがほとんどが国家公務員である。
② 医療施設は、病院、診療所、薬局、研究所などすべて国営であり、農村の基礎行政区(Municpio、市町村総合診療所と訳してはならない。市町村というまとまった行政区は存在しない)にも初期診療の家庭医制度、総合診療所も設置されている。
③ 医療は、外来患者の薬代を除いて無料である。この薬代には、国の補助金がでており、一般の軽い病気の場合、一回7日分15ペソ程度、月収の5%以内である。日本の診察料、薬代が保険適用の場合、2%程度とするとやや高めである。ただし、外国人は急患以外は有料。緊急治療後は有料となる。『シッコ』の人々は特別待遇で無料だった。
④ 医師の賃金は、月、550-650ペソで、平均月収の408ペソより50%程度多いだけで、日本の医師と平均賃金の差からすれば、非常に格差は少ない。むしろ、賃金は生活費の4分の1程度しかカバーできないことを考えると、格差はほとんどないことになる。
⑤ 医師一人当たりの人口数や159人で、日本の476人よりもはるかに優れた数字である。
⑥ 医療システムの継続性は、国の予算では医療予算は2007年度14.5%、日本の10%程度よりも多くあてられている。医師の養成では毎年3000名以上が卒業し(日本は7000名余)、システムの継続性は保障されている。
⑦ 3万8000人の医療関係者を海外に派遣し、サービス輸出として、第一の外貨収入源となっている。

ということになると、③ではイギリスともさほど大きな開きがない。イギリスでは外国人も有料である。キューバ独自のものは、①、②、④、⑥の医師の卒業生数、⑦であろう。ここから良い意味でも悪い意味でも問題が生じてくる。

こうした制度からすれば、まるで問題はなく、報告者のいうとおりのように思えるかも知れないが、残念ながら、医療サービスは、国民へのヒューマンな医療理念と、その理念の実現を可能とする経済・財政環境により決定される。すべての制度は、時代を反映するものである。現在、キューバでは経済環境が困難で、せっかくのヒューマンな医療理念が十分に実現されていないのが実情である。その例を2,3あげよう。

⑦については、災害緊急派遣の場合は別として、一般的には人道的国際主義などというものではなく、基本的にはバーター取引で、キューバ政府は、医師サービス派遣料を受け取る。医師個人も④のように国内で不満をもってくすぶるよりも海外に出て、一月200ドル見当を貯金できるので満足している。しかし、家庭医3万4000人の半数以上が、海外に派遣されていることから、80年代は医師一人当たり500-700人を担当していたが、現在では3倍の1500-2000人を担当しなければならなくなっている。家庭医制度は再編成を余儀なくされている。

07年10月全国医療労働者総会で、「膨大な投資にもかかわらず、医療サービスの質が劣化しており、関係者の倫理と精神を急速に回復しなければならない」と厳しく批判された(Trabajadores, Noviembre 5, 2007)。また歯科医の問題も槍玉に挙げられ、少なからずの診療所が水、資材不足(アマルガム、麻酔薬、義歯など)で閉鎖されており、グランマ県のように241名の歯科医が80万人(一人当たり3320人)を対象としなければならないと報告されている。機器の故障、医療資材の不足、資材の横流し、闇医療の存在、治療に伴う金銭・贈り物の授受など、歪んだ現状が報告されている(Juventud Rebelde, Octubre 28, 2007)。世論調査では、診療所、病院の不衛生さが最も批判されている。

実際、視察する人々がキューバ政府に許可をえて訪問する(一般にはそれしかないが)診療所、病院などは、条件が整ったところで、1-2時間の視察では問題を掌握することはできないであろう。ところが、一般のキューバ人が入院しているところを見舞いにいくと、機器は壊れて使用されず、老朽化している。シーツは持参、食事はまずく家から持参、扇風機、ラジオ、テレビなども持参というのが一般的である。

昨年3月、「第10回グローバリゼーションと開発の問題についての国際エコノミスト会議」の全体会議で、日本にも来たアレイダ・ゲバラ医師が、発言を求められ、「私は、医師だが、家のドアを直すにも毎月の賃金では足りない膨大な金額を支払わねばならない。だからといって、医師だからアルバイトもできない。安心して医療活動に専念できないという社会はどこかおかしい」、一気にまくしたてて現状を批判した。彼女は来日中、各地で講演したが、キューバの医療を称賛する人々の前では言いづらかったのか、こうしたことは触れなかったようである。

(会議で発言中のアレイダさん-筆者撮影)
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革命後、50年経過して、キューバが社会主義をめざす中で、医療、教育、文化、スポーツの面で、他のラテンアメリカ諸国と比較して大きな前進を遂げたことはだれしも否定できないことである。そのことを前提としつつ、現在のキューバ医療制度の課題は、次のものがあげられるであろう。
 経済インフラの劣化
 医療施設の老朽化
 医療設備・機器の老朽化
 医療資材の不足
 研究資料の不足
 医療資材の横流し
 治療サービスの際の金品の授受
 医師・医療関係従事者の生活の保障
 医療関係者の倫理・モラルの低下

 さらに、現在、静かにキューバ社会全体の構造改革が進められている。その中で、物やサービスへの補助から、困窮者への補助に政策転換が図られようとしている。こうした中で、現在キューバの医療制度は、再構築される過程にある。

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2009年1月 9日 (金)

キューバについての7つの神話(3) 訂正とお詫び

4.キューバは、有機農業大国?

1月9日アップロードした文章に数字で不正確なところがありましたので、訂正して再度アップロードしました。訂正版をご覧ください。訂正してお詫び申し上げます。ただし、論旨は変わりません。

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キューバについての7つの神話(3) 訂正版

3.キューバは、有機農業大国? 訂正版

キューバの有機農業を扱った本を読むと、「有機農業大国」、「都市農業はすべて有機農業で行われ、主食の米の65%を生産」という言葉が躍っている。ある国会議員連盟の報告書でも、「キューバでは、野菜のほとんどすべてが有機栽培によって生産されている」と感動して報告されている。
 
テレビでも、昨年報道された著名なエコロジスト作家の番組でも「ソ連崩壊の後の食料危機を救ったのは有機農業」とナレーションが入る。

日本からは、常時「キューバ有機農業視察旅行」と題して、旅行社が競争のように企画を組んでいる。旅行社には安定した人数が見込めるのであろう。10数名、数十名でグループを組み、定番コースである農業省(ベラ農業相補佐官)、熱帯農業基礎研究所(アドルフォ・ロドリゲス所長)、オルガ・オオエさんの有機農場を訪問し、有機農業が行われていることを自分の目で確かめて、満足して帰国する。しかし、本当にそうであろうか?

フランスの17世紀の傑出したモラリスト(道徳家ではない、人間の本質についての思索家とでもいえようか)のラ・ロシュフコーは、「知はいつも情にしてやられる」と述べた。一方、イギリスの17世紀の哲学者フランシス・ベーコンは、「知は力なり」といっている。両方とも好きな言葉だが、社会変革には、やはり「知は力なり」だろう。

昨年キューバを訪問したあるテレビ局が、有機農業の実態を報道するため、ハバナ市上空から市内に密集して存在する(はずの)家庭菜園を撮影したいと、現地の日本のコーディネータ会社に依頼した。その会社の社長は、キューバに20年以上も住んでおり、実情を正確に知っているので、そういう場面はありませんと断ったが、テレビ・チームは「本に書かれているのですよ」と、なかなか納得してくれなかったという。

これらの人々は、すべて、地球環境を考え、人の健康を考え、農家の経営を考え、なんとか日本で有機農業を進めたいと考えている善意と情熱あふれる人々である。その高邁な精神は、高く評価したい。しかし、やはり「贔屓の引き倒し」、「ほめ殺し」になっては、本来の素晴らしい希望も生かされないのではないか。

ここで、訪問する先の視覚的印象から離れて、冷静な数字で農業生産を見てみよう。キューバ統計局の数字によれば、キューバの農作物栽培面積は、2006年合計で310万ヘクタール、そのうち砂糖キビ栽培地が120万ヘクタール、コーヒーとタバコが20万ヘクタールであるから、一般の食料生産には170万ヘクタールが当てられている。作物によって異なるが、収穫量は、報告書や調査してみると、良くて平均1平方メートルあたり10-20kgである。実際、2006年、一般食物(穀類、野菜)の全収穫量は560万トン(野菜260万トン、根菜220万トン、穀類73万トン)程度であった。上記のアドルフォ・ロドリゲス所長は2-3年前には都市農業で収穫は400万トンを超えたと報告していたが、昨年からその報告はなくなった。キューバきっての農業経済学の専門家、ハバナ大学教授のアルマンド・ノバさんがいうように、その数字はありえないのである。

一方、一人当たり年間食料消費量は、キューバの統計数字はないが、400kgとみると、総人口1120万人には年間450万トン必要である。これは、キューバの自給率がカロリー計算で50%程度ということと符合する。なお、お米は消費が90万トン、輸入が約60万トンで、国内生産が30万トン、つまり穀物計算(他にトウモロコシもあるが少量)の自給率は30%と報告されていることと一致する。

この食料の不足分を補うためにキューバは、毎年輸入総額の20%近くを費やさなければならない。特に、昨年度は農産物価格が高騰し、そのために前年度より8億4000万ドル以上も輸入額が増大した。そうしたことから、食料安全保障の観点をキューバは近年強め、なによりも食料の増産をはかっている。その切り札は、国有地の未使用地の一般市民、小農への貸付である。

ところで、上記のテレビ番組では、「キューバの土地はすべて国有地であり、農民、協同組合員は土地の使用権をもっているにすぎない」というナレーションがあった。中国やメキシコ(メヒコ)との勘違いかもしれないが、キューバ憲法第19条には、「国は農民の土地の所有権を認める」と明確に書いてある。有機農業問題は、農業問題の基本的なことであるので、ここから理解してほしいものである。なお、メキシコの場合、憲法に、「土地は本来、国民のものである」と記されているが、「国有」とは異なる。念のため。

さて、農業全体の生産分類は分かったとして、有機農業がどの程度実際の農業生産に寄与しているか、具体的な例を見てみよう。筆者は、昨年9月、ハバナ市のレグラ基礎行政区を訪問した。ここは所得が比較的低い層が多い地区として知られている。面積10.2平方キロで人口4万4000人である。この地区には1区画4分の1ヘクタールの有機栽培地が8箇所、合計2ヘクタールある。管理は国営企業、政府機関が行っている。ここでは、年間約60トン程度生産しているという。栽培品目は主にキャベツ、白菜、玉ねぎ、トマト、レタス、人参などの野菜である。4万4000人の住民が消費する食料は1万7600トン必要である。とても野菜が自給などといえる数字ではないことは明白である。こうした事情は、その他の協同組合生産基礎組織(UBPC)でも同じであった。キューバの有機農業は、食料生産の中での役割としては、あくまで補完的なものである。

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キューバ農業省の基本的な考え方は、前にも紹介したが、食料の増産が第一で、化学肥料、化学農薬は必要に応じて使用するというものである(Juventud Rebelde, Febrero 17, 2008)。有機農薬や有機肥料の使用を奨励はしているが、有機農業を奨励してはいない。キューバ稲作研究所(IIA)が発行している小規模稲作の技術マニュアルには、化学農薬、化学肥料の使用が謳われている(IIA, Tecnología del Cultivo del Arroz en Pequeña Escala, ACTAF, La Habana, 2008, pp.20-24.)。こうした政府の基本政策を、客観的に見ておく必要がある。

キューバ農林業技術協会(ACTAF)を訪問した際、「アンケートをとったところ、市民は、有機農産物に関心がなく、価格が安ければいいというものばかりだよ。生産者にも有機農業を行っているという意識がないし」と嘆いていたことが忘れられない。消費者にも生産者にも有機農業の理念がないところで、どれだけ発展するのだろうかとも思う。

しかし、今、食料増産の切り札は、昨年7月に制定された政令第259号で、未使用の国有地の使用権を農業・牧畜生産用に個人あるいは法人に認めるというものである。使用権は、10年期限で、個人には10年間、法人には25年間ずつ2回、50年間延長可能とされた。使用面積は、最高、個人は13.42 ㌶で、使用税(別途制定)が課せられる。

90年代に食料危機を救ったのは、①90年の危機発生後、配給制度(国民の1ヶ月の必要消費量の半分程度しか供給されないが)を政府が、外貨不足の中でも輸入を頑なに守り通して食料を供給したこと、②94年以降は、農産物の自由市場が開設され、生産者の生産意欲を刺激して生産物が市場に出回るようになったこと、③個人農を初め、協同組合員、国営農場の労働者がキューバの伝統である創意工夫(なんとかあるものを使う)を発揮して生産を継続したこと、④98年以降、政府の指導による都市農業の推進により生産が一定程度回復したことに、求められなければならない。食料事情が困難を極めたのは92-95年であり、そのとき有機農業が困難を救ったというのは時間的には例証できない。

今回の国有地の未使用地の貸付は、現在までにすでに20万ヘクタールを超えている。さらに貸付面積は増えで50万トン程度の増産にはなると思うが、協同組合生産基礎組織(UBPC)、一般協同組合、国営農場の生産意欲がわくような価格、集荷、生産計画の改革が不可欠であろう。

キューバの実情を美化し、希望をもって、予め決まった角度からの資料を集めても、実態は把握できない。キューバの有機農業の取組は、困難な中で、創意工夫をしながら、がんばっているのは評価できることである。今の現実の発展段階では、日本のわれわれも一緒になって有機農業を発展させるため相互交流し、相互に知識を交換しようということではないだろうか。「知は力なり」、「情もまた知にしてやられることもなきにしもあらず」と考えておこう。

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2009年1月 7日 (水)

キューバについての7つの神話(2)

キューバについての7つの神話(2)

3 走っている車はほとんどアメ車? 

 ハバナ市の風景がテレビで映る。走っている車はほとんど50年代のアメ車。ナレーションが入る。「これらは革命後キューバを出て行ったアメリカ人が残したものである」。また、旅行ガイドブック(日本人の書いた)は「道路にはアメ車があふれている」という。本当だろうか?

 問題は、どの地域で車を見ているかである。旧市街の観光地には、アメ車に乗せて稼ごうという個人タクシーや、白タクが集まっている。それをみて、「ほとんどがアメ車とか、アメ車であふれている」というのは、皮相な見方である。ハバナ市は人口が約220万人の大都市である。旧市街もあれば、新市街のベダード地区、かつての高級住宅地ミラマール地区、中間層のビボラ地区、貧困地区だったレグラ、ニュータウンのアラマール地区もある。どの地区で車を見ているかである。

事実を写真で見てみよう(筆者撮影) 写真をクリックすると大きくなります。

この写真は、新市街のベダードでの写真である。アメ車であふれていますか?
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また旧市街ではあるが、観光地でない税関の前の駐車場である。アメ車は何台あるでしょうか。
Photo


富裕層が住んでいたミラマールにあるシラ・ガルシア病院前。ここでもアメ車が多いとはいえませんね。
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筆者の調査では、乗用車は、アメ車は5%程度で、ソ連製のラーダが60%程度、あとモスコビッチ、フィアット、プジョー、ルノー、ヒュンダイ、ダイウ、トヨタ、ニッサンが見られる。もっとも1972年にアルゼンチンから購入したアルゼンチン製のフォード、シボレー、クライスラーも見られる。しかし、アメ車はいずれもパーツの安定供給が保障されず、シャシーと車体だけがアメ車で、エンジン、トランスミッションなど別という車も少なくない。キューバ人は、発明家なのである。

さて、キューバの自動車事情を歴史的に見れば、1950年代、キューバはラテンアメリカでも有数の自動車普及国であった。10万6000台を保有し、保有密度は1000平方キロメーターあたり921台、1000人当たり保有台数は19台で群を抜いていた。人口で同じ規模のチリは、それぞれ7万2000台、95台、12台であった。キューバは、米国式の生活文化圏にすっぽりはまっていたからである。

しかし、この10万台をすべて米国人が保有していたわけではない。革命勝利前、キューバに居住する米国人は、約8000人弱(全人口は600万人)であった。したがって、10万台の車の大半は富裕なキューバ人が保有していたものである。つまり、現在のアメ車は、米国人が残していったものだという表現は正確ではない。事実は、大半はキューバを去ったキューバ人が残していったものや、当時所有していた持主が維持している車である。

現在、自動車台数は、2006年度合計で75万台、1000人当たり67台で、チリの148台と大きな差が出てしまっている。

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キューバについての7つの神話(1) 増補版 09.01.15

キューバについての7つの神話(1)増補版09.01.14 

日本のキューバ案内本、ルポ、紹介本には、あまりにも事実を誤解あるいは曲解したものが少なくない。7つの代表的な例を何回かに分けて紹介したい。

1. 旧国会議事堂(現在はキューバ科学アカデミー)はホワイト・ハウスのコピー?
 キューバの旧国会議事堂(カピトリオ)をアメリカのホワイト・ハウスをまねて作ったものだと信じている人が少なからずいることに驚いている。昨年あるテレビ局にキューバの世界遺産の番組の監修を依頼されたとき、シナリオには「カピトリオは、アメリカのホワイト・ハウスをモデルに造られた」とあった。しかし、モデルはホワイト・ハウスでなくアメリカの国会議事堂である。2校、3校と訂正しても直してくれない。
どこにその原因があるかと調べてみると、あるトラベル・ライターの旅行ガイドに、「旧国会議事堂はこれこの通り、ホワイト・ハウスのコピーである」とカピトリオの写真が掲載してある。
(写真は筆者岡知和が撮影のもの)
Capitolio

しかし、彼は、アメリカのホワイト・ハウスの写真を掲載するのを忘れたようだ。

(ホワイト・ハウス)
Whitehousepicture



(アメリカ国会議事堂)
Capitolhill


間違いは、一目瞭然である。
このライターは、「その国に1ヵ月滞在すれば本が書ける」と豪語している才能の持主だが、遅筆な私は、そうした才能をうらやましく思うとともに、速筆は悪いことではないが、事実をしっかり確かめてほしいと思う。
なお、同ライターのエッセイやガイド本には、少なからずの事実の誤りがある。たとえば、「革命前にハバナ・ビエハ(アバナ・ビエハが適当)には、黒人は立ち入り禁止だった。食事のとき黒人と白人は同席できなかった」とある。しかし、まったくそういう事実はなかった。アバナ・ビエハ(旧市街)は、逆にもっとも黒人の人口密度は高かった区域である。第一ああした複雑な区域を黒人が入らないようにどうしてコントロールできるであろうか。黒人と白人は食事に同席することも、一緒に遊ぶこともあった。「ベニ・モレ物語」など映画にいくらでも出てくる。キューバにあった人種差別はそうした形ではなかった。

もう一つの例。「ハバナ・ヒルトンは、59年1月1日にオープン予定だったが、革命政府により同日接収された。一日も営業しなかった稀有なホテルだ」という。どこから、こうした知識を得たのだろう? 事実は、オープンは、58年3月。国有化されたのは、60年6月10日。革命政府は、そのように乱暴に権力にまかせて国有化したことはない。
 
そうした点では、旅行ガイドでは、Andrew Coe, Cuba, Odyssey, London, 1995は、学問的検証にも耐えうる秀逸な本である。文化水準の違いとは思わないが、ガイドを頼りに旅行する人々のことも考えてほしいものである。


2. 「永遠の勝利まで」? 増補版 09.01.15この問題に、最近関心が高まってきているようなので、必要最小限の追加をしておいた。
 1965年3月31日、エルネスト・「チェ」・ゲバラは、有名な「別れの手紙を」フィデル・カストロに渡した。翌日、ゲバラは、コンゴで武装闘争を行うためにキューバを去った。その手紙が読み上げられたのは、6ヶ月後の同年10月3日、キューバ共産党創立の記念集会においてであった。その時、ゲバラは、コンゴで武装闘争を行っており、食料供給が困難で、戦闘は苦境に陥っていた。

このコンゴでのたたかいを、ゲバラ自身『コンゴの革命戦争回想記』(Ernesto Che Guevara, Pasajes de la Guerra Revolucionaria: Congo, Grijalbo Mondadori, Milán, 1999)で、「これは失敗の歴史である。戦争のエピソードとして詳細な逸話を記す。しかし、もしこの回想が何らかの重要性をもつとしたら、他の革命運動のために役立つ経験を引き出すことができることにあると思われるので、観察と批判的精神をないまぜた物となっている」と苦い結果を述べている。
 
同年11月には、ゲバラは、コンゴで政府軍に破れ、コンゴを引き揚げ、タンザニアに滞在します。壊走してタンザニアに避難した。また、ニエレレ、タンザニア大統領からは、「革命の輸出になるので退去してほしい」と要求されていた。コンゴには武装闘争の客観的条件はなかったからである。ゲバラが、2月にカイロでナセル大統領に会って、コンゴでの闘争を語ったとき、ナセルは、驚き、「白人の君はすぐ分かってしまう。また、帝国主義者に、ゲバラと帝国主義者の傭兵の間には違いがないといわせるチャンスを与える。アフリカにキューバ人部隊を送れば、外国の干渉と呼ばれ、マイナスである。またコンゴには革命の条件がない」と述べ、「考えを忘れるよう」にいさめたという(Mohamed Heikal, The Cairo Documents, Dobuleday & Company, New York, 1973, pp.348-353)。

実は、ゲバラは、1年前の1964年半ば、ベネズエラ共産党にも、当時ベネズエラで行われて武装闘争に参加したい旨提案している。しかし、ベネズエラ共産党は、全国指導部会議において多数決でそれを否決した。理由は、ベネズエラでの武装闘争路線が間違っており、終結する過程にあったからである。同時にベネズエラのたたかいは、ベネズエラ人が行うものであるというベネズエラ共産党の原則的な考えがそこにはあった。

さて、タンザニアに滞在していたゲバラは、翌年3月、カストロのキューバへの帰国の進めに、失意のうちにプラハに向かい、5ヶ月滞在した。ゲバラは、「別れの手紙」が発表されており、今更キューバに帰るわけにもいかず、プラハから直接、アルゼンチンに向かい、そこで解放闘争を行おうと考えた。しかし、その条件がなく、カストロは、一旦キューバに帰国し、準備してボリビアに向かうことを進めた。7月ゲバラは、ボリビアでの戦闘訓練のためキューバに帰国。短期間、秘密裏に滞在したあと、10月キューバを出発し、ボリビアに向かった。

一方ボリビアではボリビア共産党は、「ボリビアには武装闘争の条件はなく、約束したのは、ゲバラが別の国でゲリラ戦を行うために、彼のボリビアの通過での協力を約束したのである」、「ボリビア共産党のいかなる幹部もボリビアで行われるゲリラ戦への参加を約束したことはなかった」と、当時のボリビア共産党の幹部、ホルヘ・コージェは後年述べている。

11月、ゲバラは、ボリビアに到着した。ボリビアでの戦闘員はわずか50名で、アルゼンチン人2名、キューバ人16名(うちキューバ共産党中央委員4名)、ボリビア人29名、ペルー人3名であり、しかもその後、隊列は増えることはなかった。人的にも、資金的にもキューバが進める武装闘争であった。この点が、キューバでのフィデル・カストロを指導者としたキューバ人主体で、広範なキューバ国民が支援した解放闘争とまったく違う点である。侵略戦争であれ、高邁な理想を掲げる解放闘争であれ、外国からの遠征軍は、結局は勝利を収めることはできないことは歴史が示していることである。それは、その国の客観的条件を正確に把握できないことと、広範な国民の物的・人的支持をえられないからである。根本的には、それぞれの国のことはそれぞれの国民が決定するという民族自決権の侵害という問題がそこにはある。

ゲバラ問題を考えるときには、ゲバラが①キューバの革命戦争に参加したときから(1957年)、キューバを出国するまでの時期(1965年4月)と、②その後のコンゴ、ボリビアの時期を区別して評価しなければならない。①の段階でのゲバラの経済路線も問題があったが、②の段階でのゲバラの他国での武装闘争は、各国の革命運動の自決権を無視したものであったことを見逃してはならない。

ここで、参考までに、ゲバラのボリビアでのゲリラ闘争の背景を若干説明しておこう。ゲバラは、彼自身の単独の考えによってボリビアで武装闘争を行おうとしたのではなかった。彼の「ボリビア計画」は、「アンデス計画」をボリビアに適用したものであった。「アンデス計画」とは、キューバが作った計画で、まずいろいろな国籍のラテンアメリカ人よりなる本隊を創り、適応期間が終われば、戦闘部隊を作り、キューバの反乱軍の経験に基づき、これが次第次第に他のラテンアメリカの地域に派遣するというものであった。ゲバラのボリビア計画は、キューバ革命政府指導部の指示のもとに、キューバ共産党中央委員会国際部中南米担当のピネイロが責任者となって推進したことが史料で明らかとなっている。それは、ピネイロによれば、次のようなものであった。

「先ずはボリビアに南米のいろいろな国籍をもつ戦闘員からなる本隊をつくり、その後アルゼンチンを初めとする南米地域にゲリラ部隊を派遣して、武装闘争を拡大する。これは帝国主義に支援された近隣の政府や軍隊の反撃を呼び、そのことはまた南米の武装闘争を拡大し、同時に凄惨な、長期の、困難なたたかいをもたらし、アメリカ帝国主義の介入をまねくこととなる。それは、とりもなおさずもう一つのベトナムとなるものであった(Entrevista con Cdte. Manuel Piñeiro por Luis Suárez Salazar, Tricontinental, Julio 1997)」。

これは、各国の民族自決権、各国の革命の自決権を無視したものであると同時に、人命を軽視し、ともかく無制限に武装闘争を各国に広げるという無政府的、冒険主義的な考えでもあり、とうてい各国の多くの国民の支持を得られるものではなかった。このことは、その後の歴史が示している。ボリビアの武装闘争の失敗から30年たった1997年の時点で、当時の責任者のピネイロが、内政干渉の問題、民族自決権の無視の問題など、なんの反省もなく語っていることは大変な驚きである。

ネバダ大学のトマス・ライト歴史学教授も、武装闘争の条件が存在すると主観的に判断したことを、武装闘争の失敗の根本的原因として指摘している。
「ゲバラのゲリラ理論は、キューバでのゲリラ闘争の経験に基づくといいながら、都市の労働者大衆のたたかいを軽視してはならないとはいいつつも、広範な反バチスタ闘争が存在したことを事実上無視し、『ゲリラ戦争』では都市の抵抗に2%しか当てておらず、ゲリラのフォコに論点を集中した。キューバ革命の大きな評価と英雄的なゲリラ戦士としてのゲバラの姿によって、彼の言葉は多くのラテンアメリカ人にとってゴスペルとなった。こうして、彼は、キューバ史をゆがめただけでなく、ラテンアメリカの革命に欠陥モデルを提起し、それによって多くのものを死に至らしめたのである」(Thomas C. Wright, Latin America in the Era of the Cuban Revolution, Praeger, West Port, 2001.)。
 ボリビア共産党の次の指摘は、客観的なものと思われる。
 「キューバ革命の勝利の結果、一部の知識人たちによってそれが一般化され、新しいこの概念が革命闘争の雰囲気の中で有効性が探求された。農村及び都市の非プロレタリア階層がその支持の源泉であった。その方法論、ゲリラ闘争、より適切には「フォコ」論、その社会主義の待望、こうした概念は、大陸的な広がりを見せたが、少なくともわれわれのボリビアの現実には沿わなかった」(1971年6月第3回ボリビア共産党大会での報告)。

さて、「別れの手紙」次のようなものだった。ゲバラらしいロマンティシズムに満ちた手紙である。

「アバーナ、
農業の年、
フィデル:
いま、わたしは多くのことを思い出している。マリア・アントニアの家できみに初めて会ったときのこと、きみが、わたしにクーバにくるように提案したときのこと、緊張した準傭期間のすべてのことを。
ある日、自分が死んだ場合だれに知らせたらよいかと、ひとりひとりに聞いたことがあり、そうした現実の可能性に全員が衝撃を受けたことがあった。その後、確かに革命においては勝利するか、死するかである(もしそれが真の革命であるなら)ことを知ることになった。多くの同志が勝利への道程で倒れたものだ。
・・・・・
きみやわれわれの国民に言いたいことはたくさんある。しかし、それは不要だと感じる。
言葉は、わたしの言いたいことを表現できず、手紙を汚すだけの価値もないからだ。常に勝利まで、祖国か死か。
あらゆる革命的情熱を持ってきみを抱擁する。
    
チェ」
 
このスペイン語の”Hasta la victoria siempre. Patria o Muerte”を一般には、「永遠の勝利まで」と訳していることが多い。しかし、この文章のままだと「常に勝利まで」(たたかいを続けよう)という意味である。マルクス主義を理解していたゲバラが、弁証法からして「永遠の勝利」があるとは思っているはずはない。キューバ人達の文章解釈も、「常に勝利まで」である。しかし、ゲバラの夫人、アレイダ・マルティがプラハで滞在中、ゲバラは、“Hasta la victoria, siempre Patria o Muerte”と書きたかった、カンマの位置を間違ったのだと語ったという(Aleida March, Evocación: mi vida al lado del Che, Espasa, Bogotá, 2008, p.204)。

その文章だと、「勝利まで、常に、祖国か死のスローガンでたたかおう」ということになる。ゲバラがいいたかったことは、「常に『祖国か死か』の精神で勝利までたたかおう」ということだったのである。これは、きわめてノーマルな論理である。史料批判からいえば、直接話し合ったアレイダ・マルチの説明が最も信用できる。いずれにせよ、現在のままでも本来ゲバラが望んだことからも「永遠の勝利まで」ではない。手書き原文をよく見ると、”Hasta la victoria. Siempre, Patria o Muerte”と読める。

それでは、「別れの手紙」の手書き原文、発表印刷原文と日本語訳(新藤通弘氏訳)を筆者が並べて構成したものを紹介しよう。カストロがこの手紙を改竄したという説が、発表当時より流布しているが、二つの原文史料を検討してみると、そういう事実は見当たらない。

下記参照

「carta_de_la_despedida.pdf」をダウンロード


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2009年1月 6日 (火)

端緒に着いたキューバの構造改革

端緒に着いたキューバの構造改革

『アジア・アフリカ研究』2008年第48巻第1号(通巻387号)所収
新藤通弘 Michihiro Sindo
Recently Started Structural Reform in Cuba

目次
I はじめに
II キューバ社会の歪んだ実態を指摘した発言
《補論》キューバの食料自給率
III 『グランマ』紙の読者投稿欄における議論
IV オマール・エベルレニ・ペレス、キューバ経済研究所副所長の指摘
《補論》二重通貨の問題
V 実施されている諸改革
VI 改革をめぐる様々な意見
VII 改革が進む中、緊張する米玖関係
VIII 今後の展望

I. はじめに
 現在、キューバで、静かに、しかし広範に政治・経済改革の論議が行われ、改革が進められている。その方法は、これまでと違って、予め何を行うかは発表せず、改革の肯定的な結果がでれば改革を発表するという方法で行われている。そして、改革を行うべき対象は、「改革されるべきことはすべて改革する」といわれている。キューバ社会の全面的な構造改革である。

また、改革は、社会主義の建設を進めるための改革とし位置づけられ、「社会主義を建設するためには戦術的、戦略的な大いなる多様性が必要とされているので、理論と実践の関係を厳格に考慮して、改革を行いつつ学び、学び総括しつつ改革を行うことが必要である」と強調されている。

キューバ経済は、近年の経済成長を見る限り2004年度より高度成長の軌道に入り、順調な発展を遂げているかのように見える(表1)。しかし、国民生活の実態は厳しく、各分野での不満が蓄積されている。パーベル・デル・ビダルの綿密な研究によると、近年の月額実質賃金は、国民が物資の品質はともかく、またサービスの不便はともかく、貯蓄もでき、平穏な日常生活を送ることができた80年代末の188ペソから、40ペソ程度に、つまり4分の1程度に下落しており(表2)、生活は大変、困難となっている。一般に平均的な市民の場合、一月の賃金は生活費の4分の1程度しかカバーできないからである(表3)。
 
詳細は、下記論文を参照こう。

「08.07.20 端緒についたキューバの構造改革.pdf」をダウンロード

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「キューバ危機」の発生、展開、回避の過程

「キューバ危機」の発生、展開、回避の過程
                                  岡 知和
『世界政治』1992年12月上旬No.874号掲載

カリブ海危機は、人類史上最大の核戦争の危機であったと言われる。ソ連が崩壊し、米ソ超大国の冷戦構造が変化し、核弾頭の大幅な削減が提案され、核問題の性質が大きく変化したとも言われる。しかし、現実には、核兵器に固執する勢力は根強く存在し、世界には数年間、依然として数万発の核兵器が存在することになっている。さらに、旧ソ連の諸共和国の核拡散、これまでの核保有国以外の国々の核保有志向などの問題もあいまって、核問題は依然として、世界人類にとって大きな問題となっている。人類史上最大の核戦争の危機といわれるカリブ海危機が、どのように発生し、どのように危機が回避されたか、そしてどのような教訓をわれわれに残したか、振り返ってみるのも、意味あることと思われる。近年米国・ソ連(ロシア)・キューバの間に当事者の参加による三者会議が開催されるとともに、関連資料も公表され始め、危機の内容は、かなり解明されている。最新の研究成果にも触れながら、以下危機の発生、発展、回避の過程、その教訓について、現段階でのまとめ述べてみたい。

この論文に、その後、明らかとなったキューバに持ち込まれた核弾頭数など新資料も追加してあります。
詳細は、下記論文を参照こう。
「missile_crisis.pdf」をダウンロード

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2009年1月 5日 (月)

21世紀におけるキューバ経済―前進と挑戦

『アジア・アフリカ研究』2004年第4号Vol.44 No.4号掲載

21世紀におけるキューバ経済―前進と挑戦
オマール・エベルレニ・ペレス・ビジャヌエバ
新藤通弘訳

オマール・エベルレニ・ペレス
1960年ハバナ生まれ。
国立ハバナ大学(経済学博士課程)卒。経済学博士。
1984年~現在:国立ハバナ大学経済学部教授。
国立ハバナ大学付属キューバ経済研究所副所長。
改革派のエコノミストとしてキューバの有数のエコノミスト。著書・論文多数。
2005年来日、各地で講演。

21世紀初頭のキューバ経済の現状と課題を、押さえた筆致ながら豊富な資料を使用して鋭く指摘した好論文。現在のキューバ経済を知るには格好の論文である。

「05.12.16 エベルレニ論文キューバ経済.pdf」をダウンロード

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キューバにおける有機農業―前進と課題―

キューバにおける有機農業―前進と課題―
Organic Agriculture in Cuba: Advances and Challenges
Santiago Rodríguez Castellón

サンティアゴ・ロドリゲス・カステヨン
森口舞・新藤通弘訳

(サンチャゴ・ロドリゲス・カステヨン。1959年生まれ。2006年3月没。当時、ハバナ大学付属のキューバ経済研究所(CEEC)の研究員、経済学博士、ハバナ大学助教授)

本稿は、2006年に執筆されたものであり、カステヨン博士の遺稿である。キューバで発表された初めての本格的なキューバの有機農業論である。3年が経過しているが、2009年の現状はほとんど変わっていず、本稿は有効性を失っていないので、ここに紹介する。

≪目次≫
はじめに
有機農業に関する一般的な側面
キューバにおける有機農業の現状
開発計画
中山間部での多作物栽培
有機生産の発展における弱点
最終的な考察
参考文献

はじめに
世界の有機農業運動の発展と、人類の環境分野における意識の向上は、従来の方法によって取得された食料への消費者の不信の拡大とあいまって、有機食料消費を加速度的に増大させている。
工業化された農業の危機の原因とその影響を考えると、変革の必要性は明白となっている。こうした必要性から、現在と将来の発展を保障するような、持続可能な形で農業生産の諸問題を解決するために、代替パラダイムが出現し発展している。有機農業は、こうした必要性へのひとつの回答となりうるであろう。
キューバは、この過程と無関係ではない。キューバでは、90年代初頭以降、幅広い地域で、化学資材の使用が減少した。それは、キューバの主要な貿易市場が消滅したとき、経済の収縮によって資材不足が起こされた結果であった。これによって国内の各地で、有機農業が導入された。
 本稿での目的は、キューバにおける有機農業運動の前進を分析することであり、それは、予想される問題点を検出し、有機農業の取組を改善するための戦略を決定する基礎として役立つであろう。

詳細は、下記論文を参照こう。


「07.05.16 キューバにおける有機農業、前進と課題 文末注.pdf」をダウンロード

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キューバ、ラウル指導下の500日

キューバ、ラウル指導下の500日
Cuba, 500 days under the Raul’s direction

目次
I. はじめに
II. フィデル・カストロの委託
III. ラウルが引き継いだ諸問題
IV. ラウル、順調に内外政策を遂行
V. 原則的かつ柔軟な外交
VI. 委託されたことは実行されたか?
VII. 人事のラウルの真髄
VIII. 構造的改革をめざして
IX. 激化する米玖対決
X. フィデルの実質的指導

2006年7月31日、フィデル・カストロ議長(1927-)が、4日前の手術後の病状を考慮して、権限をラウル・カストロ(1931-)他の人々に委譲してから、500日が経過した(以下、それぞれフィデル、ラウルと略)。1959年1月1日に反バチスタ独裁闘争が勝利を収めて以後の47年間、フィデルが、長期にわたり、政治の表舞台に姿を現さなかったことははじめてのことである。近年経済の高度成長が報告されているとはいえ、依然として食料、交通、住宅面で経済困難を抱えるキューバは、経済改革の過程で新たな格差問題、汚職・腐敗問題などの社会問題も抱えるようになっている。新たなラウル政権下で、それらがどのように取り組まれるのか、ポスト・フィデルのキューバはどこに向かうのか、キューバ内外で大きな関心を呼んでいる。筆者は、本稿において、ラウル指導下の500日をたどってこれらの関心事をいささかでも解明したいと思う。

詳細以下の論文を参照ください。

「キューバ、ラウル指導下の500日.pdf」をダウンロード

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2009年1月 4日 (日)

キューバ革命勝利50周年を迎えて

キューバ革命勝利50周年を迎えて

ラウルがしばしば引用するように、キューバ解放のたたかいは、1953年7月26日にサンティアゴとバヤモの兵営をフィデルたち青年が襲撃してから、ちょうど5年、5カ月、5日後の1959年1月1日に勝利を収めた。キューバ革命の歴史を、ラウルが気にいっている5の数字を重視して、5 x 5 =25 周年と5 x 5 x 2 =50 周年でどう発展したか、簡単に振り返ってみよう。なお、フィデルは、13、26、52という倍数が気にいっている。8月13日は誕生日、1926年(実は27年生まれ)は誕生年、1952年にバチスタがクーデターを起こし、決定的なたたかいを開始する。

(写真をクリックしてください。いろいろな画像がでてきます)


Aniversario50


50年前の1959年1月1日、フィデル・カストロ(32歳)は、サンティアゴのセスペデス広場で感動の中で述べた。
「ついにサンティアコに着いた。厳しく、長い道のりであった。しかし、われわれは着いたのだ。今、革命が始まる。革命は、容易な課題ではないだろう。革命は、困難な危険に満ち溢れた事業となろう」。
「われわれは、すべての問題が簡単に解決されるだろうとは思っていない。道は、障害で一杯であろう。しかし、われわれは、未来を信頼している人間であり、未来を信頼して常に大きな困難と立ち向かっていこう」。

Aniversario250


5年x5年、25年後の1984年1月1日、フィデル(57歳)は、サンティアゴの同じ広場で、25年を回顧して述べた。
「あの日の基本的な考えは、また1953年7月26日の前の年月にわれわれが抱いていた考えは、今も、将来も常に生きている」。
「生産と国防は、今日のわれわれの基本的なスローガンである。生産とサービスが発展し、われわれが同胞の福祉、未来と幸福のために、たたかえばたたかうほど、わが国民は祖国と革命を守るであろう」。
「サンティアゴ・デ・クーバよ、25周年が経過して革命を実現し、すべての約束を果たして、あなたの前に戻ってきたのだ」。

さらに25年経過して、50年が経過した本年1月1日、ラウル議長は、同じサンティアゴの広場で記念演説を行った。
「1959年1月1日、キューバ国民は、初めて政治権力を掌握した。その時、60年にわたるアメリカ帝国主義の絶対的な支配を打ち破ったのである」。
「われわれは、二度と貧窮、恥辱、酷使、不正義をわが国に戻すことはない。二度と母親の心を痛ませたり、また正直なキューバ国民の魂が恥ずかしく感じさせたりはしない」。Raul_santiago

「わが国民は、自らの腕で立ち上げて、生命の危険を冒して守った事業が不完全であることを知っている。われわれは、弱点や誤りを公然と明らかにすることをためらったことはない。そうした例は、過去にも最近でも沢山ある」。
「『われわれは、すべての問題が、簡単に解決されるとは思わない。道は、障害で一杯であると知っている』というフィデルの言葉を思い出そう」。
 
最近、ブラジルのルーラ大統領の政治顧問、マルコ・アウレリオ・ガルシアが、簡潔に、キューバ革命の歴史的役割について、次のように述べている。
「いくつもの世代のブラジル人は、キューバのモデルを参考にして政治活動に入った。そのモデルとは、主権を擁護し、社会改革の成果である」。
 
このキューバ革命の評価は、だれも否定できないものであろう。

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キューバ文化に高まる関心

キューバ文化に高まる関心
 
 最近、キューバ(スペイン語ではクーバ)文化への関心が高まっています。ポピュラー音楽のブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ、イサーク・デルガード、チューチョ・バルデスの公演、映画の「ビバ!ビバ!キューバ」、「バスを待ちながら」、「ハバナ組曲」、「コマンダンテ」の上演、絵画のフローラ・フォンなどの女流作家展、ネルソン・ドミンゲス、チョコなどの個展、文学のアレホ・カルペンティエールの小説「春の祭典」の出版など好評を博しています。なぜ、キューバ文化は私たちを魅了するのでしょうか。いくつかの側面を探って見たいと思います。

Creatividad(創造性) 
キューバ文化のひとつの特徴は、その創造性にあります。この創造性は、国民性として植民地時代から培われてきたものですが、革命勝利後(1959年)、芸術家の生活が基本的に保障されたことと、芸術表現において政府の介入がなかったことから一層育まれたものです。Lam3mundo_1966_2
60年代初頭、文化問題にも深い関心をもっていた工業相(当時)のゲバラは、労働者の生活などの社会生活を画一的に描く「社会主義リアリズム」でなく、社会主義社会の「新しい人間」にふさわしい前衛的な芸術表現の必要性を主張し、それがキューバ政府のその後の政策となりました。各芸術家は、悪しき商業主義に堕することなく、芸術創造に打ち込むことができる環境にあるのです。(ウイルフレド・ラム『第三世界』1966年)


Universalidad(普遍性)
キューバ芸術は、普遍性をもっています。恋愛、家族愛、祖国愛、」女性の自立(映画『ルシア』)、セックス(映画『イチゴとチョコレート』)、社会の相互間の協力、あるいは官僚主義批判(映画、『ある官僚の死』、『グアンタナメーラ』)などのテーマは、よく取り上げられている題材です。Fresa_til_cine
映画、小説、クラッシック音楽、クラッシック・バレーなどで、国際的にも優れたアーティストが輩出しています。こうした背景には、カストロ首相(当時)が、アメリカの武力干渉(プラヤ・ヒロン事件)が行われた1961年に知識人との対話で述べた、「革命政府を打倒しよういうものでないかぎり、芸術表現に国は介入しない」という、一定の表現の自由を認める文化政策があります。

Base(基礎)
キューバの芸術創作活動の基礎、裾野は広く、各分野で才能あるアーティストが見られます。1961年の識字運動によって基本的には文盲が一掃されました。また教育は基本的には無料とされ、書籍、映画、劇、音楽の入場料も誰もがアクセスできる低価格に抑えられました。芸術高等学校(ENA),芸術大学(ISA)の設立によって、才能があるものはだれでもアーティストとして学ぶことができるようにもなりました。彼らは、中学校の段階から芸術学校にいき、一般教育とともに、各芸術分野の基礎知識を徹底して学びます。その結果、キューバのアーティストは、基本をしっかりマスターしていることが特徴です。ジャズ・ピアニストのゴンサロ・ルバルカバが日本で弾いたバッハの平均律クラヴィーアには日本の専門家も目を丸くしました。Rubalcaba (ゴンサロ・ルバルカバ)
スポーツでも、身体能力に優れた子供は、中学校の段階から体育学校に進みます。そして一般教育とともに、スポーツ医学、理論を学びます。野球、バレー、ボクシング、陸上に優れた選手が輩出しています。

Afrocubanismo(アフロクバニスモ)
 キューバ文化は、スペインのヨーロッパ文化とアフリカ系黒人の文化が混交したもの、すなわちアフロクーバ文化と呼ばれています。ポピュラー音楽においては、楽器、リズム、作曲・演奏形式に、黒人文化の影響が少なからずみられます。キューバにはスペインの植民地時代にアフリカから100万人にのぼる黒人が奴隷として強制的に連行されました。インディオ原住民は、過酷な奴隷使役で16世紀末にはほぼ絶滅し、インディオ文化の影響は見られません。
バイタリティーあふれる黒人の文化に、熱帯特有の陽気さ、明るさ、59年以来のキューバ政府の社会改革、人種差別の一掃、民族文化の振興政策が加わって、アフロクーバ文化が一層豊かになったのです。Dayron_robles

 しかし、海外での高収入を夢見て海外に亡命するアーティストやスポーツマンも見られます。また海外で得た収入を国の文化基盤の整備や次世代の教育設備の投資のために一部を還元するのを嫌う傾向も見られます。こうした傾向をどう克服するか、今後の課題と思われます。(ダイロン・ロブレス、北京オリンピック110M障害金メダリスト)

 キューバ文化の特徴をたどると、CUBAとなってしまいました。不思議なことですね。

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米国の対キューバ経済封鎖資料(1)

米国の対キューバ経済封鎖資料 (1)

米国は、1962年からキューバに対して全面的禁輸措置を取っています。これは、よく「経済制裁」ともいわれていますが、「制裁」とは米国の政策が正当であるかの誤解を与えます。キューバは、米国の企図がキューバ革命を全面的禁輸措置(革命勝利前、対米貿易は全貿易の70%以上を占めた)によって圧殺しようということから、これを「封鎖」と呼んでいます。

08年10月29日第63回国連総会において、決議案A/63/L4、「米国の対キューバ経済封鎖・通商・金融封鎖を解除する必要性」が、賛成185カ国、反対3国(アメリカ、イスラエル、パラオ)、棄権2カ国(マーシャル諸島、ミクロネシア)という圧倒的大差で採択されました。昨年欠席のアルバニアが賛成に回り、賛成国は昨年と比較して1カ国増え、国連加盟国192カ国の96.4%が賛成しました。

これで、米国の不当ないわゆる「対キューバ経済封鎖」政策は、17年連続して国際社会の圧倒的な意見で解除が要求されたことになります。この決議の採択について、デスコト国連総会議長が述べているように、国際社会は、「ほぼ満場一致」で米国の対キューバ経済封鎖が、国連憲章、国際法、民族自決権、内部問題不干渉、国内政策の域外適用、自由貿易に反するものとして、厳しく批判しました。解除賛成演説で、非同盟諸国代表、グループ77+中国代表、カリブ共同体代表、南米南部共同体代表、欧州共同体代表などが、一様に時代遅れの不当な米国政府の政策を批判しています。今や、国際的に孤立しているのは、米国政府であることが、明確になっています。

今回の解除決議は、米国内では大統領選挙間近で、国民が新自由主義政策の悲惨な結果から国内政策の真の変化を望んでいること、イラク戦争に見られる米国の単独行動主義外交が破綻して、外交についても国民が変化を望んでいること、米国の新自由主義グローバリゼーションが破綻し、米国発の金融・経済危機が世界に波及して、国際的な協調が必要とされているという新たな状況の中で行われたことが大きな意味を持っています。

こうした国の内外の状況から、米国の新しい大統領は、国内、国際世論を尊重して、現在のキューバ政府と、対等・平等・互恵・相互尊重・内部問題不干渉・民族自決権の尊重の原則に立って、無条件で話し合いのイニシアティブを取ることが要求されています。

国連総会における米国の対キューバ経済封鎖解除決議投票結果1992-2008
決議正式名称:「米国の対キューバ経済・通商・金融封鎖解除の必要性」

年度  賛成   反対    棄権   欠席
1992 59 3 71 46
1993 88 4 57 35
1994 101 2 48 33
1995 117 3 38 27
1996 137 3 25 20
1997 143 3 17 22
1998 157 2 12 14
1999 155 2 8 23
2000 167 3 4 15
2001 167 3 3 16
2002 173 3 4 11
2003 179 3 2 7
2004 179 4 1 7
2005 182 4 1 4
2006 183 4 1 4
2007 184 4 1 3
2008 185 3 2 2

反対国:2004年 アメリカ、イスラエル、マーシャル諸島、パラオ
    2005年 アメリカ、イスラエル、マーシャル諸島、パラオ
    2006年 アメリカ、イスラエル、マーシャル諸島、パラオ
    2007年 アメリカ、イスラエル、マーシャル諸島、パラオ
    2008年 アメリカ、イスラエル、パラオ
    日本は、97年より賛成投票。
2004年棄権国(1):ミクロネシア
2004年欠席国(7):エルサルバドル、イラク、モロッコ、ベリア、ニカラグア、ウズベキスタン、バヌアツ。
2005年棄権国(1):ミクロネシア
2005年欠席国(4):ニカラグア、エルサルバドル、モロッコ、イラク
2006年棄権国(1):ミクロネシア
2006年欠席国(4):コートジボワール、エルサルバドル、イラク、ニカラグア
2007年棄権国(1):ミクロネシア
2007年欠席国(3):アルバニア、エルサルバドル、イラク
2008年棄権国(2):マーシャル諸島、ミクロネシア
2008年欠席国(2):エルサルバドル、イラク

キューバの累積損害額1962年以降 (キューバ政府発表):
2004年:793億ドル
2005年:820億ドル
2006年:860億ドル
2007年:890億ドル (時価評価額2,220億ドル)
2008年:930億ドル(時価評価額2,246億ドル)

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米国の対キューバ経済封鎖資料 (2)

米国の対キューバ経済封鎖資料 (2)

第63回国連総会決議第A/RES/63/7号
                        2008年10月29日

アメリカ合衆国の対キューバ経済・通商・金融封鎖解除の必要性

 国連総会は、
国連憲章において定められている神聖な目的と原則を厳粛に尊重することを決意して、
 
 それらの原則の中でも、また多くの国際司法機関においても定められている神聖な原則、すなわち諸国間の主権の平等、内部問題に対する不干渉・不介入、国際通商・航行の自由を再確認して、
 
 一方の国から他の方国に対して、国際通商の自由な流れを阻害する、経済的、通商的措置の一方的な適用を廃止する必要性に関して、これまでのイベロアメリカ首脳会議において国家元首または政府首班によって作成された宣言を考慮して、
 
 1996年3月12日に公布された「ヘルムズ=バートン法」として知られているような法律あるいは規制措置が、加盟諸国によって引き続き公布され、適用されていること、また同法が、米国の領域外に適用され、他国の主権、他国の法制下にある企業及び個人の合法的利益、また通商・航海の自由を侵害していることを憂慮して、
 いろいろな政府間会議、機関、政府の宣言及び決議が、前述した種類の措置の公布と適用に対する国際社会及び世論の拒否を表明していることを考慮して、
  
 1992年11月24日の決議第47/19号、1993年11月3日の決議第48/16号、1994年10月26日の決議第49/9号、1995年11月2日の決議第50/10号、1996年11月12日の決議第51/17号、1997年11月5日の決議第52/10号、1998年10月14日の決議第53/4号、1999年11月9日の決議第54/21号、2000年11月9日の決議第55/20号、2001年11月27日の決議第56/9号、2002年11月12日の決議57/11号、2003年11月4日の決議58/7号、2004年10月28日の決議59/11号及び2005年11月8日の決議60/12号、2006年11月8日の決議61/11及び2007年10月30日の決議62/3を想起して、
 
 決議第47/19、決議第48/16号、決議49/9号、決議第50/10号、決議第51/17号、決議第52/10号、決議第53/4号、決議第54/21号、決議第55/20号、決議第56/9号、決議57/11号、決議58/7号、決議59/11号、決議60/12号、決議61/11及び決議62/3の採択後に、キューバに対する経済・通商・金融封鎖を強化し、拡大することを目的としたこの種の新たな諸措置が引き続き公布され、適用されていることを憂慮し、またキューバ国民と他国に居住するキューバ国民に対するこれらの措置の否定的影響をも憂慮し、

1. 決議第62/3号の履行についての事務総長報告を考慮する。
2. すべての加盟国は、とりわけ通商と航行の自由を再確認している国連憲章及び国際法に従って義務を果たすべく、本決議の前文において指摘されている種類の法律及び措置を公布し、適用することを謹むよう、再度呼びかける。
3. この種の法律及び措置が存在し、それらを引き続き実行している各国に対して、できるだけ短期間に、その法制度に従って、それらを廃棄するか、無効とするための必要な措置を取るよう、再度切望する。
4. 国連憲章及び国際法の目的と原則に照らして、本決議の履行についての報告を、然るべき国連の諸機関及び諸組織と協議して準備し、それを第64回国連総会に提出するよう、事務総長に要請する。
5. 第64回国連総会の暫定計画に議題「米国の対キューバ経済・通商・金融封鎖解除の必要性」を含めることを決定する。

第62回国連総会、2008年10月29日
(新藤通弘訳)

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2009年1月 3日 (土)

キューバにおける都市農業・有機農業の歴史的位相

日本においては、キューバの有機農業に関しては、都市農業との混同があったり、キューバ側の基準を無視して有機農業と思い込んだり、少なからずの混乱が見られる。まずはキューバには未だキューバで有機農業の統一基準さえないことを理解しておかなければならない。国民の間には農業指導者も、生産者も、消費者も有機農業という概念をもっているのは極めて一部の人である。以下に、キューバの有機農業を論じた論文を紹介したい。

『アジア・アフリカ研究』2007年第2号Vol.47 No.2 通巻384号掲載

「キューバにおける都市農業・有機農業の歴史的位相 参考文献付.pdf」をダウンロード

(補論1) 都市農業の規定
一体、キューバでいわれる都市農業とはどういうものであろうか。全国都市農業グループ責任者のアドルフォ・ロドリゲスによれば、次のような地域で行われる農業が都市農業と規定されている 。

① ハバナ首都圏、及びハバナ県全体。
② 12県の県都の中心から10キロメーター周辺の地域。
③ 169の基礎行政区(Municipal)の中心から5キロメーター周辺の地域。
④ 1000人以上の村落の中心から2キロメーター周辺の地域。
⑤ 住宅15戸以上の村落で住宅に隣接して自給用に栽培される土地。

この内、注目されるのは、ハバナ県(面積5,732平方キロ でほぼ三重県に相当し、人口729,000人で島根県に相当する)全体が、都市農業区域に指定されていることである。ハバナ県を旅行すると分かるが、ハバナ市の郊外に出ると、一面の平野であり、そこで行われている農業は、とても都市農業の概念と結びつかない。また県都の市街地は普通5キロメーター以内であり、それを超えると農村地帯となる。基礎行政区にしても2-3キロメーター以外は農村地帯である。キューバの場合、かなりの地域が、本来の都市農業の概念から離れた、一般農業区域も含むものであることを理解しておく必要があろう。つまり、都市農業の生産量として発表される数字の中には、本来の都市農業とはかけ離れた自然条件の中で生産されているものも、少なからず含まれているのである。

ハバナ東部30キロのところにある農村。この農業もキューバの基準では都市農業となる。
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一般にはキューバの都市農業は、すべて有機農業であるといわれる 。しかし、以上でわかるように都市農業は、すべてが有機農業ではない。

(補論2)
08年2月キューバ青年共産同盟機関紙「フベントゥ・レベルデ」紙は、「肥料の『有機的』ジレンマ」という題で、有機肥料の問題点を次のように指摘した(Juventud Rebelde, Febrero 17, 2008)。

1. 有機肥料は、非常時に入り、化学肥料が不足する中で、使用を余儀なくされたものであり、使用している農民は、その意義、利点を理解しているものは少ない。
2. 有機農産物に対する特別価格もなく、農民に生産上の刺激を与えない。
3. 国民の中に有機農産物により高い価格を払ってもよいという考えが存在しない。
4. 近年、外貨事情の回復により、再び化学肥料の輸入が増大しており(9万トンから16万トンに)、さらにシエンフエゴスに肥料プラントの増設も計画されており、使用を余儀なくされたとはいえ、有機肥料により、土壌が改良された利点に逆行するという人もいる。
5. 実際、最大の目的は食料の増産であり、有機肥料を使用すること自体が目的でなく、栽培品目、そこでの土壌の質、栽培方法によって、有機肥料だけでもよい場合、化学肥料だけで良い場合、化学肥料と合わせて使用することが良い場合とある。この併合使用が、キューバの農業省の方針である。
6. それぞれ、具体的にどの方法がいいかは、詳細な調査・研究が必要だが、まだ、その条件がキューバにはない。

 このような見方は、筆者が08年8月キューバで農業調査を行った際に、農業関係組織で一様な見方であった。キューバで調査を行う場合、関心があるとして、有機農業関係の場所を申請すれば、該当場所に案内してもらえ、それでもって有機農業が行われていると単純に理解してはならない。農業関係全体の調査を行い、その中で都市農業・有機農業がどのように認識され、取り組まれているかを理解しなければならない。

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ラテンアメリカ文化の系譜

多様な人種・言語
アメリカ合衆国(以下米国)とメキシコ合衆国の間を、リオ・グランデという川が流れ、国境をなしています。ここから最南端のアルゼンチン・チリ領のフエゴ島まで、約1万1000キロメートルあまり、日本の九州の南端から、ニュージーランドの遥か南に及ぶ広大な、この地域は、正式には「ラテンアメリカ・カリブ海地域(以下中南米)」と呼ばれています。この地域は、亜熱帯、熱帯、温帯、寒帯を含む、約2042万平方キロ、日本の54倍の面積です。ここには、33カ国と14の未独立地域があり、スペイン語、ポルトガル語、先住民インディオの言語、英語、フランス語などを話す様々な人種、5億3400万人が生活しています。
 
米国との圧倒的な経済力の差
今、憲法9条を守る運動などの市民運動で大活躍をされた作家の小田実さんは、50年以上も前、リオ・グランデ川の橋を渡って米国からメキシコに国境を越えたとき、生活水準の余りの格差に絶句した様子を、青春の著書「何でも見てやろう」に生き生きと書いています。しかし、この圧倒的な経済力の差、米国の南の「裏庭」への支配は基本的には変わっていません。
 
栄えた先住民文明
インディオと呼ばれる先住民の祖先は、約2万1000年前から1万8000年前にかけて、北東アジアから凍結したベーリング陸橋を渡ってアラスカに到着、約1万2000年前に南進し、紀元前8000年ごろ、アメリカ大陸の各地で定住を開始しました。彼らは、とうもろこし、まめ、トマト、かぼちゃなどを栽培し、農耕生活を営みながら文明を発展させ、メキシコ地域では、紀元300年から900年ごろマヤ文化を、11世紀から16世紀初頭にかけてアステカ王国を建設しました。またアンデス地域では、15世紀後半には、中央アンデス全域にまたがるインカ帝国を建設しました。

ラテンアメリカの「発見」と先住民・黒人文化との融合
 1492年、クリストバル・コロンが、ヨーロッパの地理的・領土的拡大ブームにのってカリブ海の島々に到着したとき、インディオをみて彼は、東洋の黄金の国シパング(日本)に到着したことを疑いませんでした。しかし、その後イタリアのアメリゴ・ヴェスプッチは、自らのこの地域の探検の結果から、この地域は「新大陸」という見解を発表しました。そこで1507年ドイツの地図製作家マルティン・ヴァルドゼーミューラーが世界地図で大陸として扱い、アメリカと名づけました。そして、1856年、南北アメリカの地域がほぼ独立を達成したあと、コロンビア人のホセ・マリア・トレス・カイセドが、北の強国、アングロサクソンの系譜を引く米国と対比して、ラテン語から発生したスペイン語、ポルトガル語、フランス語を使用する独立国の地域をラテンアメリカと呼びました。

15世紀末、中南米地域には、約4000万人の先住民が住んでいました。しかし、先住民は、征服者たちの過酷な奴隷使役によって半世紀の間に10分の1に激減しました。そこで、広大な植民地経営の労働力を補うためにアフリカから、4世紀にわたり1000万人にのぼる黒人が、故郷を奪われ奴隷として強制的に「新」大陸に連行されました。
その結果、中南米には、大きく分けて、黒人奴隷がもたらしたアフリカ文化とイベリア半島の文化が融合した地域(アフロ・アメリカ文化、キューバ、ブラジル、ベネズエラ沿岸地域、カリブ海地域)、先住民のインディオとスペイン人・ポルトガル人の混血が進み、イベリア文化と融合した地域(メスティーソ・アメリカ文化、メキシコ、中米、コロンビア、ペルー、ボリビアなど)、インディオ住民が比較的希薄は地域(ユーロ・アメリカ文化、アルゼンチン、ウルグアイ、チリなど)、インディオの人口が稠密な地域(インディオ・アメリカ文化、メキシコ、グアテマラ、アンデス地域の山間部)の4つの文化が見られます。

各地の個性豊かな文化
こうした歴史から、中南米文化においては、歴史的には否定的な要素が、かえって文化に多様性を与え、文化の発展を豊かにしています。音楽では、いずれもヨーロッパ音楽を基調としつつ、アフロ・アメリカ文化のカリブ海地域では、黒人文化のパーカッションの強烈なリズムが魅力的な音楽が支配的ですし、メスティーソ・アメリカ文化のメキシコやアンデス地域では、哀愁を帯びた甘いメロディーが親しまれています。インディオ・アメリカ文化のエクアドル、ペルーや、ボリビアなどでは、先住民の系譜を引く木管楽器による短調の哀調の曲が好まれます。アルゼンチンでは、ドイツで発明されたバンドネオンの音が胸にしみるタンゴに国民的な人気があります。文学でも絵画でも、イベリアやヨーロッパの影響を強く受けながら、近年は複雑な政治・社会・経済・文化構造を反映して、リアリズムを超えたシュルリアリズム的傾向が強く見られます。

独自の文化と共通文化
19世紀の初頭から半世紀にわたって、ほとんどの中南米の国々は独立を達成し、1870年代から資本主義の発展の道を歩み始めますが、その後、大土地所有制(ラティフンディオ)や、少数の家族による寡頭制支配(オリガルキア)、極端な貧富の差、少数の一次産品(農産物・鉱産物)に依存するモノカルチャー経済、カトリック教会と結びついた保守層の政治支配、イギリスやアメリカの資本や干渉政策による帝国主義支配に苦しみます。

1960年代からは、国内の専制政治と米国の支配と決別し、社会主義社会の建設をめざしているキューバに続いて、ブラジル、ペルー、パナマ、ボリビア、チリ、ニカラグア、グレナダ、エルサルバドルなどで、社会変革の試みが行われましたが、キューバを除いてアメリカ帝国主義と結託した国内の反動層の巻き返しにより、いずれも失敗しました。

しかし、90年代末以降、ベネズエラを初めとして、再び、米国の支配に別れを告げて、自主的により公正な社会を作る動きが各国で強まっています。その中で、各国で独自の文化の再発見とその育成がはかられています。独自性と共通性をもった豊かなラテンアメリカ・カリブ海文化が育ちつつあります。

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キューバ史における米国の世界戦略

キューバと米国の関係は、その時々の米国の世界覇権戦略を如実に反映している。米国の世界覇権戦略が、明確な干渉・圧力の形で対キューバ政策として実行され、キューバ側も民族自決権擁護の立場から激しくそれに対峙する。新しく生まれるオバマ政権は、外交政策でも、「チェンジ」をもたらせるでしょうか。注目されるところである。

米国の世界戦略を如実に反映する米玖関係
 キューバとアメリカ合衆国(米国)の関係(米玖)は、当然のことながら、その時々の米国の世界覇権戦略を反映している。しかし、両国の地理的な近接関係、歴史的な支配・従属関係から、米国の世界覇権戦略は、実に明確な干渉・圧力の形で対キューバ政策として実行された。それに対し、キューバ側も民族自決権擁護の立場から激しくそれに対峙していくという図式が見られる。米国の世界覇権戦略とそれへの対応がこれほどまでに具体的に現れる国、あるいは地域は少ないであろう。

それは、その他の多くのラテンアメリカ・カリブ海諸国の独立が、国民国家の形成を伴わなかった独立であったのと違って、キューバの独立は、キューバの国民意識の形成を基礎にして1868年独立運動が展開され、1902年独立とともに米国の間接支配の下とはいえ国民国家が形成されたことから、キューバ国民が強い国民意識をもっているからであると筆者は考えている。

歴史的に見れば、米国のキューバ敵視・干渉政策が強ければ強いほど、キューバ側の対応も自立した政権の存続をかけた厳しいものとなる。そしてその対応の過程で、しばしばキューバの対応は、自ら重要性を強調している平等・互恵、民族自決権の尊重、内部問題不干渉などの国際関係の原則が背景に追いやられて、国際政治力学を優先したものとなる場合も見られる。1960年代のラテンアメリカ各国での武装闘争へのキューバの支援は、武装闘争の鎮圧作戦への米国の関与に対して対抗するという観点から、またラテンアメリカの武装闘争の発展は、国際情勢の力関係がキューバにとって有利になるという判断から行われたが、ベネズエラやボリビアでのキューバの支援・介入は、民族自決権の観点からは問題を含むものであった。1968年のソ連のチェコスロバキア侵略、1979年のソ連のアフガニスタン侵略は、いずれもソ連による明白な民族自決権の侵害であったが、キューバは、「ファシストや帝国主義の攻撃から社会主義陣営の利益を擁護することを優先して」これらの侵略を支持したのであった。

米国の独立直後から、キューバ併合を企図
米国とキューバの対立は、1959年1月にキューバにおいて社会主義をめざす政権が生まれたからではない。それは、19世紀以来の米国の対外膨張主義、アメリカ帝国主義とキューバの独立をめざすたたかいの中で生まれたものである。59年のキューバ革命の勝利までに、その後の米玖対立の原型がすでに生まれていたのである。

1776年独立を達成した米国は、1803年フランスよりルイジアナ全域を購入し、領土を2倍に拡大したことを皮切りに膨張を続け、米国に神から与えられた「明白な運命」という主張のもとに、1948年メキシコの半分以上の領土を獲得し「大陸帝国」を実現した。米国のキューバへの関心は、米国の膨張政策と軌を一にしている。キューバがカリブ海の要衝に位置するという地政学的な重要性とその豊かな経済的資源から、米国は、19世紀初頭からキューバ併合を主張している。1801年にはトマス・ジェファソン大統領がキューバに対する領土的関心を述べたし、1823年には、アダムズ国務長官は,「熟れたリンゴの自然落下」論によりキューバの併合を主張、1848年にはポーク大統領が、1854年にはピアス大統領が、スペインからキューバの買収あるいは掠奪を企図したりした。

その後米国は、1890年には、フロンティア・ラインが消滅し、資本主義が興隆して帝国主義段階に入り、「明白な運命」論が再燃し、海外膨張主義の時代に入った。その外交は、棍棒外交あるいは砲艦外交(1904年)といわれている。この米国の帝国主義的野望を鋭く指摘したのは、キューバ独立の父といわれるホセ・マルティであった。マルティは、1895年アメリカ帝国主義の野望とそれを阻止するキューバの役割を次のように指摘している。 

「米国が、アンティル諸島に手をのばし、さらにより強大な力で、アメリカのわれらの国ぐにを支配しようとすることを、キューバの独立でもって適時に阻止するのが、私の義務です。そして、わが国とその義務のために、私は、生命をささげる危険に連日さらされているのです。・・・私は怪物の中に住んだことがありますので、その胎内を知っています。私の投石器はダビデと同じものです」。

■キューバ独立するも米国の半植民地に
キューバの第二次独立戦争(1895-98)は、アメリカの干渉を受け、米国のキューバへの干渉権を合法化する「プラット修正条項」が憲法に附則として認めさせられた。そのため、キューバは、1959年までは「間接支配された」共和国と呼ばれている。まさに半独立国、あるいはレーニンのいう半植民地であり、米国の新植民地主義支配の典型であった。

20世紀初頭、金融資本が独占段階に到達した米国は、「ドル外交(1908年)」を展開した。キューバに米国資本が、砂糖産業などに奔流となって流れ込んだ。米国の棍棒外交、ドル外交が、ラテンアメリカ諸国から強い批判を浴びたことから、ルーズベルト大統領は、善隣外交(1929年)を進めたが、1933年キューバで労働者・学生・兵士が社会改革を主張して臨時政府を樹立したときには、帝国主義の本性が現わして、ルーズベルト政権は、これを承認せず、29隻の軍艦をキューバに派遣し、バチスタ軍曹に軍隊を使って権力を掌握するよう主張した。

連合国と枢軸国の対戦となった第二次世界大戦では、バチスタ政権は、1940年7月の第二回米州機構外相会議の決定にしたがって、12月10日直ちに日本に宣戦を布告した。反ファシズムとの戦いがヨーロッパで進展する中で、ルーズベルト大統領は、ラテンアメリカ諸国を反ファシズム勢力として維持する必要性から、共産主義勢力とも一定の妥協政策をとった。その結果、1940年にはバチスタ政権に、キューバ共産党から2名が入閣し、また大土地所有制の廃止、8時間労働など民主的な条項を含む憲法が採択された。

第二次大戦後、1947年、米国は、冷戦構造の中で共産主義の「封じ込め政策」を打ち出した。キューバでも反共攻撃が行われ、共産党員指導者が労働組合から追放されたり、暗殺されたりした。同年、共産主義の進出から米州を守る目的で作られた軍事条約、「米州相互援助条約」と翌年創設された米州機構(OAS)に、キューバも参加した。

続いて1954年アイゼンハワー政権のもとで「大量報復戦略=戦争瀬戸際政策」が追求された。同政権は、ラテンアメリカの少しでも民主主義的な動きを共産主義者の策動として警戒した。1953年7月から、フィデル・カストロが率いる「7・26運動」は、バチスタ独裁政権との闘争を展開した。米国は、この運動に共産主義者が浸透していないか大きな関心をもっていた。早くも1958年の2月「カストロ兄弟は共産主義者かそれに近いものであるという報告がある」とサンチャゴ・デ・クーバ在住の米国領事が、国務省宛に報告している。

■革命勝利後、米玖対立は一層激化
革命闘争の勝利の可能性が見えてきた同年10月、カストロは、シエラ・マエストラ山中から、ラジオ・レベルデ放送でキューバの主権を擁護する立場を明確に述べている。

「キューバは、自由な主権国家である。われわれは米国と友好的な関係を維持したいと思っている。キューバと米国の間で、諸国民の理性と権利の中で解決できないような紛争が起きることを好まない。しかし、米国国務省が、われわれの主権を侵害する行為を行い、正当化できない間違いを犯すならば、われわれは断固主権を守るであろう。」

カストロの予測通り、米国は、キューバの主権を尊重しなかった。キューバ内務省の報告によれば、バチスタとの独裁闘争に勝利した直後の1959年2月2日にCIA(米中央情報局)のカストロ暗殺計画は始まり、その後、1999年までに米政府諸機関によるカストロ暗殺計画は637件に達している。

1959年1月の革命勝利直後の4月、カストロ首相は、アメリカを訪問し、ニクソン副大統領と会談した。その結果、同副大統領は、「カストロは信じ難いほど共産主義及び共産主義の原理を信用している」ときめつけ、カストロ政権の打倒をアイゼンハワー大統領に進言した。同年5月の第一次農業改革など経済の民主的改革をすすめるカストロ政権に対して、米国は、経済的圧力をかけたり、撹乱・破壊行為を行ったりして、両国の対立は激化していった。同年12月ダレスCIA長官は、アイゼンハワー大統領にカストロ暗殺を進言し、大統領はそれを受け入れた。翌60年3月、アイゼンアワー政権は、キューバ進攻秘密作戦計画「プルト作戦計画」を策定し、それは、ケネディ政権により61年4月にプラヤ・ヒロン侵攻事件として実行された。しかし、この侵攻は、カストロ政権によって撃退され、カストロ首相は、「革命が社会主義的性格を持ったもの」と宣言した。

その後、ケネディ政権は、ソ連と対決しつつ必要な軍事介入を第三世界で行う「柔軟反応戦略」を提起(1961)、キューバ・ミサイル危機で米・ソ=玖の対決を招いた(1962)。さらに、その結果、キューバ不侵攻の約束、米国の対キューバ経済封鎖(1962)、ケネディ政権末期の米・キューバ和解交渉(1963)、ソ連の原潜基地設置疑惑による緊迫化(1970)、キッシンジャーのデタント外交の中での関係修復の模索(1975)、カーター「人権外交」下での利益代表部の相互設置(1976)と3200人の政治犯の釈放(1978)、アンゴラ・エチオピアへのキューバ軍派遣をめぐっての関係悪化(1978)、レーガン政権下の「反共ドミノ理論」下での中米紛争をめぐっての米玖関係修復交渉とその決裂(1981)、ソ連崩壊を機に一層強められた米国の経済封鎖(トリセリ法、1992)、カストロ政権倒壊戦略の強化とキューバの全方位が外交の展開(1992)、クリントン政権によるヘルムズ=バートン法の制定と米国の一層のキューバ経済封鎖強化(1996)、米国の一極支配体制、単独行動外交の推進とラテンアメリカにおける革新勢力の台頭(1998)、ブッシュ政権の「反テロリズム外交」とカストロ政権打倒計画の追及などと、米玖関係は、複雑に展開する。

■ブッシュ政権、予防戦争論で恫喝
ブッシュ政権は、発足以来、キューバを「悪の枢軸」、「テロリスト国家」、「圧制の砦」などと決めつけ、キューバへの敵意を一層あらわにしている。02年、同政権は、「新アメリカ国家安全保障戦略」を発表し、大量破壊兵器を開発している敵国やテロ組織に対する先制攻撃及び予防戦争を容認する軍事戦略への転換を明言した。つまり、「テロリスト国家」、「悪の枢軸」であるキューバを、予防戦争の観点から攻撃する可能性があると恫喝したのである。さらに本年五月、同政権は、「自由キューバ支援委員会」の報告で、具体的なキューバ敵視政策を示したあと、付属文書で重大な政策があるが、その性格から公表できないと述べた。キューバ側は、それは直接侵攻の計画以外にはありえないとして警戒感を強めている。一方でキューバは、南米の新しい左派政権、ベネズエラ、ボリビア、ウルグアイ、ブラジル、アルゼンチン、エクアドル、ニカラグアなどとの関係を緊密にしつつ、非同盟諸国運動の議長国として(06年)、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国の協調をはかって、米国のキューバ孤立化政策ときびしく対決している。

■ラテンアメリカで米国の孤立化が目立つ近年
 近年、ラテンアメリカ諸国で左派政権が連続して成立するに連れて、米国から自立する国が増えている。その動きを列記する。
 07 年12 月ニューズウィーク誌は、ラ米の自立、米国のラ米での地位の低下に「モンローが草葉の陰で泣いている 」と論評した。
 08 年3 月、ジョビン・ブラジル国防相は、米国抜きの南米安全保障理事会の創設を推進した。米ゲーツ国防長官が、どういう点で協力できるかと聞いたところ、同外相は「最良の協力は、米国がラ米と距離をおくこと 」と、米国の関与を拒否した。
 08 年5 月、ブッシュ大統領、「社会的正義は、医療・教育の保障、汚職とのたたかい、自由市場の推進を必要とする」と述べと。すると、フォックスレイ・チリ外相は、「米国とラ米は成熟した平等な関係に発展している。ラ米の貧困は、ラ米で解決する 」と述べ、米国の関与を拒否した。
 08 年5 月、米国の「外交問題評議会」は、「ラ米での米国の覇権時代は終わった 」と分析した。
 08 年5 月、第14 回サンパウロ・フォーラム「ラテンアメリカ・カリブ海地域、33カ国のうち、13カ国、実に40%が革新政権 と述べ、米国抜きの南米安全保障理事会創設 を提唱した。
 08年12月、ラ米33カ国が米国抜きで12月16日にはブラジルでリオ・グループ(22カ国、地域紛争の平和的解決を追求)首脳会議が開催され、キューバの加盟が正式に承認された。
 翌17日、ラテンアメリカ、カリブ海地域33カ国すべてが参加して、第1回「ラテンアメリカ・カリブ海統合と開発」首脳会議が開催された。かつて米国の「裏庭」と呼ばれた地域で米国抜きで会議を行うのは歴史的なことであった。会議では、2010年に米国抜きのラテンアメリカ・カリブ海連合(Unión de América Latina y el Caribe)を創設することが決定された。
 
いまや、ラテンアメリカ諸国は、対等、平等の関係を米国に望んでいるのであり、オバマ次期大統領が勝利演説で述べたような「米国が指導力を発揮し、21世紀の課題に取り組む新たな時代が来るべき時だ」、「米国が安全であるためには、軍事力と強大な外交を組み合わせなければならない」というものではなくなっている。

米玖は、時に関係修復の話し合いが進めながらも、最終的には米国の不当なキューバ内部の変革要求により、交渉は決裂し歴史的な和解には至っていない。米玖関係の正常化のためには、何よりも米国の外交政策の正常化、各国の民族自決権を認めることが前提となっていることを歴史は示している。

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2009年1月 2日 (金)

2008年キューバ10大ニュース

2008年度キューバの10大ニュースを報告します。これは、現在準備している論文の短縮版です。

Aniversario50cuba

① 構造改革、静かに進む
 07年7月、ラウル・カストロ副議長(当時)が、キューバ社会の諸問題を解決するには構造的な改革が必要だと提起してから、昨年度、改革の内容が大衆的に討議されていたが、構造改革は、本年になって静かに、急ぐことなく着実に実行され始めた。 

 改革の基準は、①過度の禁止や規制条項を柔軟化ないしは廃止し、また過度の全般的な無料制度や補助金制度を廃止して、社会生活・生産活動を活性化する、②国民の日常社会生活を大きく歪めている二重通貨制度を一元化し、賃金の購買力を強化する、③そのために生産力を増大するための生産分野・国家機構の諸制度を改革することである。

 家電製品、ケイタイ電話の外貨支払使用の解禁に続き、農業面では、指導行政組織を簡素化し、基礎行政区事務所が、生産者の積極的な参加のもとで地域の農業政策を決定するようにされた。国有地の未使用地の使用権は、個人・法人に付与され、それぞれ10年間、25年間ずつ2回、50年間延長可能とされた。賃金改革、社会保障改革も進められている。

② 政府・共産党新指導部選出される
 2月には新国会で、国家評議会員31名を選出し、引退したフィデル代わって、ラウルを国家評議会・閣僚評議会議長に、ホセ・マチャド・ベントゥーラを同第一副議長に、さらに5人の副議長を選出した。新国防相にはフリオ・カサスが任命された。
 
 キューバ共産党は、4月第6回中央委員会総会を開催し、新に政治局員24名を選出し、さらに7名を政治局常任委員として選出して、集団指導体制を固めた。フィデルは、国家評議会・閣僚評議会議長及び革命軍最高司令官を辞退したが、4月のキューバ共産党第6回中央委員会総会では、中央委員会第一書記(中央委員会総会で選出)の地位は問題にされず、現在も地位を継続している。フィデルは、一年間に103件の「省察」を発表するかたわら、1月ルーラ・ブラジル大統領、5月モラーレス・ボリビア大統領、6月チャベス・ベネズエラ大統領、バスケス・ウルグアイ大統領、9月、呉官正・中国共産党政治局常務委員、チャベス・ベネズエラ大統領(2回)、10月、キリル・ロシア正教大司教、ルーラ・ブラジル、11月胡錦濤・中国国家主席、メドベージェフ・ロシア大統領と1-2時間にわたり会談している。ラウルも含めたキューバ指導部の言動から見て、フィデルが最高指導者であることには変わりはない。

③ 三つのハリケーンにより甚大な被害を受ける
今年は、70日の間に三つの大型ハリケーンがキューバを襲い、未曾有の被害をもたらした。8月30日「グスタフ」が、9月7日には一層大型の風ハリケーン「アイク」が、さらに11月8日やや小型のハリケーン「パロマ」が上陸した。被害額は、グスタフで20億7200万㌦、アイクで72億7500万㌦、パロマで3億7500万㌦、合計97億余であった。個人家財の被害額は、49億6690万㌦。また被害額の37%、35億9870万㌦は農林業であった。

 各国の救援も早く、ベネズエラなどのラテンアメリカ・カリブ海諸国、ロシア、スペイン、EUなどのヨーロッパ諸国、中国、ベトナム、日本などのアジア諸国、アンゴラ、南アなどのアフリカ諸国など、80カ国から800件、数10億㌦に上る救援寄付が寄せられた。

 キューバ国民の復興への取組も迅速に総力を挙げて行われている。政府は、日常食料の供給を被災者に保障し、6600万㌦の食料を緊急輸入し、住宅関係資材など緊急輸入総額は9300万㌦に達した。

④ 困難な中で経済成長を堅持 
 キューバは、07年サービス輸出(医師などの海外勤務)が好調で4億8800万㌦の国際収支の黒字を記録した。しかし今年になりニッケル価格の急落、輸入食料価格の高騰の増加、石油価格の高騰、また輸入の大幅な増加により、再び国際収支は赤字基調となった。その結果、本年6月から日本、スペイン、イギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパ諸国に150億㌦に上る累積債務の再繰延べを要請した。まさにその時、上記のハリケーンの甚大な被害を受けたのであった。その結果、当初のGDP成長計画8%を下回る4.3%を記録した。しかし、困難な中でも10年間中成長を維持したことになる。 
 
 しかし、一方で冗漫な経費、資材・燃料・電気の浪費、労働年齢者の不就業傾向、低生産性、労働の組織化・規律の水準の低さ、無責任は企業管理、腐敗、横流しの多さ(流通商品の1%)、高い輸入品依存(輸入代替意識の欠如)、賃金の購買力の不足(生活を支えるのに十分でない)、外貨収入に見合った輸入なども問題として指摘されている。09年の経済成長率は6%を目標とすると定められた。

⑤ ロシアとの関係復活
 7月以降、ロシアとの関係が、一気に強化された。理由は、双方の思惑と利益が一致したからである。ロシアは、米国のミサイル防衛システムのヨーロッパへの配備に反発して、米国の「裏庭」から米国に揺さぶりをかける戦略に出た。キューバは、外貨準備が底をついており、ロシアの経済協力を必要としていた。

 7月末、セーチン副首相を代表とする高級代表団がキューバを訪問。代表団の中にはロシア連邦国家安全保障会議書記、ニコライ・パトルーシェフが参加。滞在中、旧ルルデ通信諜報基地(旧ソ連基地、基地使用料は年間2億㌦)の使用再開、軍事協力についても話しあわれたと伝えられている。

 キューバは、8月10日、グルジア領オセチアへのロシアの侵攻を即座に支持。11月、ロシアは、06年に締結され、実行されていなかったキューバへのクレッジット3億3500万㌦の実行を確認した。ラフロフ・ロシア外相は、共同記者会見で、ロシア・キューバの軍事協力を推進することを隠さなかった。一方、セーチン副首相も11月8日キューバに本年度三度目の訪問を行い、両国は自動車、クレジット、ニッケル工業、石油産業、小麦の供給などで10件の契約を締結した。11月27日、メドベージェフ大統領がキューバを訪問した。12月19日、ロシア艦船3隻がキューバに寄港、4日間滞在した。両国の経済・軍事関係が劇的に深まった一年であった。

⑥ 多面的外交関係発展する
 キューバの外交関係が、本年度は一層発展した。その理由は、①ラテンアメリカ諸国、EUその他の諸国とも米国の身勝手は単独行動主義(一方的外交)を支持できなくなり、自主的な外交政策を取るようになったこと、②キューバ自身も、2月には国際人権条約を批准したり、3月のコロンビア政府軍のFARC(コロンビア革命軍)のエクアドル基地への越境攻撃事件にさいして慎重な政策をとったりする外交政策の成熟があった。

 また、キューバ、118カ国加盟の非同盟運動の議長国(07-09年)として、非同盟運動の活性化に尽力した。本年は、30数名の国家元首、500の高級代表団がキューバを訪問した。特に第三回キューバ・カリコム首脳会議には、14カ国の元首が出席した。 

 10月14日、スペインとは良好な関係が完全に復活した。また、スペインは、クレジットとして5000万~1億ユーロを供与すると発表した。さらに10月23日EUは、無条件でキューバとの関係正常化に合意し、互恵、相互尊重、内部問題不干渉、主権の尊重などの基礎に関係を回復するとの共同声明を発表した。ハリケーン被害への人道支援として即時に200万ユーロを、また来年度から被害地域の復興のために2500-3000万ユーロの大型支援を行うと発表した。

 中国は、11月18日には中国の胡錦濤国家主席が、キューバを訪問、700万㌦の期限切れ(08年3月末)の5年間支払い延長、過去の1995年までの累積債務未払い分の2018年までの延長、病院の改修、再建用に7000万㌦のクレジットを供与すること、循環エネルギー、ニッケル開発、海底油田開発など37件の計画の開発に総額15億ドルのプロジェクトを共同で推進することに合意した。 

 メキシコとは、カルデロン政権下、累積債務の再リスケに合意し、移民協定(近年メキシコ経由で年間1万人のキューバ人が不法に米国に移住している)が締結された。 

⑦ 経済封鎖解除決議、17年連続で圧倒的勝利 

 10月29日、第63回国連総会において、「米国の対キューバ経済封鎖・通商・金融封鎖を解除する必要性」が、賛成185カ国、反対3カ国(アメリカ、イスラエル、パラオ)、棄権2カ国(マーシャル諸島、ミクロネシア)という圧倒的大差で採択された。これで、米国の「対キューバ経済封鎖」政策は、17年連続して解除が要求されたことになる。 

 キューバ政府は、米国の経済封鎖による被害は、本年度は昨年より40億㌦増えて、930億㌦(時価評価額2246億㌦)に達したと国連に報告した。経済封鎖解除の要求は、10月31日の第18回イベロアメリカ首脳会議(スペイン、ポルトガルを含む22カ国参加)でも、12月の第3回カリコム首脳会議(14カ国)でも、第1回ラテンアメリカ・カリブ統合・開発会議サミット(33カ国)でも最終宣言や特別決議で即時無条件の解除が要求された。個別にもベネズエラのチャベス大統領、ロシアのメドベージェフ大統領、中国の胡錦濤主席、ブラジルのルーラ大統領、ボリビアのモラーレス大統領、ニカラグアのオルテガ大統領、エクアドルのコレア大統領などが、直接、米国に即時の封鎖解除を要求している。 

⑧ ラテンアメリカ統合に積極的に参加
 ラテンアメリカ・カリブ海地域で、経済統合の動きが急激に進む中で、キューバの統合への積極的な姿勢が目立っている。

 12月10日、キューバで第3回カリブ共同体(カリコム)・キューバ首脳会議が開催され、米国のキューバ経済封鎖解除要求、新たな国際金融秩序の構築が決議された。12月16日にはブラジルでリオ・グループ首脳会議が開催され、ラウルが出席し、キューバの加盟が正式に承認された。翌17日、ラテンアメリカ、カリブ海地域33カ国すべてが参加して、第1回「ラテンアメリカ・カリブ海統合と開発」首脳会議が開催され、ラウルが出席した。また、米州機構へのキューバの復帰か、米国抜きでの別な機構の創設が提起された。

 1月にはキューバ、ボリビア、ドミニカ、ニカラグア、ベネズエラの5カ国が参加する対等・平等・相互補完的協力を柱とするボリビア的対案統合計画(ALBA)首脳会議が開催され、ALBA銀行が、授権資本20億ドル、払込資本10億ドルで設立された。8月ホンジュラスがALBAに加盟した。さらに11月には第3回ALBA首脳会議が開催され、外貨準備基金の創設、新たな共通通貨Sucreの創設、WTOの根本的改革が提起された。

⑨ 石油外交の展開

 10月初頭、フィデルは、省察「瞑想すべき課題」で、「キューバは比較的早い時期に石油輸出国になる」と述べ、国際的な注目を集めた。しかし、本年1月米国地質学研究所が、「キューバの西側の海底油田には、46億バレル(キューバの石油消費の63年分)、9.8兆立方フィートの天然ガスが埋蔵されている」と発表して、専門家の間では知られていた。

 それまで、キューバ政府では、常にヤディーラ・ガルシア基幹産業相のみが、海外のマスコミとのインタビューで、「キューバがメキシコ湾での海底石油掘削を2009年から開始し、2010年以降輸出国になる」と述べていたが、国内で報道されることはなかった。

 米国の大統領選挙も間近に迫った10月16日、キューバ石油公社は、「メキシコ湾のキューバの排他的経済水域の埋蔵量は、かなり控えめにみて200億バレル以上で、生産量で上位20位に入る。キューバは、現在日産6万バレルであるが、2-3年以内で石油輸出国となる」と内外のマスコミに発表した。世界屈指の深海石油掘削技術をもつブラジルのペトロブラスとは昨年度から合弁企業設立の交渉が行われ、10月ルーラ大統領のキューバ訪問にあわせて契約が結ばれた。ロシアは10月、中国は11月キューバと海底油田掘削の契約を結んだ。キューバは、米国にも経済封鎖政策を揺さぶる良い機会として、米国の石油資本にも投資を呼びかけている。石油不足から電力不足に苦しんできたキューバが、石油輸出国となり、経済構造が変わろうとしている。

⑩ 対米関係、緊張続く
 本年1月、ブッシュ大統領は、一般教書演説で、「われわれは、キューバ、ジンバブエから、ベラルーシ、ビルマまでの国々の自由を支持する」と述べ、キューバ敵視政策が変わらないことを強調した。さらに3月、ブッシュ大統領は、経済封鎖の緩和を拒否し、独裁者が代わっただけ。キューバの民主化を後押しすると強調した。

 米国大統領候補、オバマは、「カストロの引退は、キューバ史の暗黒時代の終わりを作るものであろう。キューバの未来は、キューバ国民によってであって、反民主的な後継体制によってではない」と述べて、対キューバ政策が、ブッシュ、マケイン候補と大差がないことを示した。

 キューバにある米国の利益代表部によるキューバ国内かく乱政策も強化された。また米国政府は、イギリスの銀行、ロイズTBS、バークレー銀行、スコットランド・HSBCロイヤル銀行に対して、キューバと貿易取引を行っていると警告した。米国政府により、キューバとの取引を行っている企業に圧力がかけられたり、罰金が課せられたりした。キューバの外貨事情が悪化している現在、キューバを締め上げ、カストロ体制を崩壊させる好機とブッシュ政権は考えたのである。

 すると9月、ハリケーン・グスタフの後、キューバ政府は、2001年にハリケーン・ミッチェルのあと被害救援をめぐって、米国政府に食料品輸出許可を実現させたように、「米国政府の人道支援に感謝するも、被害調査員の派遣は受け入れられない、新たなに木材、建設資材など、復旧必要資材の輸出、後払い輸出を許可するよう」に要求した。経済封鎖政策に風穴を開けようとしたのである。米国政府は、それを拒否した。

 実は、経済封鎖政策のもとであるが、米国はキューバにとって第5位の輸入相手国となっている。米国からの食料の輸入は2007年5億8200万㌦に達し、前年度より1億㌦増加した。本年度は6億㌦を超える見通しである。
さらにラウルは12月19日、米国で収監中の5名のキューバ人(正確には2名は米国籍)愛国者とキューバ国内で収監中の反体制派(210名といわれる)の交換を申し出た。しかし、この問題は、法的には複雑で困難な問題を含んでおり、米国側もキューバの反体制派も申し出を拒否している。

(2008年12月31日)

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キューバ革命50年をたどる革命物語

事実上のアメリカ植民地
1959年1月1日未明、ハバナからドミニカ共和国に向けて飛行機が飛び立った。中には独裁者バチスタとその家族・側近の者が乗っていた。52年から、2万人の国民を殺害し、ラテンアメリカで最悪といわれた独裁者の国外逃亡であった。1月8日、フィデル・カストロは、反乱軍を率いてハバナに入城した革命運動の直接の発端となった53年7月26日のサンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営襲撃から6年が経過していた。

バチスタなど圧制者を倒し、国の真の独立をかちとろうとする国民の熱い願いは、キューバが独立をめざして立ちあがったときから、マキシモ・ゴメス、アントニオ・マセオ、ホセ・マルティなど多くの愛国者が国の真の独立のためにたたかってきた。スペインから形だけの独立を実現したものの、キューバはすぐさまアメリカの半植民地の状態におかれたからである。「北方の巨人」アメリカは、キューバの憲法に「プラット修正条項」を押し付け「アメリカ国民の財産と安全を守るため」と称して、アメリカは、いつでもキューバに干渉する権利を手にいれた。アメリカは、キューバで政変があるたびに干渉をくり返した。また、経済面ではアメリカの大資本がほぼ全面的にキューバ経済を支配した。一握りのキューバ人の金持ちとアメリカの大資本に支配されたキューバは、ラテンアメリカでもっともアメリカの支配が強かった国の一つであった。アメリカは、キューバの最良の耕地の4分の1を所有していたし、電話と電力の90%を所有し、砂糖生産の約50%近くを占めていた。

1933年の独裁者マチャドに反対するたたかいにおいてハバナ駐在のウェルズ、アメリカ大使は、政変に介入し、「大統領メーカー」と称されたほどである。産業は、砂糖生産にかたより、砂糖産業は、国民所得の3分の1近くを生産し、輸出の5分の4を占めていた。国民の半数以上が、農業で働いていたが、わずか114の農場が全農地の4分の1を所有するという極端な大土地所有制が見られた。農民の3分の2は、土地を持たない農業賃金労働者であり、彼らは、1年の内、砂糖の収穫期に当たるわずか3―4か月しか仕事にありつけなかった。それでも仕事を持っている者はよい方で、失業者は、常に人口の4分の1にたっしていた。国民の43%が文盲で、義務教育の8年を終了する者は、国民のわずか7%というあり様であった。また農村には、医療はほとんど普及していなかった。アメリカ人がキューバの政治・経済を支配し、わが者顔でキューバを歩きまわった。ごく少数のキューバ人がアメリカに従属し、国民を弾圧し自らの利益を守った。政治は、腐敗し、国民の利益、キューバの利益を考える政治家は少なかった。コロンブスがキューバを発見した時、「人間の目が見た最も美しい島」と言われていたが、アメリカと一部のキューバ人が支配する最も貧しい国となっていた。

モンカダ兵営の襲撃と革命戦争
1952年、フルヘンシオ・バチスタは、大統領選挙が不利と見るやクーデターを起こし大統領に就任した。国民のがまんもここにきて限界に達した。翌53年7月26日(7・26)早朝、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営などをフィデル・カストロはじめとする153人の青年たちが襲撃した。襲撃は失敗し、カストロは逮捕され投獄されたが、この計画は、全国的に、独裁者にたいし"立ち上がるべき時が来た"ことを知らせるものであった。

 カストロは、この裁判での自己弁論の最後で「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と述べて、自らの行動の正当性を主張した。55年、特別恩赦で釈放されるや、カストロは、より国民と密接に結びついた形で革命運動をすすめるため、統一戦線組織である「7・26運動」を結成した。
 カストロをはじめ青年たちは、メキシコに亡命し革命の準備をすすめる一方、キューバ国内の反バチスタ独裁感情も急遠に高まっていった。メキシコでは、真の社会変革を求めてラテンアメリカを放浪していたエルネスト・チェ・ゲバラも参加した。56年11月25日、82人の青年たちを乗せたヨット「グランマ」号は、キューバをめざしてメキシコのトゥスパン港を出発した。しかし、「グランマ」号は、予定より遅れて、しかも上陸予定地点サンティアゴとは異なるラ・コロラダス海岸に12月2日到着した。バチスタ軍の迎撃により結局は、40名が生存し、12月末までに21名がシエラ・マエストラ山中で再結集した。しかし、バチスタ独裁政権がまったく腐敗しており、その弾圧政治によりまったく国民の支持を得ておらず、逆に国民の大多数が「7・26運動」を支持しているのを確信して、フィデル・カストロは、「この上陸作戦が勝利した」と宣言した。

 カストロの生存を知ってシエラ・マエストラの多くの農民が支持を寄せてきた。58年になると、解放区もつくられ、人民社会党(当時の共産党)もゲリラ戦に参加するようになり、反乱軍の力も大きく増大した。同年11月には、オリエンテ州で全面的な攻撃が開始され、反乱軍は、ハバナに向って進撃を始めた。また、アメリカ政府も内外で不人気なバチスタを見限ることを決めた。こうした孤立した状況を見て、1959年1月1日早朝バチスタは国外に逃亡したのであった。

アメリカの干渉と社会主義をめざした国づくり
 勝利した「7・26運動」は、ただちに国民への公約である社会改革に着手した。59年3月、家賃の50%値下げがおこなわれ、5月には第1次農業改革法が制定された。ソ連など社会主義国との貿易の拡大、国交の樹立などがすすめられた。しかし、ラテンアメリカを「裏庭」、自らの勢力圏と考えるアメリカは、こうしたキューバの自主的な動きを認めることができず、武器の供給禁止、キューバ糖の輸入割り当て停止でキューバ革命政府に圧力をかけた。60年2月、ソ連のミコヤン副首相がキューバを訪間し貿易援助協定が結ばれた。この時、アメリカのアイゼンハワー犬統領は、CIA(米中央情報局)に亡命キューバ人によるキューバ侵攻作戦の準備に着手するよう指示した。アメリカの気に入らない政府は、力によって倒そうというアメリカの伝統的な政策であった。アメリカは、1954年グアテマラの民族的なハコボ・アルベンス政権をその手で倒したことがあった。キューバの場合も同じやりかたで自主的な道をすすもうとする革命政府を倒そうと狙ったものであった。しかし、人民の強い支持を受けて独裁政権を倒した革命政権は、ふるい軍隊を解体するとともに、反乱軍を国防軍に発展させており、組織された民兵軍とともに、こうした圧力に屈せず、あくまで主権を守り抜いていった。
 
 60年6月、革命政府は、ソ違から輸入した原油の精製を拒否したアメリカの石油全社を接収した。これにたいし、アメリカ政府は、60年度のキューバ糖輸入割り当てを停止すると発表した。また8月には、コスタリカのサン・ホセで開かれた米州諸国外相全議でキューバヘのソ違・中国の介入を非難する宣言を発表し、キューバを国際的に孤立させようとした。キューバ政府は、これにたいし、8月と10月に外国系企業をふくむ大企業や銀行を国有化した。アメリカは、ただちにキューバヘの輸出を禁止するとともに、翌61年1月には国交を断絶してしまった。
 
 同年4月15日ハバナなどが空襲を受け、それを非難する演説でカストロ首相は、キューバで行われている革命が社会主義革命であると宣言した。4月17日、約1500人からなるCIAの傭兵部隊が、キューバ中央南部にあるプラヤ・ヒロンに上陸作戦をおこない侵攻してきた。しかし、民族の主権を守るためキューバ人民は、正規軍・民兵が一体となってこの侵略を撃退した。アメリカは、62年2月から、キューバに対する貿易を禁止する経済封鎖政策を開始した。同年10月、ソ連との軍事協力条約にもとづいてキューバに配備された中距離ミサイルをめぐって、カリブ海(ミサイル)危機が発生した。予測されるアメリカの侵攻に備えて、キューバ国民は、断固とした決意で祖国防衛の意思を示した。危機は、アメリカがキューバ不侵攻を約束し、ミサイルは撤去され、解除された。

 祖国の主権を守ったキューバ革命は、同時に文盲一掃運動、農業改革などの社会改革をすすめた。68年には、「革命的攻勢」によって鉱・工業・商業をすべて国有化した。その結果、キューバでは、農地の70%、金融・商業の100%、鉱・工業の100%、運輸の95%、漁業の95%が、国有化された。70年代と80年代前半、キューバは、こうした経済構造を基礎に、堅調な経済発展を遂げた。しかし、高度の国有化率は、アメリカの対キューバ干渉政策に対抗するための総動員体制のためにとられたもので、現実のキューバの生産力の水準から行われたものではなかった。またこうした市場を軽視した過度の中央指令型経済は、経済の効率を欠く点もあり、キューバ経済は、80年代後半には停滞してしまった。

ソ連・東欧諸国の崩壊と非常時の困難
 そうしたときに、89年の東欧諸国の旧経済体制の崩壊、91年のソ連の解体がキューバ経済に大きな否定的影響を与えることとなった。キューバは、ソ連・東欧圏に貿易の85%を依存していた。これらの国々との貿易は激減し、キューバ政府は、90年8月「平和時の非常時」を宣言した。94年までに国民総生産は、40%近く減少した。キューバ政府は、経済の対外開放をすすめ、観光と外国投資の誘致を推進するとともに、93年からは国内の経済改革を進めた。国営農場を解体して、協同組合生産基礎組織に再編し、飲食業、宿泊業、修理サービス業など自営業種を拡大し、農産物、工業製品の自由市場も認められた。外資との合弁企業・経済提携は、400件にのぼり、株式会社制度による独立採算制で運営され、観光、石油開発、ニッケル生産などで生産を顕著に増大している。経済の私的部門は拡大され、市場機能が導入され、経済活動の4分の1程度にまで及んでいる。

 06年8月からは、病気療養のフィデルに代わって、ラウル国家評議会副議長が議長代理(08年2月からは議長)となり、指導するようになった。2008年、経済は、89年の水準の80%程度まで回復したが、依然として、外貨不足、企業の経済生産効率、農業生産の停滞(自給率は穀物で30%、輸入の20%近くが食料品)などの問題を抱えている。経済改革の中で、所得の格差も広がってきており、これまでの、国民すべてへの全般的な社会保障政策という理念は通用しなくなっている。さらに、外貨ペソと国内ペソの二重通貨制度のもとで実質賃金が著しく低下し、国民生活大きく歪めるものとなり、賃金が生活の4分の1程度しかカバーできなくなっている。優れた医療制度、教育制度も、経済困難から制度のヒューマンな理念を生かせず、否定的な現象も指摘されている。09年からは有望な海底油田の開発が期待されているが、一層の生産性の向上、生産の増加が必至とされている。そのためには経済の全面的な構造改革が必要とされている。

 多くの国民が貧困にあえぎ、教育も満足に受けられず、医療の恩恵に浴することもできず、人種差別に泣き、失業に苦しみ、女性は男性より劣るものとされていた革命前の状態から、現在のキューバは、大きく変わっている。
革命勝利から50年たって、キューバ革命が米国の干渉に耐えながら民族の主権を守り通したこと、その中で達成した社会改革の成果は、だれも否定できない。経済的困難を抱えながらも、人間味豊かなキューバ社会は、他のラテンアメリカの国々の現状と比較して際だったちがいを見せている。

(2009年1月)

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キューバ・ミサイル危機―40年目の検証

―あらためて核戦争寸前だったことを示す新資料―

 去る10月10日から3日間、キューバのハバナで、キューバ・ミサイル危機40周年検討国際会議が、米・ロ・キュの関係者・研究者が参加して開催された。このミサイル危機検討国際会議は、国際的に核の恐怖が広まり、核兵器禁止運動が高まる中で、これまで、87年3月フロリダ、87年10月マサチューセッツ、89年モスクワ(この会議からキューバ参加)、91年アンティグア、92年ハバナと都合5回開催されているが、今回の会議は、「10月危機―40年後の政治的検証」と題して、40年後の現在の政治状況からみた危機の検証を主要な目的とした。そのため、アメリカのイラク先制攻撃とそれによる世界の平和への深刻な影響が予測される現在の国際情勢中で、危機を生み出した情報の誤分析、先制攻撃と大量破壊兵器のもつ意味に大きな関心が寄せられた(Thomas Blanton, AP, October 11, 2002)。

 会議には、アメリカからは、マクナマラ元国防長官を団長に、ケネディ(JFK)政権のソレンセン元補佐官、JFK側近で歴史家のシュレジンジャー、テーラー将軍側近のスミス空軍少佐(USAF)、JFKの側近グッドウィン元特別補佐官、ブルギオーニ元CIA(米中央情報局)の分析官、ガーソフ研究員などが、旧ソ連からは、コルニエンコ元外務次官、ミサイル導入立案者のグリブコフ元将軍、ヤゾフ元国防相、レオーノフ元KGB将校などが、キューバからは、カストロ議長、フェルナンデス副議長、アラルコン国会議長など、海外から73名、キューバから42名が参加した。

 これまでの5回の会議の開催に合わせて50万ページに上る秘密文書が開示された(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。87年以降、新たに明らかにされた主な内容は次の通りである。
① キューバ革命勝利後、アメリカによる数々のカストロ政権転覆計画が、カストロの暗殺計画を含め進められ、61年4月には傭兵によるキューバのプラヤヒロン侵攻事件にまで発展した。その失敗からアメリカは、マングース作戦などで米軍のキューバ直接侵攻を計画するようになった。

② 米軍のキューバ直接侵攻計画を察知したキューバは、防衛力を強化するためソ連と相談した。フルシチョフは、ソ連に不利な1対17という逆ミサイル・ギャップの現実を逆転したいと考えており、キューバ側の関心を利用して戦略ミサイルの導入を提案した。カストロは、この冒険主義的な提案に反対であったが、「社会主義圏の防衛能力の強化という大義のために」これを受け入れた。

③ 62年8月ソ連・キューバ軍事相互防衛協定が締結され、カストロはこれを直ちに公表するよう主張したが、フルシチョフは、秘密裏に導入を行った後の11月に公表することを強調、結局同条約は公表されなかった。この秘密裏の導入は、アメリカにとっては、だまし討ちの感じを与え、ミサイル撤去を迫る「根拠」となった。

④ ソ連は、短距離ミサイル36基、中距離ミサイル24基をはじめとし、戦術核ミサイル「ルーナ」など合計162発(広島型原爆約3500発に相当)の核兵器のキューバ運搬作戦「アナディール計画」を7月末より実施した。戦略核の使用はモスクワの司令部の許可が必要とされたが、戦術核の使用は、現地司令官の判断に任されていた。

⑤ アメリカは、キューバ導入の核兵器は査察飛行で発見した戦略ミサイル33基のみと見ており、戦術核のキューバ配備までは知らなかった。

⑥ アメリカは、10月27日午後4時にキューバへの空爆、直接侵攻する計画を持っていた。その場合は、ソ連の戦術核ルーナが使用され、全面核戦争になるのは必死であった。

⑦ 10月27日U-2スパイ飛行機がキューバ駐留ソ連軍防空部隊ボロンコフ中将の指令によって撃墜された後、一気に緊張が高まったが、米ソ両指導者は、事態を打開し核戦争を避けるため、ミサイル撤去とキューバ不侵攻の条件をめぐって、頻繁な書簡の交換やいろいろなルートによる交渉を行っていた。そうした両国指導者の懸命な努力の結果、核戦争の危機は回避された。

⑧ しかし、キューバは、危機の真の解決の条件であるアメリカの対キューバ経済封鎖の解除、キューバへの干渉行為の停止、キューバにあるグアンタナモ米海軍基地の返還などが解決されていないとして、危機の真の解決には至っていないとみなしている。

 会議は、①プラヤヒロン侵攻事件(アメリカの傭兵によるもの、1961年4月)からミサイル導入まで、②ミサイル導入と10月危機、③11月危機とその余波、④危機からの教訓、といった4つのテーマで話し合われた。同時にこの会議に合わせて、米・ロ・キュの3カ国によって関係秘密文書の一部が開示された。さらに今回は、ポーランド、ハンガリー、チェコ、ブラジル、イギリス、メキシコの一部秘密文書も開示され、世界を核戦争の瀬戸際まで追いやったミサイル危機が、これまでのように米ソ超大国に限定されるのでなく、より大きな世界的な広がりをもって分析されることになった。

 40年後の政治状況からみた危機の検証ということもあって、会議開催の前に、ブッシュ現政権とアメリカ側の会議参加者の間に、前哨戦が戦われた。ブッシュ大統領は、10月7日、ミサイル危機との関連で、大量破壊兵器所有の疑いがあるイラクへの先制攻撃を正当化して、「危機の解決は、ケネディがキューバの核兵器(大量破壊兵器)の所有に対して、先制攻撃も辞さない強い態度を取ったことによる」と述べた。これに対して、シュレンジンジヤーは、「ブッシュは、危機の文脈を無視してケネディの言葉を利用しており、歴史を読み誤っている。ケネディ政権が行ったソ連船舶に対する海上検問は、軍事行動への対案であり、軍事行動ではない」と反論。さらにマクナマラは、「検問は、戦争用語でなくその反対であり、戦争を先送りにするものであって、先制攻撃とは正反対のものである」と批判した(Reuters, October 11, 2002)。

 会議において、最初のテーマである「①プラヤヒロン侵攻事件からミサイル導入まで」は、アメリカが、カストロ政権転覆のために傭兵を使用してキューバに侵攻したプラヤヒロン作戦が失敗した結果、引き続きカストロ政権転覆のために秘密作戦「マングース作戦」や、「ウッドワース作戦」によって、キューバに直接侵攻を行う計画であったことが、近年の解禁文書で一層明らかになっている。今回開示された文書でもロバート・ケネディ司法長官がCIA及び国防省とキューバ侵攻計画を進めていたことが判明した(The National Security Archive, The Cuban Missile Crisis, News Release)。また開示文書によれば、アメリカは、1000機以上の爆撃機と28万人の兵隊をキューバに上陸させる計画を持っていた(AIN, Oct.12, 2002)。こうしたキューバの民族自決権を無視したアメリカの態度こそ、キューバミサイル危機を招いた根源であるとキューバ側は主張している。キューバは、アメリカの直接侵攻があることを予測して、自国の防衛のためソ連に相談したところ、フルシチョフ議長は、米ソのミサイルバランスの劣勢を補うため、キューバの要請を利用してキューバへの短・中距離ミサイルの導入を提案した経過がすでに明らかになっている。

 また、カストロ議長は、ソ連・キューバ軍事相互防衛協定の締結後、即時、公表するよう主張したが、フルシチョフは、導入後の11月の公表を主張して譲らなかった。最終的に、キューバ側は革命後4年しか経過しておらず、革命後45年を経過していたソ連への信頼から、フルシチョフの意見に従った(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。ソレンセンは、もし同協定が公表されていれば、アメリカがトルコで行っていることと同じことになり、アメリカの手を縛ることになったと述べている(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。カストロ議長も、同協定を公表しなかったことは、フルシチョフの誤りであったと述べている(Interview of Barbara Walters with Fidel Castro in ABC News, Oct.10, 2002)。

「②ミサイル導入と10月危機」については、今回の会議では、これまでの5回の会議で明らかにされた以上の衝撃的事実が明らかにされた。それは、米軍の駆逐艦とソ連の潜水艦の間で、米ソの間に核戦争寸前にいたるほどの危険な軍事的遭遇があったということである。23日国家安全保障会議執行委員会(ExCom)は、ソ連潜水艦に対してカリブ海で検問を行っていた米海軍の駆逐艦の前で、浮上して艦型を明らかにするよう通告していた。ソ連は、アナディール作戦(ミサイル・核弾頭秘密輸送作戦)のもとで162発以上の戦略核と戦術核兵器・弾頭(広島型原爆約3500発に相当)をキューバに導入するため、大輸送作戦を展開していた。その中には輸送船を護衛するため、核魚雷(15キロトン、広島型原爆に匹敵)を装備する潜水艦B-59及びB-130、4隻が含まれていた。これらの潜水艦は、米軍との戦闘指令は受けていなかった。

27日午前10時米軍のスパイ飛行機U2がキューバ領内で撃墜され、緊張感が一気に高まった。この時米軍は、海兵隊・陸軍25万人、核爆撃機B-52など航空機1000機、核空母など艦船250隻がカリブ海に展開していた。ソ連側は潜水艦6隻をはじめ数十隻の輸送船団がハバナを目指しており、キューバでは革命軍27万人をはじめ民兵・内務省軍を含む総員40万人、駐留ソ連軍4万3000人が、24-72時間以内に予想される米軍の空爆、直接侵攻に対峙するため臨戦態勢にあった。カリブ海は、まさに一触即発の状態であった。

同日午後5時前、米海軍駆逐艦は、ソ連潜水艦を浮上させるため演習用の爆雷を投下した。米軍は、これら4隻の通常潜水艦が核魚雷を装備しているとは思わなかった(The Submarines of October)。ソ連潜水艦B-130内では艦内が割れるような大変な震動を受けた。シュムコフ政治将校は、もし潜水艦自体に損傷があれば、戦争が開始されたとみなし、核魚雷で反撃するために核魚雷を準備するよう指令を出した。しかし、特別武器管理将校が、司令部の承認がなければ使用できない旨、牽制したところ、シュムコフは、核魚雷使用を思いとどまったということである。さらに、一層危険なことは、別な潜水艦B-59内では、米軍の爆雷に憔悴したサビツキー艦長は、司令部と連絡が取れないことに業を煮やし核魚雷の発射準備を指令した。しかしアルキノフ副艦長が、サビツキー艦長を諌めた結果、艦を浮上させることになったという(40周年ハバナ会議オルロフ証言The Submarines of October)。

その15分前に、ドブルイニン駐米ソ連大使が、ケネディ大統領のフルシチョフ議長宛の緊急メッセージもってケネディ司法長官の事務所を退出していたのであった(The Cuban Missile Crisis: 40 Years Later with Thomas S. Blanton, Washington Post, Oct.16, 2002)。このメッセージで、キューバ不侵攻とトルコのミサイル撤去が提案され、事態は急転回することになったのは周知のとおりである。もし、核魚雷が発射されていたならば、当然、上空を警戒飛行しているアメリカ空軍機は、搭載していた核爆雷で反撃したであろうし、そうなれば米ソ間の全面的な核戦争は必至であった。
 
「③11月危機とその余波」に関しては、新開示文書によると、ソ連船がキューバよりミサイルを撤去した後も、地対地、地対海、軽爆撃機などの90発の戦術核兵器は、キューバの残されキューバが管理することとなった。しかし、それらも11月20日最終的に撤去された(The National Security Archive, The Cuban Missile Crisis, News Release)。

アメリカは、ミサイル撤去受諾後も、キューバ領空で低空査察(スパイ)飛行を継続した。キューバの国家主権を無視したこの行為は、再び危機を招くものとなった。解禁文書によれば、フルシチョフは、11月16日付けのミコヤン副首相宛の書簡で「カストロは、アメリカの査察飛行機を撃墜して、われわれを戦争に引きずり込もうとしている」と非難した(AP, October 11, 2002.この文書はAPが独自に入手したものとのこと)。しかし、キューバが開示した秘密文書によれば、アメリカが低空査察飛行の禁止を正式に発表した11月16日の翌日の17日付けで「11月18日以降に、キューバ領空を侵犯したアメリカの査察飛行機を撃墜してもよい」という指令がキューバ軍に出されていたのであった。またこの決定は、その後18日に取り消されたことをカストロ議長は開示文書で示した(AP, October 11, 2002. The National Security Archive, The Cuban Missile Crisis,)。フルシチョフのカストロ非難は、領空主権を侵害され、連日頭上を低空でスパイ飛行する米軍機を見て、切磋扼腕して眺めているキューバ国民の感情を理解しないもので、危機は両大国間の政治取引で解決されるものであるという大国主義的見方であった。

 第四のテーマ「危機からの教訓」に関しては、今回の会議の討論を通じて、米ソ司令部も、現場指揮官も大戦争に発展するのを好まず、冷静に、職業意識をもって事態に対処したことと、若干の幸運に恵まれたことから最悪の事態は避けられた、また最大の危険は、現場の指揮官が未許可のまま核を使用することではなく、むしろ、人間や機械の相互作用などの偶発的な事故によると、一部の研究者たちは結論付けている。ウエイン・スミス元在キューバ・アメリカ利益代表部代表は、「危機は、大変注意深くまた慎重に対処され、だれもカーボーイのようにはふるまわなかった」と会議で述べている(Reuters, Oct.12, 2002)。マクナマラ元国防長官も、「カストロ、ケネディ、フルシチョフは、冷戦期の最大の危機において、核戦争の崖っぷちから世界を引き戻すために適切な判断と冷静な解決策で対応した」と指摘している(Reuters, Oct.12, 2002)。しかし、人類の運命を指導者たちの資質に頼ることはできないことは、人類の悲惨な戦争の歴史が示している。また、ミサイル危機のような極限の状況の中で、偶発的な事件を完全に避けることは不可能であろう。そうであれば、核戦争を避ける唯一の確実な方法は、核の廃絶しかないことになる。

 会議に先立って、キューバは、9月14日署名はしたものの批准をしていなかった「トラテロルコ・中南米非核地帯条約」と「核不拡散条約(NPT)」条約を批准することを発表した。キューバがこの時期に両条約を批准するに至ったのは、両条約とも、既存の核保有国の核独占を正当化する内容を持つものの、アメリカの一方的外交が強まり、アメリカがテロ支援国家とみなす国への核兵器を含む先制攻撃が予測されるとき、道義的に優位な立場に立って、国際社会と協調して反対しなければならないという考えからであった。キューバもまた、ミサイル危機の分析と教訓から学んだのである(Nidia Díaz, Cuba y el desarme nuclear, Granma, Octubre 7, 2002) 。

 こうして会議の参加者は、危機を繰り返さないためには、小国の主権を尊重すること、核兵器を廃絶することこそが重要であることを、危機の教訓として学んだのであった。しかし、依然として、世界における戦略核弾頭の保有数は、アメリカ10,656発、ロシア1万発、フランス約350発、中国250発、イスラエル100-120発、イギリス185発、インド約60発、パキスタン約48発といわれている(Luis M. García Cuñarro, Granma, Noviembre 20, 2002)。さらに国際条約の規制外にある戦術核弾頭は、3万6800発にのぼるといわれている。アメリカ保有の核兵器だけでも廣島型原爆の10万発分に相当する。

 今回も危機からのより一層の教訓を真剣に学びたいとして、会議に参加したマクナマラ元国防長官が、この種の会議を経験するたびに核兵器の絶対数の削減から、ついには核兵器の廃絶まで訴えるようになっていることは、核問題の本質を示していると思われる(ロバート・S・マクナマラ『マクナマラ回想録―ベトナムの悲劇と教訓』仲晃訳(共同通信社、1997年)460-461ページ。「軍縮問題を考えるエコノミストの会」主催の国際シンポジウムでの基調講演。『朝日新聞』95年9月5日朝刊)。

(2002年11月)

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キューバ基礎データ

キューバ国旗

国旗の柄とその由来
 キューバの国旗は、1849年にナルシソ・ロペス将軍が、スペインからの独立闘争のためキューバに上陸する際に、ミゲル・テウルベ・トロンに依頼して作成したものです。3本の青い横縞の線と左横の赤の三角とその中の1つの星からできています。3本の線は19世紀半ばのキューバが3つの県に分かれていたことを意味し、赤の3角は独立戦争の中で流された血を意味し、一つの星は、自由な祖国の理念が高く掲げられていることを意味します。


なお、キューバの北岸はメキシコ湾、フロリダ海峡で、南岸がカリブ海です。ハバナの海岸で見る夕日は、メキシコ湾の落日で、カリブ海の落日ではありません。

キューバ国歌
 国歌は、国旗、紋章とともに憲法で定められています。国歌は「バヤモ賛歌」です。1867年カルロス・マヌエル・デ・セスベデスをはじめとしてスペインからの独立をめざす人々が集まり、解放闘争を準備する中でペドロ・フィゲレード・シスネーロスが、フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」を参考にして作曲・作詩したものです。
Al combate corred bayameses,
que la Patria os contempla orgullosa.
No temáis una muerte gloriosa,
que morir por la Patria ¡es vivir!
En cadenas, vivir es vivir,
en afrenta y oprobio sumido.
Del clarín escuchad el sonido,
¡a las armas valientes corred!

闘いに向かって
立ち上がれ、バヤモの人々よ
祖国は誇りをもって、君たちを見つめている。
栄えある死を恐れてはならない
祖国のために死ぬのは、生きることだ。
鎖のもとで生きるのは
屈辱と不名誉のもとで生きること
ラッパの音に耳を傾けよ。
勇敢に武器をもって立ち上がれ。
(新藤通弘訳)

キューバ国家の紋章
「帝王椰子(パルマ・レアル)の紋章」と定められています。1948年国旗をデザインしたミゲル・テウルベ・トロンが発案したものです。上方には自由を表す旭日、アリメカのフロリダとメキシコのユカタンの間に横たわる地理的・戦略的重要性を示す鍵(メキシコ湾の鍵)、下方左側には当時の3つの県、右側にはキューバの典型的な農村風景、小山、帝王椰子が描かれています。

国木
 国木は、帝王椰子です。キューバ独立の父といわれるホセ・マルティは、「私は、真摯な人間、椰子が繁げれる国に生まれた・・・」と詩に歌っています。キューバ人は、この帝王椰子をみるとキューバの女性と祖国を思い浮かべるといいます。

国鳥
キツツキに似た「トコロロ」と呼ばれる小鳥です。鳴き声が「ト・コロー」と聞こえるところからきています。気品があり、可愛いいうえに、体の色が、キューバ国旗の青(頭部・背中)と赤(腹部と尾の内側)、白(羽)色をしていることから国鳥といわれています。コロンブスが1492年10月にキューバに到着した時、木々がうっそうと生い茂り、草花が咲き乱れ、小鳥がさえずりまわっている光景を目にして、「人間の目が見た最も美しい島である」と航海日誌に書き残しています。

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ラム酒の飲み方アラカルト

ラム酒の歴史
 コロンブスは、1493年の第二回の『新大陸』への航海で、カナリア諸島のサトウキビをキューバ(クーバ)にもちこみました。このサトウキビは、亜熱帯の太陽、塩分を含んだ海風、石灰質土壌といったキューバ独特の環境の中で、世界で最も品質のよいサトウキビとなりました。
 
 この良質なサトウキビから、「グアラポ」と呼ばれる絞り汁が作られ、スペインの植民地時代に広く飲用されました。グアラポから、さらに「アグワルディエンテ」というアルコールが作られ、『新大陸』の代表的なお酒となりました。そしてこの「アグワルディエンテ」を蒸留した酒が「ラム」酒です。
 
 キューバのラム酒は、良質なサトウキビと優秀な技術から19世紀には世界でもっとも美味なラム酒として評価されました。バカルディ、カンペオン、マトゥサレン、ボコイなどが世界的に知られました。革命後は、これらの工場主が海外に移住しましたので、「ハバナ・クラブ」、「バラデロ」、「カリビアン・クラブ」などの新たなブランドで輸出されています。「バラデロ」ラムは、キューバの4大ラム酒生産地、カルデナス、サンティアゴデクーバ、シエンフエゴス、ハバナのひとつのカルデナスで作られた銘酒です。

ラム酒の種類
 3年もの「カルタ・ブランカ」(白):カクテルに使用、もちろんストレートもグー。.
 5年もの「アネェホ」熟成酒:ストレート、水割り、オンザロック
 7年もの「アネェホ」熟成酒:ストレート、水割り、オンザロック

ラム酒のカクテル
クーバリブレ:代表的な飲み方です。
ハイボール・グラスにカルタ・ブランカ3年ものを1-1/2オンス(1オンスは28グラムとなっていますが、自分で適当に好む量を見つけてください)、さらにコーラと氷を入れます。レモン汁をちょっと付け加えます。

モヒート:ヘミングウエイが好んだ飲み方のひとつ。
ハイボール・グラスに砂糖を小さじ半分、レモン半分の絞り汁を加え、ソーダを少し混ぜてかき回す。ミントの葉っぱ(私もキューバ産ミントの葉あり)を適当に加え、葉っぱをつぶさない様に茎を砕く。1-1/2オンスのカルタ・ブランカを注ぎ、かき回す。これも各自の好みで濃さを加減するとよい。

ダイキリ:これもヘミングウエイが好んだ飲み方。彼は、レストラン「フロリディータのダイキリ、ボテギータのモヒート」と記している。
 電気ミキサーに砂糖を小さじ半分、レモン半分の絞り汁、マラスキーノを数滴(これはあればの話)、1-1/2オンスのカルタ・ブランカ、適当に氷を加え、十分にかき回す。雪解状になればオーケー。シャンパングラスに注ぎ飲む。

ア・ラ・ロカ(オンザロック):7年ものの味をそのまま味わいたい方に。
ロックグラスに氷を適当に入れ、飲む量もダブル程度に適当に入れる。氷が解けながら、全体が冷えて、ゆっくり飲む。

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ヘミングウェイとキューバ

ノーベル賞作家ヘミングウェイは、一九三八年から六〇年までキューバに二十二年間住んだ。四〇年からは、ハバナ市郊外に「フィンカ・ビヒア」を購入し、釣りに、ハバナ市の散策を楽しむかたわら、創作に、専念した。この間世界の文学史の残る傑作、『誰がために鐘はなる』、『河を渡って木立のなかへ』、『老人と海』、『海流の中の島々』などを書いた。
 
 彼が第二の祖国と考えたキューバの何が、彼を魅了したのか。直接明確にそれを語ったものはない。一九二八年四月に最初にキューバを訪問したり、三二年に再度キューバを訪問したりした時は、釣りが目的だったと述べている。また、ヘミングウェイは、釣りの他にも、五七匹の猫、四頭の犬を可愛がり、ハイ・アライ(壁にボールを打ちつけて競うテニス)、闘鶏、射撃なども楽しんだ。しかし、キューバでの生活が深まるにつれて、キューバの風景、市民の生活、友人、ラム酒、食事の中で、キューバ全体を気に入って、創作に励んだのであった。
 
 ハバナでの生活では、シーフードのレストラン「フロリディディータ」やキューバ料理の「ボデギータ・デル・メディオ」を頻繁に訪れ、ラム酒のカクテルである前者の「フローズン・ダイキリ」と後者の「モヒート」をこよなく愛した。「ダイキリならフロディディータ、モヒートならボデギータ・デル・メディオ」とは、ヘミングウェイの言葉である。但し、彼のダイキリは、砂糖抜きであった。また彼は、中華料理店の「エル・パシフィコ」にもよく行った。現在これらのレストランは、維持されており、観光客が好んで訪れる場所となっている。
 
 ちなみに「フロディディータ」で発祥したのは、氷をかき氷じょうに粉砕し、ラム酒とカクテルにした「フローズン・ダイキリ」であり、ダイキリそのものは、前世紀末に東部のサンチャゴ・デ・クーバの「ダイキリ」鉱山の技師によって作られたものである。ヘミングウェイは、『海流のなかの島々』のなかで、このフローズン・ダイキリについて見事に描写している。

 「ハドソンは、フローズン・ダイキリをダブルで飲んでいた。バーテンのコンスタンテが作るこの酒は逸品で、アルコールの味が殺してあり、飲むほどに粉雪蹴散らしながら氷河をスキーで滑降する心地。六、七、八杯目にはザイル・パーティも組まずに氷河を急降下する心地」(沼澤洽治訳、新潮文庫)。
 
 ヘミングウェイが住んだ頃のキューバは、旧市街が手狭になり、西にベダード地区が発展し、美しい海岸通りマレコンが建設され、さらに西にアルメンダレス川を越えて新たな高級住宅街ミラマール地区まで延びていった時期であった。つまり、美しいハバナ市が活発に発展していた時期である。

 ノーベル文学賞の受賞の対象となった『老人と海』は、ハバナより二〇キロ東にある人口五〇〇〇人弱の小さな漁村、コヒーマルを舞台としている。小さな入り江が天然の良好となって、カリブ海の波風を防いでいる。ハイウェーが通っている高台から、海辺までなだらかな下り坂となっており、茶色の屋根と白い壁の綺麗な家屋がちらばっている。入り江の向こう側には小さな鮫処理工場があり、緑の木々が先端にまで延びて海に落ちている。昼間には波止場では子供たちが泳いだり、漁師が、漁具の手入れなどをしていたりする。夕暮れ時には、村人が子供を連れたりして散歩する。そこでは、時の流れさえ、緩やかなように思われる。ヘミングウェイの愛艇「ピラール号」の船長であった、グレゴリオ爺さんは、いまでも健在で、かつてヘミングウェイが良く立ち寄った、レストラン「テラサ」で今でも見かけることができる。
 
 ヘミングウェイは、革命前のキューバ共産党に最も多額のカンパをした外国人だったし、独裁者のバチスタの再三の食事の招待には決して応じなかった。キューバ革命については、「この革命が、人民にとってよい革命だ」として、当初から好意的な態度を示し、それを支持していた。六〇年ハバナに帰ってきた時、空港で、アルゼンチン人の記者に対し、「われわれは勝利するだろう。われわれキューバ人は、勝利するだろう」とスペイン語で述べ、さらに「私は、ヤンキーではないんだよ」と英語で付け加えた。
 
 ところでヘミングウェイは、フィデル・カストロ首相(当時)に一度だけ会っている。六〇年五月にハバナのフィッシング・コンペティションでのことで、それが最初で最後のことであった。カストロ議長は、後年、「ヘミングウェイは、最も好きな作家の一人で、『誰がために鐘は鳴る』は三回以上も読んだ」と述べている。そして、『人間は、破壊されることがあっても、屈伏させられることはないのだ』というヘミングウェイの言葉は、キューバ革命へのメッセージでもあると述べている。

参考文献
1.ノルベルト・フエンテス『ヘミングウェイ、キューバの日々』宮下嶺夫訳(晶文社、1988年
2.『海流のなかの島々』上下沼澤洽治訳(新潮文庫、1977年)
3.柴山哲也『ヘミングウェイはなぜ死んだか』(朝日ソノラマ、1994年)
4.G.ヘミングウェイ『パパ、父ヘミングウェイの想い出』森川展男訳(あぽろん社、1986年)
(2004年2月)


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キューバ医療最新事情

はじめに

 日本において、連日のように、「医療費の値上げ」、「緊急患者の病院たらいまわし」、「医師の過重労働」、「医師・看護師不足」、「医療格差」、はては「医療崩壊」までが語られ、報道されている。こうした実情からは、2000年のWHO(世界保健機構)のワールド・ヘルス・レポート(1997年時点の実態)で、医療制度の達成で世界第一と日本が指定されているが、何かの間違いではないかと思わされる。

 こうした日本社会にいる私たちにとって、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「シッコ」や、吉田太郎氏の『世界がキューバ医療を手本にするわけ』(築地書館、2007年)で、いわば理想的な対極の世界として描かれているキューバの医療事情は、大きな関心を呼び起こすものであった。

医療サービスを実現する条件

 筆者は、各国の医療サービスは、①すべての国民が医療サービスを受ける普遍性に基づく国民の高いヒューマンな医療理念があるかどうか、②その理念の実現を可能とする経済・財政・インフラ環境が社会にあるかどうかによって決まってくると考えている。上記の①、②のどちらが不足しても、医療サービスは満足すべきものとはならない。現在、米国や日本は新自由主義思想により①が破壊されているし、キューバは②が不足している。もっとも、①があるということは高く評価されなければならないが、経済・社会全体の困難な中で、国民の意識自体も①に少なからず影響を受けていることも事実である。

ところで、キューバの医療を報告する場合、善意によるものであれ、あやまった事実認識や、主観的評価が、少なからず見られるのは残念である。しかし、そうした認識は、変革の真の力とはならないのではないだろうか。それでは、現在の歴史的時点で、キューバの医療事情はどうであろうか、キューバ社会全体の中に位置づけて報告したい。

 キューバ革命のヒューマンな理念は、歴史的に見れば、1953年7月26日、当時のバチスタ独裁政権の打倒に立ち上がり、その後逮捕され、みずからの弁護を行った若きフィデル・カストロの陳述に凝縮されている。

このようなひどい悲惨な状態から解放されうるのは死でもってだけである。農民が死ぬことを助けているのは国である。農村の90%の子供は、はだしの足の爪を通って土地から入ってくる寄生虫により蝕まれている。社会は、一人の子供の誘拐や殺害のニュースに驚くが、このような何万何千という子供たちが、ものがないため、死の苦痛に苦しみながら毎年死んで行くという大量の殺害という罪には、許しがたいことに無関心である。無実な子供たちの目は、既に死が光り輝いており、人間の利己主義にたいして許しをこうているように、また、神の罰が人々の上に下されないように願って、無限のかなたを見つめているように見える。そして、一家の父が一年に4ヶ月のみ仕事をえるとき、どのようにして息子たちに衣服や薬を買うことができるであろうか。子供たちは、くる病患者のようにしか成長できず、30歳になっても口の中には一本たりとも健康な歯はない。何百万回という演説を聴くかもしれないが、結局は悲惨な状態で絶望して死んでいく。国の病院はあっても、常に満員で治療を受けられず、大物政治家の推薦でもってのみ、それは可能である。その政治家は、彼や彼の家族全員の投票を要求するが、キューバは常にこれまでどおりだし、あるいは悪くなるだけである。」(フィデル・カストロ『歴史は私に無罪を宣告するであろう』)

キューバの医療制度の確立

 この理念は、反バチスタ独裁ゲリラ戦争中に、実行され、ゲリラの解放区では、農民、捕虜に対し、無料で治療が施された。さらに1959年1月1日の革命勝利直後の223日、法律第100号により、農民技術、物資、文化支援庁が設立され、ほぼ無きに等しかった農村住民への医療活動が行われることとなった。同年、6000人の医師のうち、3000人が米国に亡命するという大きな痛手を受ける中で、19601月、法律第723号、地方社会医療サービス法を制定し、医学部卒業生に1年間(その後2年間となる)の地方勤務を義務付けるとともに、農村の医療サービスを無料とした。さらに同年5月にはすべての公共医療サービスを無料とした。その後、個人開業医は国有化せず、民間診療所の国営化をはかり、最終的には、1967年個人開業医を除き、医療サービスは国の管理に一本化された。

その後、革命の医療理念は、1976年に制定された憲法(1992年の改正)に、何よりも明確に現れされた。第50条には、「すべての国民は、医療を受け、健康を守る権利を有する。国は、この権利を保障する。医療、入院は無料とする」と述べられている。この権利の保障は、公共衛生法(法律第41号、1983713日制定)に規程されており、いかなる社会的差別も排除もない。さらに医療制度を支える医師、看護師、医療技術者の教育は、憲法第39条で「教育は、国の役目であり、無料とする」と制定されており、人的供給の持続性が保障されている。

キューバの医療制度の特色

 キューバの医療制度の特色は、①誰でも医療サービスを受けられる普遍性、②いつでも、どこでも医療サービスを受けられるアプローチ性、③地域の実情に根ざした地域性、④すべての経済的・社会的側面をカバーする総合性、⑤無料性にある、⑥発展途上国の医療サービスの発展に協力する国際性の6つの原則にある。根本の考え方は、予防医療にあり、これは、個人にとっても、国にとっても望ましい方法である。個人にとっては、まずは病気にかからないようにすることが第一であり、さらに病気になった場合でも病気が悪化する前に、適切な治療を受けられるし、国にとっては、それだけ治療費も安くつくからである。

国-県-基礎行政区の3段階に厚生省の医療機関があり、県は全国病院と総合診療所を、最小行政区は、総合診療所と家庭医診療所を指導している。これらの医療機関とともにこの予防医療を支えているのは、革命防衛委員会、キューバ労働者センター、小農協会、女性連盟などの大衆組織であり、これらの大衆組織の協力のもとで、キューバでは3日もあれば、全国民へのワクチン接種が可能だという。

医療理念を推進する財政的努力と医療体制の確立

 こうした原則的理念のもとで、発展途上国の財政困難なキューバではあるが、国内総生産(GDP)にしめる医療費・社会福祉の割合は24.1%で、医療費の割合は13.6%で、ヨーロッパの先進国並みか、それ以上である。国家予算における医療費の割合は、10%余で、革命勝利前の1958年の2倍となっている。

 このような財政的配慮のもとで、家庭医-総合診療所-全国病院という医療体制が確立されている。その基礎は、初期診療に携わる家庭医制度である。全国には、1万4千余の家庭医診療所があり、各家庭医は、約120140家族、500800人の地域住民の初期治療を担当している。一般には、1名の医師と看護師が勤務し、聴診器、注射器、血圧計など以外の医療機器は装備されていない。家庭医診療所で治療できない場合は、患者は近隣の総合診療所に紹介される。総合診療所は、一般に、内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、産婦人科、歯科などを抱えている。レントゲン、超音波診断装置、脳波計、心電計などの医療機器をそなえている。しかし、緊急の23日用のベッド以外には入院ベッドはない。入院の必要がある場合、患者は、上級の全国病院に送られる。もちろん、患者は、直接総合診療所や全国病院にいってもよい。ただし、総合診療所の場合は、各住民は診療所が指定されている。

総合診療所は、全国に498あり、平均2030の家庭医診療所を対象としている。総合診療所で対応できない難病は、213の全国病院に送られ治療される。こうしたピラミッド型の医療制度の中で、71千人余の医師(そのうち家庭医は33千人余)、1万人余の歯科医、94千人余の看護師・准看護師が働いている。人口10万人当たり、医師の数は636人、看護師の数は833人で、それぞれ日本のほぼ2倍に当たる。

 診察を受けるには、IDカード(身分証明書)見せればよく、診察料、治療費、食事代を含む入院費、入院中の薬代は国民すべて無料である。ただし、外来患者の薬代は有料である。もっとも、この医薬品には政府の補助金が出ており、薬にもよるが1週間分の薬で50円程度である(1ヶ月分賃金の3%程度)。なお、外国人はすべて、救急の場合の診察は無料であるが、容態が安定した後は、指定病院に移され、有料となるし、一般の診療の場合も有料である。

優れた医療指数

 以上のような医療制度のもとで、キューバは、優れた医療指数を達成している。千人当たりの乳児死亡率は5.3人(07年)で米国よりも低く、平均寿命は男性75歳、女性79歳で中南米でも有数の地位にある。小児麻痺、マラリア、ジフテリアは一掃されている。

 教育、医療に国が力を入れていることから、80年代からインターフェロン、バイオ・テクノロジーの研究も進んでいる。髄膜炎ワクチン、B型肝炎ワクチンなどは国際的にも商業化され輸出品目となっている。

 国際協力の面では、現在、81カ国で4万人以上の医療関係者(多くは医師)が海外で働いている。視覚障害者の手術を行う「奇跡計画」では、31カ国、100万人の患者を手術し、視力を回復している。199911月に開校したラテンアメリカ医学校では、現在米国やアフリカの国々も含む28カ国から1万人の学生が学んでいる。もっともすべてが無償協力ということではなく、ベネズエラ、南アなど、3分の2はバーター方式などで有償となっている。現在キューバの貿易収入の50%以上が、医療サービスの輸出となっている。派遣されている医師も国内で月200ドル程度積み立て預金されており、相応の報酬を受けている。

社会・経済の困難な中で

 しかし、現在、キューバの社会・経済は、90年代に入ってからの経済困難とその解決策としての経済改革の中で、かなり複雑な歪んだ状況となっている。医療インフラは、劣化しており、2001年から集中投資が行われ、全国病院、総合診療所の建物の改修、医療機器の更新が進められているが、資金の問題から、すべての病院、診療所を一斉に対象とすることはできない。少なからずの医療施設、機器が老朽化したり、故障したりしている。硬直化した輸入制度・流通制度から、医療資材の供給は、不安定で、不足するものも少なくない。

医師の賃金は、比較的恵まれたほうであるが、それでも月の必要な生活費の4分の1程度しか満たせない。そうしたことから、薬の横流し、診察・手術に伴う金品の受領や仲間主義の横行、闇歯科医の存在など、医療倫理・モラルの低下も見られる。設備と人的な面での医療サービスの質の低下が、国民の中で厳しく批判されている。

 医療制度の基盤となっている家庭医制度も、海外に3万人余の医師が派遣された結果、各家庭医は、かつての3倍の1500名から2000名を担当としなければならなくなっており、過重労働となっていたり、閉鎖されている診療所も少なからず見られる。そこで、最近、4月になって政府は、家庭医診療所の半数以上を閉鎖し、現状の医師の数に相応して、初期診療体制を再編成することを決定した。

 人の命を守り、救う行為は、もっとも民主主義的な行為ではないかと筆者は考えている。生きていれば、良いことも期待できるが、死んでしまえば、表現や、結社の自由など享受できないからである。そうした意味では、キューバ革命が国民すべてに医療を保障する政策を、いろいろな困難を抱えているものの、高い評価に値するであろう。

3月以降、ラウル・カストロ政権は、積年の深刻な社会・経済問題を解決するために、通貨、農業、市民生活の分野で矢継ぎ早に改革を進めている。社会福祉政策も、国民すべてが恩恵を受ける従来の生活物資への補助でなく、個人への補助に切り替える方針を打ち出している。そうした中で、キューバ国民は、これまでの高いヒューマンな意識、つまり連帯的で民主主義的な意識、平等性や普遍性、無料制度を維持しつつ、医療制度をどう再編成するか、革命勝利後の2度目の大きな課題に直面している。

2008412日)

帰国者の治療。患者は亡命キューバ人で、マイアミに居住。家族にあうため一時帰国中に心臓の調子が悪くなり、近所から緊急に来て応急処置を受けた。ここまでは無料。容態は安定したので、その後外国人専用のシラ・ガルシア病院に送られる。そこでは有料。 0803_10

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グアンタナモ米海軍基地とはなにか

現在、キューバにあるグアンタナモ米海軍基地に、380名のアフガニスタンなどの「テロ容疑者」が「違法適性戦闘員」として収容されています。この人々には、いかなる法律も適用されないで不当な虐待を受けているとして、米国の内外で非難されています。基地内の収用所の閉鎖をニューヨーク・タイムズ紙などは主張していますが、基地の閉鎖、キューバへの返還は問題とされていません。なぜ米国は、今もなお、キューバ領土内に軍事基地をもっているのでしょうか。

グアンタナモ米海軍基地は、キューバの東南部に、キューバ第二の都市、サンティアゴ・デ・クーバの東64キロメートルのところにあります。グアンタナモ湾は、天然の良港で、1494年4月30日、コロンブスは、第二次航海でこの深い湾に停泊し、プエルト・グランデと命名しました。その後、1500年海図製作者のフアン・デ・コーサが、先住民タイーノ族の酋長の名前を取って、グアンタナモと名前を変更しました。先住民は、この湾を「ホア」と呼んでいました。

その後、米国は、19世紀になって、キューバは、「熟れたりんごは、自然に重力の法則で地上に落ちるように、キューバも米国の領土とすべきだと」、キューバの併合を主張するようになりました。そして、米国は、1898年にキューバがスペインからの独立戦争にほぼ最終勝利を収めつつあるときに、この戦争に干渉し、キューバを占領し、居座りました。米国は、1901年キューバ共和国憲法が制定される際、その中に、「キューバの独立の維持のため」という名目で、「キューバは米国のキューバへの干渉権を認め、さらに海軍基地を認める」という憲法修正条項(プラット修正条項)をキューバに押しつけました。

しかし、米グアンタナモ基地の真の目的は、すでに1895年に5,000万ドルに達していた米国の投資を保護し、キューバへの支配を維持することと、予定されたパナマ運河への接近海路を確保することでした。米国は、米軍撤退の条件に、グアンタナモ基地の貸与を強要し、1903年5月22日に無期限の基地

貸与協定が締結され、同年12月10日、グアンタナモ湾に停泊している米軍艦の中で、基地引渡しの式が催されました。

1934年5月、ルーズベルト米大統領の善隣外交政策のもとでプラット修正条項が廃止されたあと、これを補うため、新条約が結ばれ、基地貸与が再度決められました。今度は、「米国が条約を廃棄するか、双方が廃棄を合意するまで基地の無期限の貸与が認められる」ことになりました。この条約にもとづいて、米国は、基地を維持しているのです。

米国側は、「1959年、革命が勝利したとき、カストロ政権は、以前のすべての国際条約を認めると発表した。したがって、政治的な議論は別として、グアンタナモ基地に関するこの1934年条約は現在も有効である」とみなしています。

一方、キューバ政府側は、「1934年のキューバ・米国関係条約は、前文で述べているように『両国の友好の絆を強化することを希求して』締結されたものであるから、1960年以来米国政府がキューバ敵視政策をとりつづけており、キューバが基地の返還を要求している現在では、その法的効力は有しない。また、いかなる軍事同盟にも属さず、外国の軍事基地も許さないというキューバ政府の非同盟政策とも、この存在は矛盾するものである」という立場をとり、基地の即時全面返還を要求しています。そもそも、海外の他国の領土に、その国の意思を無視して基地を維持することが不道理であることはいうまでもありません。

現在、グアンタナモ湾をはさんで117.6平方キロメートルの湾と東西の陸地が米海軍基地となっています。2500名の軍事要員を含め、約5000名が基地内で生活しています。基地は完全な自給体制をとっており、淡水化プラント、学校、娯楽施設などが備わっています。現在もキューバ人労働者が毎日基地に通勤しています。その数はかっては数百名いましたが、現在は50名程度に減少しています。その分ジャマイカなどからの労働者が働いています。基地の貸与料は、年間2000金貨ドル相当額で、米国は、毎年、現在の相当額約4000ドルの小切手をキューバ政府に送付しますが、キューバ政府は、革命勝利後一度も小切手を換金したことはありません。

ブッシュ政権は、2002年1月からアフガニスタンなどで捕虜とした「テロ容疑者」をグアンタナモ基地内の収容所に収監しています。最高時には、42カ国の595名が収監されていました。

ブッシュ政権は、グアンタナモ米軍基地は、米国の領土でなないので、米国の法律は適用されないとして、「テロ容疑者」の収容所での無法な拷問や虐待、無権利の裁判を行っています。この国際法、人権を無視した野蛮な行為は、広く国際的な非難を受けています。また、「テロ容疑者」は、兵士ではない「違法敵性戦闘員」で、兵士の虐待を禁止しているジュネーブ協定も適用されないという言い逃れを使っています。こうしたブッシュ政権の無法なやり方に対して、米国内外の世論は、グアンタナモ収容所の閉鎖を主張していますが、グアンタナモ基地内の収用所の閉鎖だけでなく、グアンタナモ基地の返還こそ、問題を根本から解決するものです。

(2008年2月22日)

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2009年1月 1日 (木)

キューバで出版されたスペイン語初訳の蟹工船

 いつ頃ハバナで買ったのか記憶にないが、今、日本で話題になっている小林多喜二の『蟹工船』のスペイン語版が、私の本棚にあるのが、ある日目についた。キューバについての論文の執筆のため、資料を調べていたときのことだ。スペイン語初訳と表紙にはうたってある。翻訳者は、リディア・ペレデイラとある。一体、彼女は、どういう人だろう、どういうことからこの本を翻訳したのか、など想像が次々と沸いてくる。

このスペイン語訳は、今から25年前の1983年にキューバのウラカン社から出版されている。中にはやはり多喜二の傑作『不在地主』も納められている。しかし、原本の書名、発行所も、著作権取得の表示もない。米国の経済封鎖で米国とキューバの間には著作権協定がないからだ。

内容を見ると、フランク・モトフジという人による日本のプロレタリア文学について、実に詳細で正確な序文が34ページ掲載されている。読者にとって親切な編集である。翻訳は、モトフジ訳の英語版からの重訳に違いないと推測して調べてみると、モトフジ氏の訳は、『加工船(Factory Ship)』というタイトルで1973年にワシントン大学出版から出版されていた。モトフジ氏は、太宰治、大江健三郎の短編を翻訳している日本の現代文学研究者である。

リディアさんの本は、『缶詰加工船(Barco Conservero)』というタイトルで、より原題に近い。重訳ではあるが、有名な冒頭部の『おい、地獄さ行(え)ぐんだで!』も、終結部の『そして、彼等は、立ち上がった。―もう一度!』も、方言のニュアンスまでは無理であり、訳されてはいないが、的確に読みやすく訳されており、訳者の並々ならぬ力量が伺われる。

今度、キューバに調査旅行に行ったときに会って、翻訳、出版の経緯、訳者やキューバ人読者の感想などを聞いてみたいと思って、日本語の新潮文庫の『蟹工船』や資料を準備してキューバに出かけた。 9月初め、夏の日差しが強い午後のひととき、ハバナの新市街にあるマンションに住む翻訳家のリディアさんを訪れた。

数日前に、数十年に一度といわれる大きな被害を及ぼしたハリケーン・アイクがキューバの西部地方を襲い、ハバナ市も直撃はされなかったものの停電地区が目立つ。リディアさんは、「電気もつけられないので申し訳ありません」といいながら、筆者を迎えてくれた。小柄で快活な知識人である。 

リビング・ルームの三方の壁には、リディアさんの好みのいろいろな絵が飾ってある。知的雰囲気を感じさせる瀟洒な空間だ。その奥には、書斎があり、リディアさんの仕事場である。リディアさんは、1939年にハバナ市で生まれ、革命前、ハバナ・ビジネス・アカデミーで英語を学んだ。革命勝利後、1960年9月、フィデル・カストロ首相(当時)が最初に国連総会に出席し、演説を行った際、代表団の通訳の一人として同行した。カストロをはじめ代表団が宿泊したハーレムのテレサ・ホテルでは、カストロへの電話の取次ぎ役を担ったということである。この折、カストロが初めてフルシチョフに会ったときにも同席していた。彼女は、同年12月、キューバ諸国民友好協会(ICAP)の創立にも参加した。国際活動が豊富な翻訳家である。

リディアさんは、1973年からキューバ国立出版公社で翻訳に従事し、1994年に定年退職するまで21年間勤務した。90年代に入り、最大の貿易相手のソ連圏の崩壊で、キューバが未曾有の経済困難に陥り、非常時が宣言され、出版事情は困難を極めるようになった。翻訳の仕事も激減したので、退職したとのことであった。その間、15冊にのぼる翻訳を出版している。その中には、『日本短編小説集』、ジョン・リードの『叛乱するメキシコ』、『マルコムX演説集』、ディー・ブラウンの『わが魂を聖地に埋めよ』、ローゼンバーグ夫妻の『歴史は私たちの名誉を回復するであろう(日本語題名、愛は死をこえて―ローゼンバーグの手紙)』などがある。

現在は、「ハバナ市歴史家事務所」の雑誌『OPUSアバナ』に編集委員として参加している。 早速、出版の経緯を聞いてみた。すると、1980年当初、キューバ国立出版公社でアジアのプロレタリア文学を出版しようという話が持ち上がり、美術・文学出版部責任者のマリア・テレサ・オルテガさんが、いろいろ読んだ中で、多喜二の『蟹工船』を選択した。彼女もまた英語の翻訳者であるが、翻訳部の友人のリディアさんに翻訳を依頼してきたという。悲惨な内容に引き込まれ、2ヶ月で翻訳したとか。しかし、印刷して出版されたのは2年後の83年だった。 

リディアさんは、出版責任者のマリア・テレサさんに出版経緯を聞くようにと電話をかけてくださった。テレサさんによると、「アジア、日本のプロレタリア文学の出版のため、いろいろ読んでみたが、多喜二の『蟹工船』は、中心人物がなく、集団が主人公という新しい文学を試みたもので、蟹工船内の海の男たちの生活は、感動的な自然主義文学であった。資本主義の残酷な現実を描いた素晴らしい作品で傑出していた。そこで編集会議にかけて認められた。5000部印刷したが完売した」という。

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読者の印象は、「蟹工船の資本家は、奴隷の主人よりももっと過酷に労働者を収奪するものだ」というものだった。 最後に彼女は、日本の若い読者へのメッセージを次のように送ってくれた。「新しい世代の人々が、この素晴らしい小説を読んで、より良い未来の建設のためにたたかうという多喜二の精神を引き継いでいただくよう願っています」。 

翻訳本の裏表紙には、本の紹介として次のように的確に述べられている。『蟹工船』は雑誌『戦旗』1929年5・6月号で発表されたが、単行本はほぼ即時に発禁となった。しかし、処女小説『1928年3月15日』で注目を集めていた小林多喜二(1903-1933)は、この作品により名声を高めた。著者は、中心人物がなく、集団が主人公という新しい文学を試みようとした。日本の蟹工船内の海の男たちの生活は、今世紀初頭のものである。感動的な自然主義文学となっている。小林多喜二は、日本のプロレタリア文学運動の最高峰である。その旺盛な創作、農民と労働者の解放への情熱的な献身、戦前の警察の手による若年の死は、そのことを示している。1947年以来、毎年日本全国でその死の記念活動が行われている。その他の作品として、『オルグ』、『安子』、『工場細胞』、『党生活者』がある。

2008年11月

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